渡哲也さんは「高倉健さんと双璧の一種美学の男」 脚本家の倉本聰さん寄稿
- ポスト
- みんなのポストを見る
- シェア
- ブックマーク
- 保存
- メール
- リンク
- 印刷
哲が逝った。
四十数年に及ぶ付き合いだったが、高倉健さんと双璧というべき一種美学の男だった。
彼とは日活映画でのほぼ同期である。といっても彼は最初からスターであり、僕はまだ売れないライターだった。
大部屋俳優たちから袋だたき
青山学院大の空手部の猛者だった彼は、日活撮影所に遊びに来て撮影所幹部の目に留まり、新人俳優としてデビューする。俳優なんて男の仕事ではない。いつでもやめたいと言っていた。
入社直後、態度がでかいと大部屋の役者たちに呼び出され、袋だたきの目に遭っている。彼は黙って殴られた。だがその翌日、青学空手部の部員たちを引きつれ、大部屋にのりこんで静かに言った。昨日殴ってくれた方たち出てください。勝負しましょう。しんとして誰も出なかった。渡伝説の第一章である。
石原裕次郎に傾倒
石原裕次郎にたちまち傾倒する。初めて食堂で会った時、裕ちゃんがわざわざ席から立ち上がり、丁寧にあいさつしてくれたことに一発でしびれてしまったからだという。更に僕に語った話では、自分の洋服を着なさいとプレゼントされたことが、駄目押しのように信奉者になった理由だという。後輩に対する裕ちゃんの態度にガンと打ちのめされ、その後の自分の指針とする。
日活時代に僕が付き合ったのは、「陽(ひ)のあたる坂道」(1967年)一本だけだが、NHKの大河ドラマ「勝海舟」(74年)を契機に深い付き合いが始まった。もっとも彼は重病を発症して途中降板を余儀なくされ、僕も直後に降りてしまった。それからの彼は宿命のように次々と病魔にとり憑(つ)かれるが、病気を抱えたまま奇跡のように復活する。何度か病院に見舞いに行ったが、その我慢強さは半端なものではなく、ただ一度聞かされた泣き言は、気管支鏡を挿入された時の苦しさで、あれだけはやるもんじゃありませんと言った。
本当のボクは「浮浪雲」
その後「大都会」(76~79年)、「浮浪雲(はぐれぐも)」(78年)と、何本かのテレビドラマでご一緒したが、殊の外、彼が気に入っていたの…
この記事は有料記事です。
残り997文字(全文1841文字)