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ヒロシマ勤務を経験した記者の大半は、広島カープの選手に好感を抱くようになるという。契約の条件が悪くても、練習に練習を重ねて技術の向上を目指す若者が多かったからだろう。広島育ちの私の“カープ愛”が、他県出身の記者に劣るはずはない。
1949(昭和24)年末、元陸軍西練兵場跡(現在の県庁用地)に集まったカープの選手に、他球団のレギュラー級は少なかった。巨人にいた白石遊撃手や松竹ロビンスの辻井捕手くらいのもの。あとは初めて名を聞く選手ばかりだった。
「カープ広島野球倶楽部」の看板を見たのは、原爆ドーム北側の広島商工会議所の焼けビル。広島の有力会社の経営者が協力して結成したらしいが、広島大の学生だった私に、スポーツニッポン新聞社の広島支局長がこぼしていた。どの会社の社長も、プロ球団の経営が分かっていない。某選手がカープ入りしてもよいとの意向だと知らせると、20代の若者に副社長と同額の給料を払うのはとんでもない、と尻込みする。これでは石本秀一と…
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