日本大百科全書(ニッポニカ) 「樺太・千島交換条約」の意味・わかりやすい解説
樺太・千島交換条約
からふとちしまこうかんじょうやく
1875年(明治8)5月7日、ロシアの首都ペテルブルグで調印された日露間の国境確定条約。千島・樺太交換条約ともいい、ロシアではサンクト・ペテルブルグ条約という。本文8か条、付属公文などよりなるが、中心は樺太(サハリン)に対する日本の領有権と得撫(ウルップ)島以北のロシア領千島列島とを交換した点にある。日露間の国境は、1854年(安政1)の日露通好条約第2条により、千島列島の択捉(えとろふ)島と得撫島の間とされたが、樺太については「是迄仕来之通(これまでしきたりのとおり)」となり、国境画定ができなかった。その後数度の交渉を経て67年3月、ペテルブルグで樺太島仮規則が調印され、樺太の日露両属の確認と両国人の全島自由往来などが約された。しかし、このころより樺太におけるロシアの南下が積極化し、亜庭(あにわ)湾の占拠、日本人漁民の基地クシュンコタン付近にまで駐営施設を設営するに至り、日露両国人の紛争が頻発するようになった。
明治維新以後、新政府においてはさまざまな論議がなされてきたが、開拓次官黒田清隆(きよたか)は樺太経営の不利益を説き、政府も1873年の征韓派下野により樺太放棄論に傾くようになる。朝鮮へのロシアの介入を警戒したこと、樺太ではロシアに対応できないことが認識されてきたためである。74年1月駐露公使に任命された榎本武揚(えのもとたけあき)は、ロシア外務省アジア局長スツレモフとの交渉を重ね、樺太・千島交換条約を成立させた。なお、この条約は日露戦争後に調印されたポーツマス条約で失効したが、現在では、いわゆる北方領土問題に関連して、条約の位置づけや内容が問題となっている。
[船津 功]
『木村汎編『北方領土を考える』(1981・北海道新聞社)』▽『石井孝著『明治初期の日本と東アジア』(1982・有隣堂)』