1949年末、生き残りの秘策はスポーツ紙転身 GHQの目をすり抜けろ…創刊150周年 報知あの時(1)

1949年12月28日付「報知新聞」1面。中央に社告が掲載
1949年12月28日付「報知新聞」1面。中央に社告が掲載

 明治から令和まで5つの時代で発行を続けてきた報知新聞は今年150周年を迎えた。戦時中の新聞統制による読売新聞との合併、夕刊紙時代を経てスポーツ紙に生まれ変わるのは1949年末。日本はまだ戦後GHQ(連合国軍総司令部)の占領下にあった。なぜ1日の空白もなしに新聞のモデルチェンジができたのか。証言や史料を通して陣頭指揮を執った1人のキーマンの実像を浮かび上がらせ、「あの時」何か起きていたのかを解き明かしていく。

 もしスポーツ新聞に変わっていなければ、報知新聞はどうなっていたのだろうか。社史「世紀を超えて 報知百二十年史」(1993年)などにある記述は厳しい内容だ。

 政府による戦時下の新聞統合で読売新聞に吸収合併された後、4年4か月ぶりに報知として46年12月、夕刊「新報知」として復刊する。しかし、かつて東洋一とまでいわれた約70万部の部数は5万部にも届かない。1年もたたないうちに印刷代にも事欠き、従業員の「年末餅代よこせ運動」まで起きていた。

 そんな中、恐れていたことが起きる。49年11月、東京の有力紙が夕刊をスタートさせ、朝夕刊体制に入った。報知は息の根を止められたも同然だった。当時を知る元報知記者、田中茂光(93)=写真=は言う。「社内では『もう年を越すのも難しい』と覚悟する者も少なくなかった。でもプロ野球再編問題でその年冬にセ・パ2リーグ制が決まる。これが報知新聞の運命を変え、生き返らせたのではないか」

 これらの状況から、朝刊スポーツ紙に転じていなければ、報知は廃刊の道をたどった可能性が高い。モデルチェンジできたのも、読売新聞が援助し、支えたからだった。しかし、生まれ変わるにしても時間がなかった。

 スポーツ紙第1号はあと2日で新年を迎える1949年12月30日のこと。これが読者に伝えられるのは2日前の同28日。突然、1面の中央に社告が載った。社告は普通、一目で内容が分かるように作られる。それが、一番肝心な「スポーツ新聞に変わる」のフレーズはどこにもない。見出しも「スポーツ欄大拡充」と分かりにくいものだった。

 終戦から4年。日本はダグラス・マッカーサー率いるGHQの占領下にあった。紙の割り当ても新聞社ごとに決められ、検閲を通過しないと印刷できなかった。にらまれれば、紙がもらえない状況に陥る。新聞の“種類”が変わるというのを悟られずに一般紙のフリをして変身したのだ。

 社告に目を移す。「スポーツ・ニュース」「スポーツ随想」「地方スポーツ」と「スポーツ」の文字だらけにする作戦で勝負した。「スポーツ」の数、計20。確信犯的な“欠陥”社告で読者に伝わることを祈るしかなかった。1日の空白も設けなかったのも、疑いを持たれないためのGHQ対策だったと考えられる。

 ここが150年史の最も大きな転機だろう。しかし、報知社史はこの背景にあまり触れていない。一方で「読売新聞八十年史」には報知は姉妹紙とある。55年発行時は占領期は終わっていたが、「スポーツ新聞」という言葉を使わず「スポーツ、文化、芸能を主とした特殊紙に変わった」と“特殊紙”となっている。報知の苦境を熟知し、理解した上での表現であることがうかがえる。=敬称略=(編集委員・内野 小百美)

 ◆日本で4番目 〇…報知は、日刊スポーツ(46年3月、東京)、デイリースポーツ(48年8月、神戸)、スポーツニッポン(49年2月、大阪)に続き、4番目に誕生したスポーツ紙だ。報知以外は新しい新聞としてスタートした。GHQは日本人の戦意喪失と民主化推進でスポーツの普及を推奨。新興紙に対して寛大だった背景がある。

 ◆1949年には… 1月、法隆寺金堂が炎上。2月、第3次吉田茂内閣発足。10月、中華人民共和国建国宣言。11月、湯川秀樹がノーベル賞受賞。

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