センバツ全戦完封で日本一、静岡商伝説のエース田所善治郎さんの記憶

スポーツ報知
幼稚園から幼なじみの田所さん(左)と橋本さん

 しずおか報知では、「静岡あの時」と題して、過去の静岡スポーツの名勝負、名場面を随時紹介していく。「甲子園編」の第1回は、1952年春のセンバツ高校野球で初優勝した静岡商にスポットを当てる。史上3人目となる全試合(4試合)完封で日本一に貢献したエース・田所善治郎さん(元プロ野球・国鉄投手、85)と、幼稚園時代からの幼なじみで、5番・三塁手として大会では4試合連続安打を放った橋本喜史さん(85)に当時を振り返ってもらった。(取材・構成=塩沢 武士)

 遠い遠い記憶をたどるように、静岡野球界のレジェンド2人が、ポツポツと高校時代の思い出を語ってくれた。52年のセンバツ高校野球。田所さんが、4試合連続完封で、チームを初の日本一に導いた68年前の大会だ。県勢としては50年大会の韮山以来、2年ぶりの全国制覇。田所さんの全試合完封は、38年の中京商・野口二郎、40年の岐阜商・大島信雄に次ぎ史上3人目の快挙だった。

 橋本さん(以下橋)「やっぱり、初戦(2回戦、函館西=北海道=戦)がターニングポイントだったんじゃないかな。7回に無死満塁のピンチだった。そこをゼロに抑えて、その裏、ノーヒットで1点取った。よく勝ったよ」

 田所さん(以下田)「そう。無死満塁で1人目を三振に取って、次の打者のスクイズを外のドロップで空振りさせた(三塁走者を刺殺)。見破って外したわけではなかったけど、いいところにいってくれた。3つ目のアウトは、遊ゴロ。苦しい試合だったけど、あの試合で勝って波に乗った」

 7回裏は、四死球でつかんだ好機に敵失が絡んで先制し、その1点を守り切った。準々決勝の平安(京都)戦では、7回に3連続スクイズで3点を奪い、快勝。準決勝の八尾(大阪)に続き、決勝でも鳴門(徳島)を2―0で下した。

 「あの大会から、田所が急に制球力がよくなったなあ。それ以前は、それほどじゃなかった。大会で投げるたびに、自信がついてきたんじゃないかなあ。あと、平安戦の3連続スクイズで、全国に『機動力の静商』というイメージがついたと思う」

 「完封出来たのも、守備がしっかり、守ってくれたからね」

 準決勝の八尾戦では、橋本さんが7回に貴重な先制V打。今大会、4試合連続安打を放つなど打の殊勲者だった。

 「とにかく、甲子園はいいグラウンドだった。まだ、高校は砂利がいっぱいだった時代。こんな球場で試合が出来るのは最高だなって思いながらプレーしてたなあ」

 2人が、静岡商に入学してすぐだった。愛知・岡崎遠征で、その後、プロで400勝を挙げた偉大な投手に出会った。直接対決はなかったが、岡崎高との練習試合で投げていたのが、享栄商のエースの金田正一だった。左腕から投げ下ろす快速球を見て、高校のレベルの高さに驚いたのは今でも覚えているという。その3年後、センバツV腕として田所さんが国鉄スワローズに入団。金田とチームメートとなった。

 「初めて(金田を)見た時、電信柱かって思うぐらい大きかった。それは、すごい球を投げていた」

 「国鉄時代は僕の先生。高校時代は、真っすぐとカーブだけだった僕は、シュート、スライダーなど変化球の握りを全部教わった。怖い? いやいや。後輩には、すごく優しかった。当時のキャンプでも、自分で部屋に水を用意するぐらい体に気を使っていた」

 “お荷物球団”とも言われた国鉄で、プロ生活12年。56勝(83敗)をマークした。5年目の57年には、自身最多の15勝(21敗)を挙げた。この年は、金田に代わって初めて開幕投手を務めた。

 「後楽園の巨人戦。川上(哲治)さんに内角のスライダーを右翼ポール際に運ばれた。確か、その本塁打の1点だけ。0―1で負けた。今でも一番覚えている試合だね」

 2人が出会ってから約80年。同じ幼稚園に通い、焼津西小6の時、一緒に野球を始めた。焼津中から静岡商と進学。高校卒業後に一時は離ればなれになったが、今では2人とも、生まれ故郷の焼津で暮らす。田所さんは、少年野球チーム・「リトルハヤブサ」の代表として小学生たちに野球を教える。橋本さんは、焼津市野球連盟会長や焼津市体育協会会長としてスポーツに関わっている。「2人とも野球にここまで育ててもらった。スポーツとは切っても切れない関係だね」と、うれしそうに口をそろえた。かつての高校球児も、今は85歳。まだまだ、元気いっぱいだ。

 ◆田所 善治郎(たどころ・ぜんじろう)1934年7月17日、焼津市生まれ。85歳。小6で野球を始めた。静岡商からプロ野球・国鉄に入団。現役12年間で391試合を投げて56勝83敗。家族は長男と孫2人。171センチ、50キロ。右投右打。

 ◆橋本 喜史(はしもと・よしのぶ)1934年5月19日、焼津市生まれ、85歳。小6で野球を始めた。静岡商から法大に進学。大学の野球部は2年で辞め、卒業後に家業の橋本組に入社。家族は夫人と2男に孫5人。167センチ、59キロ。右投右打。

 ◆静岡商硬式野球部 1928年(昭和3年)創部。甲子園は春6回、夏9回出場。52年センバツで優勝。夏は54、68年に2度の準優勝がある県内高校野球界を引っ張ってきた名門。主なOBに、藤波行雄(元中日)、大石大二郎(元近鉄)、新浦壽夫(中退、元巨人)らがいる。

 ◆1952年の出来事 ヘルシンキ五輪が行われ、日本のメダルは金1、銀6、銅2だった。ボクシングでは白井義男が日本人初の世界王者に。夏の甲子園では、決勝で芦屋(兵庫)が八尾を4―1で破り初V。プロ野球では、巨人が初の1000勝を達成した。月刊誌「少年」では、手塚治虫の「鉄腕アトム」が連載開始。国会中継の放送がスタート。歌謡曲では、テネシー・ワルツ(江利チエミ)やリンゴ追分(美空ひばり)がヒットした。

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