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ウェブで社会を動かす?

八田真行駿河台大学経済経営学部教授
(写真:ロイター/アフロ)

一昔前、TwitterやFacebookを始めとするソーシャル・メディアが社会変革をもたらすのではないかと考えられていたことがあった。例えば、2011年前後には「アラブの春」が訪れ、長年鉄の支配を布いてきた中東の長期政権が次々と倒れていったが、その背景には、ソーシャル・メディアによる反政府運動の動員や組織化が影響したのではないかと言われていた(これには懐疑的な意見も多々ある)。

その後10年近く経って分かることは、ある意味当たり前かもしれないが、ウェブが社会を動かすこともあれば、動かさないこともあるということである。私の個人的関心事で言えば、アメリカにおいてやはり2011年に、SOPAPIPAという著作権保護を名目にしたネット検閲の法案を巡り、ネット活動家と著作権ロビーの間で熾烈な戦いが繰り広げられたのだが、結局SOPAもPIPAも廃案に追い込まれた。SOPAもPIPAも実に馬鹿げた代物だったので、潰れて当然と言う考え方もあるだろうが、一方2019年にもなって、EUでは同じくらい馬鹿げている著作権指令改正案が、もしかすると通ってしまうかもしれないという情勢になっている。静止画ダウンロード違法化を含む日本の著作権法改正案も、おそらくほとんど全ての専門家(別に知財に限らない)が批判し、当事者である漫画家や出版社も否定的で、ソーシャル・メディアでも活発に発信しているにも関わらず、政治論(?)とやらで危うく押し切られそうなところまで行った。今後どうなるかもまだ分からない。

また、近年のアメリカにおけるネット発の草の根政治運動として、オキュパイ運動ティーパーティ運動がよく挙げられるが、両者が辿った運命は対照的だ。オキュパイが事実上消滅、拡散したのに比べ、ティーパーティは変質しながらも、アメリカの政治にそれなりの影響力を保っている。

ウェブがらみに限らず、ある政治運動の成否の理由は、問題の種類、オーガナイザーの能力やカリスマ、資金力、あるいは単なる偶然など、いろいろ考えられるが、何か共通するポイントはあるのだろうか。2017年に出たトルコ出身のノースカロライナ大学教授、ゼイネップ・トゥフェックチー(Zeynep Tufekci)の著書「Twitter and Tear Gas」(邦訳「ツイッターと催涙ガス ネット時代の政治運動における強さと脆さ」Pヴァイン刊)が様々なヒントを与えてくれる。

研究者である一方、実際のデモ等の現場にも飛び込むトゥフェックチーの議論で面白いのは、シグナリングという話である。オスだけが大きくなる鹿の角は、生命維持という点では特に意味が無い装飾のようなものだが、立派な角を持つ鹿は、戦いに強く健康と見なされ、メスにアピールできる。本当は、角が大きいからといって別に強いとも健康とも限らないわけだが、そういうシグナルだと他の鹿に見なされているかどうかが問題なわけだ。

アラブの春やSOPA/PIPA反対運動のような、比較的初期のネット・アクティヴィズムが成功したのは、結局のところ誰もネットの性質をよく分かっていなかったからではないかと思う。権力側は、よくわからんがネットとかいうもので騒ぎになっている!というだけで浮き足だってしまったし(もちろんその前から社会的、経済的に行き詰まっていたということもある)、反体制派は、ネットで騒ぎになっている、すなわち広範な支持がある、と思って街頭に繰り出した。これはいわゆる自己成就的予言であって、本当に政権転覆まで行ったわけだ。どちらも立派な角を見て、本体もまた立派なのではないかと思い込んだのである。

しかし、その後だんだん分かってきたのは、ソーシャル・ネットワーク等でのオンライン政治運動は、見かけの規模と内実の乖離が激しいということだった。Twitterで何万リツイートされた、オンライン署名を何万集めた、といっても、それが政治的に意味ある形での動員につながるかといえば、案外そうでもない。ただマウスでカチカチクリックするだけの、実質的なコミットメントを欠くクリックティヴィズム、スラックティヴィズム(怠惰なアクティヴィズム)ではないか、というわけだ。

権力者にとって本当に怖いのは選挙、あるいは社会の不安定化だけである。その意味では、別にネット活動家が自分の選挙区にだけ多くいるというわけではないだろうし、オンラインで100万人集まろうが、1000万人集まろうが、それだけならどうでもいいということにもなる。ようするに、角の大きさと本体の強さが相関しているとは限らない、ということに権力側が気づいて、単に無視するようになったのだ。

