元横綱・曙太郎さん、病室で「若貴がいたから横綱・曙が生まれた」と語っていた 思い出は優勝決定巴戦

入院中の曙(中央)に付き添う(後列左から)長男・コーディーさん、クリスティーン夫人、次男・カーナーさん(2018年撮影、家族提供)
入院中の曙(中央)に付き添う(後列左から)長男・コーディーさん、クリスティーン夫人、次男・カーナーさん(2018年撮影、家族提供)

 史上初の外国出身横綱として大相撲の歴史を変えた第64代横綱・曙太郎さんが54歳で亡くなった。平成の初頭、若花田(のちの横綱・3代目若乃花)、貴花田(同横綱・貴乃花)の若貴兄弟フィーバーで大相撲は空前のブームに沸いたが、その渦中でひとり横綱を11場所務めたのがハワイ出身の曙さんだった。2018年に入院中の曙さんを取材した記者が当時の記事を加筆修正して再録し、追悼する。

 2018年秋に都内の病院でリハビリに励んでいた曙を見舞った。車イスを自分の手で押してゆっくり進む。上体をつり下げてもらっての歩行訓練。記憶障害が残っているというが、横綱時代の番記者を忘れていなかった。あの時代を思い出すまま話していくと「懐かしい」「覚えてる」と笑顔を見せた。大きい声で身ぶり手ぶり質問していくと、長い返答にはならないが、付き添っている愛妻・クリスティーン麗子さんが英語を交えてアシストしてくれ、会話することができた。

 2017年4月、体調不良のままプロレスの九州巡業に。4月11日に福岡・大牟田市での試合後にホテルで胸が苦しくなり、翌12日朝、車で病院に行き、自分の足で診察室に入ったが、治療中に意識を失った。心不全で、心臓が37分間停止する重篤な状況に陥った。

 210キロあった体重が、一時は130キロまで減った。記憶はあいまいに。そして歩くことを忘れたかのように、足が動かせなくなった。当初は2人の息子を、自分の2人の弟、ジョージさんとランディさんだと勘違いしていた。クリスティーンさんはそれがショックだったが、少年に戻ったかのようなチャド(曙の米国名)を成長(回復)させることが妻の役割だと感じるようになった。大きな息子が1人増えたと思えば、明るい気分になれたという。

 「ここ何年かのプロレスのことは覚えてないんです。でも相撲のことは本当に懐かしんでます。強かった時代の話をしてあげてください」とクリスティーンさんに言われ、横綱時代のDVD映像を見ながら話を聞いた。“国民的兄弟”の若貴を圧倒した“曙時代”の「一番の思い出」は1993年名古屋場所での若貴曙3人による優勝決定巴(ともえ)戦だった。

 「あの時 若貴を倒した“正義の悪役”曙」と題した5回にわたる連載では、この優勝決定巴戦のほか、94年春場所千秋楽の二子山勢に1日3連勝などを振り返ってもらった。この1日3連勝は結びの一番で大関・貴ノ花を下し、優勝決定巴戦で大関・貴ノ浪、平幕・貴闘力(いずれも当時)に連勝している。無敵を誇った時代を懐かしみ「若貴がいたから横綱・曙が生まれた」と話していた。

 98年2月7日に行われた長野冬季五輪の開会式で、横綱土俵入りを披露したことも「うれしかった」と明確に記憶していた。まだまだ一緒に振り返りたい思い出はあったが、その後はコロナ禍による面会制限に阻まれたまま訃報に接した。永遠になった過去の取材ノートをじっくりとひもとこうと思う。(酒井 隆之)

スポーツ

×