連載

この国に、女優・木内みどりがいた

「アベ政治を許さない」と書かれたプラカードを国会前で掲げた女優、木内みどりさん。その足跡をたどります。

連載一覧

この国に、女優・木内みどりがいた

一人娘から見た母親の姿 /51

「木内みどりさんを語りあう会」の会場に掲げられた木内みどりさんのパネル=田村玲央奈さん撮影
「木内みどりさんを語りあう会」の会場に掲げられた木内みどりさんのパネル=田村玲央奈さん撮影

 木内みどりさんは一人娘の頌子さんが子どもの頃、「塾に行きたい」と言うと、「どうして行きたいの? みんなが行くからってだけで塾に行っても何のためにもならないよ」と言っていたのだという。必ずしも大学に行く必要はないし、会社だって辞めたくなったら辞めていい――。「世間の常識」とは異なる考えの持ち主だった。【企画編集室・沢田石洋史】

お茶の間で有名な赤ちゃん

 1989年に頌子さんが生まれた時、テレビの情報番組や女性誌などは、当時38歳だった木内さんの「高齢出産」に沸いた。女性誌の見出しをいくつか抜粋すると――。

 「高齢出産、恐るるに足らず! 木内みどり 超スピード! 超安産で女児誕生 3530グラム」(女性セブン、89年6月15日号)

 「木内みどり 陣痛のさい中に洗たくもした! 産後13日で復帰のタフネスママ」(女性自身、89年6月27日号)

 「木内みどり 猛烈に痛かった出産。13日目には収録開始。愛娘の名前は“頌子”ちゃん」(週刊女性、89年6月27日号)

 見出しにまで登場した頌子さんは当時、有名な赤ちゃんだったといっていいだろう。2020年2月、東京・六本木の国際文化会館で開かれた「木内みどりさんを語りあう会」で、母親についてこんなスピーチをしていた。

 「みどりさんは、お母さんとして付き合うには、なかなか刺激的で、しんどい部分もありましたが、私にとってはお姉さんのようでも、妹のようでもあって、友達みたいで、すごく仲が良かったし、たくさんの話をしていました」

 母親のことを「みどりさん」と呼ぶのはなぜだろう。そんな疑問が頭をよぎった。スピーチはこう続いた。

 「亡くなってから、ふとした拍子に『こんな時、みどりさんだったら何て言うだろう』と思うことが増えて。そうすると、いかにもみどりさんが言いそうな言葉も思い浮かんできて、それにすごく励まされています。みどりさんの過激な真っすぐさというか、すごすぎる純粋さにやっと向き合えるようになったと思っています」

「ママと呼ばないで」

 私は木内さんの死後、頌子さんに会った時、「なぜ『みどりさん』と呼んでいたのですか」と真っ先に聞いてみた。

 「対外的にはお母さんとか母とか言うんですけど。本人に向かっては『みどりさん』と呼んでいました。母には小さな頃から『外国式の呼び方は、恥ずかしいからやめて。ママと呼ばないで。日本人なんだから』と言われ、中学生までは『お母さん』、高校生ぐらいから『みいちゃん』とか。そして、自分たちの関係性にフィットして『みどりさん』になった。自分がちょっと成長して、対等ではないですけど、やり取りが互角にできるようになって呼び方を変えたくなったのかもしれない」

 どんな母親だったのだろうか。そう尋ねると、幼い頃から抱いていた「理想の母親像」について話し始めた。

 「生きていた時は、もうちょっと『マテリアルな母』でいてほしかった。社長夫人や政治家夫人としての面もあったんだから、その喜びも素直に享受し、お買い物に行っておいしいものを食べて、ニコニコしている『ちょっとお金持ちそうなお母さん』がいいなって思っていたんです。学校の友達のお母さんはそういう感じの人が多く、うらやましく思っていました」

 現実はどうだったのだろうか。

 「でも実際の母は、ズタ袋みたいなバッグを持って、地下鉄に乗ってデモに行く。『なんか、そういうんじゃないんだよなあ』と思ったときもあります。どんなに仲が良くても、折り合いがつかない面もありました。私が悩みごとを相談すると、その場しのぎでもいいから『大変だね』と慰めてほしいのに、『もっと強くならなくちゃ』と真っ向勝負の正論が返ってくる。面倒なので、あまり相談はしないようにしていました。でも、映画や本の話をしたり、展覧会に一緒に行ったり、趣味が合っていくらでも会話をしていられる母と娘でした」

 教育には厳格な面があり、テレビは見ちゃダメと言われて育ったという。

震災以前から「普通ではない」

 母親が著名な女優であることは、意識していたのだろうか。

 「物心ついた時、テレビCMなどに出演しているのを見ましたが、常に忙しいというわけでもなかった。だから、あまり意識したことはないです。時々、出かけた先で『木内みどり』に気づく人がいると、『そういえば』と思い出すくらいです」

