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糸魚川藩(近世)


江戸期の藩名頸城【くびき】郡糸魚川に居城を置いた小藩慶長3年春日山藩主になった堀秀治は,城の背後を固めるため,堀正家に糸魚川地方を守らせた正家は糸魚川の南方の根知の山城にいたが,次の城主堀政重の時に上杉遺民一揆のため城が荒らされたので,3代目の城主となった堀清重はこの山城を捨て,糸魚川の南郊に清崎城を新築し,慶長6年(11年ともいう)ここへ移った(糸魚川市史2)同15年松平忠輝が堀氏に代わって福島城に入ると,糸魚川に重臣松平信直を配置し,石高は1万6,500石(2万石ともいう)を与えた元和2年忠輝改易後,糸魚川地方は幕府領となったが,同4年高田藩主となった松平忠昌は,その付家老として美濃国から転じた稲葉正成(1万石)に糸魚川地方1万石を与え,正成は計2万石の知行主として清崎城に入った正成は忠昌に付属する陪臣で,いわゆる藩主ではない寛永元年松平忠昌が越前国北庄(福井)へ移封になると,正成は江戸へ退いた忠昌と入れ替わって高田藩主となった松平光長は,重臣の荻田氏(主馬・隼人・主馬の3代)を糸魚川城代とし1万4,000石を与えた延宝9年松平光長改易後はその遺領すべて幕府に没収され,糸魚川城(清崎城)も破却されて,糸魚川地方は代官支配となった元禄4年有馬清純(外様)が日向国延岡から糸魚川5万石に移封され,ここにはじめて糸魚川藩が成立したその所領は,幕府領を割いて与えられたもので,西浜七谷(糸魚川市・西頸城郡および上越市の桑取谷)のほとんど全域と,現中頸城郡の東北部,東頸城の東部にまで及んだという(中頸城郡誌)しかし,同8年越前国丸岡に移され,わずか3年半の短命な領主であったこのあとまたしばらく幕府領となり,元禄12年本多助芳(譜代)が出羽国村山から糸魚川へ入って再び糸魚川藩が立藩され,所領1万石で陣屋を構えた助芳の在封は,享保2年信濃国飯山へ転封するまで17年半続いた同年助芳に代わって,越前松平家の支流松平直之(親藩)が1万石(実高1万2,000石)をもって糸魚川藩主となり,以後廃藩置県まで直好・賢房・直紹・直益・直春・直廉・直静と8代続いた糸魚川藩といえば一般にこの松平氏時代を指すことが多い松平氏は江戸定府大名で,糸魚川町の西端に陣屋を置き,郡代(城代ともいう)が領内の統治に当たった藩領は,はじめ頸城郡内62村で,下美守【しもひだもり】郷15村・2,135石余と西浜47村・9,008石余に大別され,下美守郷15村とは鳥越・六万部・米山・福平・矢住・荒戸川沢・荒戸川沢新田・顕法寺・吉井・道ノ下・山口・深沢・谷内・手島・山中の各村,西浜47村とは能生谷5村・1,326石余(小泊・能生・木浦・鬼舞・鬼伏),早川谷8村・1,123石余(間脇・中浜・中宿・上覚・日光寺・道明・田屋・田伏),西海谷8村・1,846石余(大和川・竹ケ花・厚田・真光寺・羽生・平牛・押上・寺町),根知谷18村・3,033石余(大町・新屋町・七間町・横町・新田町・鉄炮町・寺島・上刈・大野・大野新田・根小屋・中・下沢・栗山・和泉・大工屋敷・横江・山口),川西谷8村・1,677石余(須沢・田海【とうみ】・寺地・中・中谷内・大谷内・川原・尻掛)からなる(糸魚川市史3)寛保3年高波の害を受けやすい能生村など17か村・3,000石を幕府に上知し,代わりに魚沼郡の幕府領のうち24村・2,886石余を与えられ,これに頸城郡内45村・9,278石余を合わせた実高1万2,164石余を領有することになった上知の村は頸城郡市振・上路・外浪・歌・青海・橋立・小滝・山の坊・大所・上覚・中宿・中浜・間脇・鬼伏・鬼舞・木浦・能生の各村と伝えられ,新知の村は魚沼郡大倉沢・東野名・三淵沢・須原・福田新田・大原新田・穴沢・平野俣新田・芋鞘新田・今泉・並柳新田・山口・泉沢新田・黒鳥新田・三ツ池・金ケ沢・片見沢新田・栗山・下田・長堀新田・宇津野・折立・折立又新田・西川口の各村であった(同前)さらに天保4年には魚沼・頸城両郡のなかで数か村・570石余の村替えが行われた「旧高旧領」での藩領は,北魚沼郡27村・3,143石余,中頸城郡15村・2,153石余,西頸城郡39村・7,770石余の合計81村・1万3,067石余(県史研究15)当藩は初めから財政難で,特に近世後期になると御用金・先納金などが頻繁に割り当てられ,領民への重圧は強まるばかりであったこういうなかで文政2年郡代黒川九郎治が町年寄松山察右衛門と結託し,藩の御頼金7,686両と割元取換上納分1,689両の計9,375両を領内に割り当てたことに端を発し,代表48人が出府して藩主松平直益に直訴し,一方糸魚川町では近郷数千の百姓が押し寄せて松山らの家宅を破壊し,陣屋に迫り,この結果,黒川郡代・松山町年寄ともに罷免されたこれを黒川騒動という明治2年の版籍奉還で藩主直静は糸魚川藩知事を命じられて帰国し,藩庁を清崎城跡(元治元年清崎の地を亀ケ岡と改名したが,明治2年また旧名に復した)に置き,清崎藩と改称した版籍奉還時における草高1万石,現石高5,520石同4年7月14日廃藩置県により清崎県となる




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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