思えば、ネットは社会運動にとってはヘリコプターのようなものだったのである。ヘリコプターがあれば、素人でもエベレストの山頂に降り立つことができる。しかし、登山家としての訓練を積んでいなければ、薄い空気にも険しい山道にも対処できず、そのまま立ち往生ということになるだろう。SNSは、社会運動がごく短期間のうちに巨大な規模に成長することを可能とし、それに皆が目を奪われたのだが、実のところ政策目標を実現するにはそれだけでは不十分で、依然として長期にわたる泥臭く粘り強い活動や、逆境に耐えられるだけのリソースが必要なのである。

その意味で、トゥフェックチーによれば、ネット・ベースの社会運動で成功しているものは3つのキャパシティ(力量)を備えているという。

一つは、「ナラティヴ」(narrative)キャパシティである。ナラティヴとは元々物語という意味だが、説明がなかなか難しい概念で、例えばオキュパイ運動の「我々は99%だ」や、MeToo運動の「#MeToo(私も)」、日本なら「保育園落ちた、日本死ね」といったものがそれに当たるだろうか。ようするにスローガン、ミームなのだが、単なるフレーズにとどまらず、その背景となるストーリーを人々へわかりやすく伝え、感情を揺さぶり、共感を得るような、何かである。そういったものを生み出す能力のある社会運動は、アテンション(注目)を集めることができる。アテンションは空気のようなもので、何はともあれアテンションが得られない運動は、そのうち窒息して死んでしまうのである。

二つ目は、「ディスラプティヴ」(disruptive)キャパシティである。disruptiveとは、破壊や混乱を意味する。本当に単なるオンライン運動ならば権力側は無視できるわけだが、無視できないように、粛々と進む物事を邪魔し、混乱させ、現状をそのまま維持させない能力が必要となるわけだ。デモや抗議活動、占拠、ボイコット、あるいはこれには異論もあるだろうが、Anonymousによるサイバー攻撃なども含まれるだろう。

三つ目は、「選挙/組織」(electoral or institutional)キャパシティである。言論や行動だけではやはり限界があって、 それをどうロビイングや資金調達、政治的駆け引きといったレアル・ポリティークにつなげ、政治的な足場を固めていくかというのが課題となる。スペインのポデモスや、イギリス労働党を復活させた草の根運動モメンタムなどが好例だろうか。オキュパイとティーパーティの明暗が分かれたのも、結局ティーパーティが共和党の予備選に候補者を立て、主流派の候補を続々と破ってディスラプションを起こし、送り込んだ政治家をまとめたフリーダム・コーカスを通じて政治的影響力を確保したのが大きい。

すなわち、オンラインでのプレゼンスという「角」はあくまでシグナルであって、その背後にこれら3つの能力がちゃんとあるんだぞ、ということを示せば、権力側も無視することはできないのである。ゆえに、こうしたキャパシティをどう育て上げるかが勝負になってくるわけだ。個人的には、ナラティヴやディスラプティヴ・キャパシティはもとより、特に選挙や組織化の側面において、情報技術を活用して社会運動を強化する余地がまだ多くあるのではないかと思っている。

ただ、トゥフェックチーも指摘するように、こうした能力やリソースは実のところ権力側のほうが充実していて、テクノロジーを駆使したネットでの「戦い方」についても急速に学習しつつある。例えば中国政府は、2015年の香港での抗議活動で暴力的な鎮圧を控える一方、カメラ付きのスマホを禁じたが、これはナラティヴを恐れたのである。最近ではやみくもな検閲ではなく、五毛党のように大量の偽情報をばらまいて一般大衆の関心をそらすということもやっている。

このように、ディスラプティヴや選挙/組織的キャパシティが育つ前に、検閲とアルゴリズムとマスメディアのコントロールでアテンション獲得を封じ込めて窒息させる、というのが最近の権力側の定跡になりつつあるが、これにどう対処するかというのが、今後のネット発の社会運動の大きな課題となるだろう。

駿河台大学経済経営学部教授

1979年東京生まれ。東京大学経済学部卒、同大学院経済学研究科博士課程単位取得満期退学。一般財団法人知的財産研究所特別研究員を経て、現在駿河台大学経済経営学部教授。専攻は経営組織論、経営情報論。Debian公式開発者、GNUプロジェクトメンバ、一般社団法人インターネットユーザー協会(MIAU)理事。Open Knowledge Japan発起人。共著に『日本人が知らないウィキリークス』(洋泉社)、『ソフトウェアの匠』(日経BP社)、共訳書に『海賊のジレンマ』(フィルムアート社)がある。

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