 木内さんは「2011年の東日本大震災と東京電力福島第1原発事故が、自分の生き方を変えた」と繰り返し述べてきたが、頌子さんの目にどう映っていたのだろうか。

 「母が、震災以前は普通の女性だったかというと、全くそんなことはない。ダライ・ラマ14世に傾注したり、いわゆる『ニコニコしたご婦人』みたいな感じではなかった。幼稚園のお迎えに来たあと、チベット仏教のお坊さんが砂曼荼羅(まんだら)を描いている場所に私を毎日連れて行く時期がありました。母は徐々にできあがっていく作品をずっと眺めている。当時の私は、早く帰りたいなと思っていた」

ダライ・ラマ14世との親交

 ここで木内さんとチベット仏教の最高指導者で89年にノーベル平和賞を受賞したダライ・ラマ14世との関係について紹介したい。木内さんの死を公表した数日後、本人から哀悼の意を記した手紙が届くほどの間柄だった。

 木内さんはダライ・ラマ14世が来日するたびにレセプションの司会を引き受けていた。国立国会図書館には、00年の訪日時の記録を収めたビデオテープ「ダライ・ラマ21世紀への提言」が収蔵されており、見ると、木内さんの姿も映し出されていた。

 このビデオのナレーションは木内さん、音楽は坂本龍一さんが担当。チベット亡命政府の所在地を映し出し、ナレーションはこう始まる。

 「インド北西部の街、ダラムサラ。ここには1万人以上のチベット難民たちが、いつの日にか祖国チベットへ帰ることを望みながら生活している。その中にチベット仏教の最高指導者がいる。ダライ・ラマ14世だ。非暴力によるチベット問題の解決を目指している」

 木内さんと夫の水野誠一さん、そして坂本さんの3人は01年、チベット文化の次世代への継承を支援するNPO「Norbulingka Japan(ノルブリンカ・ジャパン)」を設立している。木内さんは私のインタビューに、チベット文化圏に属するブータンを訪れた時の話をしていた。

 「ブータンでいろんな話を聞いてきました。チベット仏教の方たちは輪廻(りんね)転生を信じている。次に何に生まれ変わるかは、自分が生きている間に何をやったかによるから、『生きている間に徳を積みなさい』と教えられる。『困った人を助けなさい』と。亡くなったら骨を焼いて土まんじゅうにする。どれが誰の土まんじゅうか分からないように形は同じ。あとは水車小屋に置いておくだけ。ある人はぽんと捨てて、土に返る。普通の人がお墓を建てるのは『ぷっ』と笑われるぐらいおかしいことなんです」

 木内さんは生前から「死後の準備」を進めるにあたって、チベット仏教の影響を少なからず受けていたように思える。

亡くなる9日前に届いたメール

 木内さんが亡くなったのは19年11月18日だが、その9日前、木内さんから近況を知らせるこんなメールが私に届いていた。死後に分かったことだが、頌子さんと2人で海外旅行に出かけていた。

 <ウィーンとブダペストに7泊の旅行をしてきました。ハンガリー、わたしには69カ国目の国でした。70カ国目にはどこに行こうかと、もう、次なる旅行に想(おも)いを馳(は)せています。旅の準備をして、適切な安いフライト探し、気にいるホテル探し、行きたい場所探し、そのリストアップ優先順位。行く直前にはしっかりした旅のノートができています。この作業が大好きです>

 頌子さんにこの旅行のことを尋ねると、最初はインド行きを計画していたのだという。誠一さんが仕事でインドへの出張を予定していたため「親子3人で」と話を進めていたが、取引先の相手が急逝したため中止に。頌子さんは述懐する。

 「『じゃあ、行ったことのないブダペストに2人で行こう』と。母は観光客向けのツアーには参加しないタイプですが、めずらしく『ドナウ川の夜景クルーズに乗りたい』と言ったんです。クルーズ中はずっとデッキに出て、景色を眺めたり動画を撮ったりしていました。夜景は見事でした。両岸の歴史的な建造物がライトアップされてきらきらしている。川の水面は真っ暗です。ただ、11月のハンガリーはすごく寒いので、そろそろ室内に入りたいなと思っていたら、母が泣いていたんです。『お母さんが近くにいる気がする』と言って。母の、亡くなったお母さんのことです。私は『縁起でもないこと言わないで』と言って受け流しました」

死にゆく実母との「乾杯」

 ここで、木内さんの死生観に話を移したい。…

この記事は有料記事です。

残り4753文字(全文8352文字)

あわせて読みたい

この記事の特集・連載

アクセスランキング

現在
昨日
SNS

スポニチのアクセスランキング

現在
昨日
1カ月