ジャニー喜多川さん死去 たのきん&SMAP&嵐など生みの親…最期まで“生涯現役”

スポーツ報知
 

 ジャニーズ事務所のジャニー喜多川(本名・喜多川擴=きたがわ・ひろむ)社長が9日午後4時47分、解離性脳動脈瘤(りゅう)破裂によるくも膜下出血で亡くなった。同事務所が発表した。87歳だった。先月18日に都内病院に救急搬送され、その後の懸命な治療も実らなかった。男性アイドルというジャンルを確立し、戦後日本の芸能界の発展に大きく貢献。2011年には「最も多くのコンサートをプロデュースした人物」など3つのギネス世界記録に認定された希代のプロデューサーだった。

 日本の芸能界に男性アイドルというジャンルを確立し、一大帝国を築き上げたジャニー氏。あまりに大きな巨星が散った。所属事務所は「最愛の子供たちの愛に包まれながら、ジャニー喜多川は、人生の幕を下ろしました」と最期の様子を明かした。

 先月18日に自宅で体調の異変を訴え、病院に向かおうとしたところで意識を失い、そのまま救急搬送。一時は一般病棟に移ることもできたという。今月1日に病状が発表された際には、嵐の松本潤(35)が、声を震わせながら「一日も早く元気に回復してくれることを祈っています」と心境を吐露。タレントやジャニーズJr.の少年たちが病室でジャニー氏の好物を食べ、思い出を語り合い、容体が一時的に回復するという奇跡もあった。だが“子供”たちの声と思いは届かなかった。

 最後まで“生涯現役”を貫き日頃から「僕が一番(芸能界で)古いんじゃないか」と誇らしげに語っていた。倒れる前日も、Jr.の稽古に立ち会っていた。プロデュースを手がける舞台すべて、稽古から本番まで毎日、劇場に足を運んだ。「僕も毎日勉強」と軽やかな口調で語っていた。

 晩年は体調不良を繰り返し、最近は車いすで移動することがほとんどだったが、頭脳や意欲は最後まで衰えなかった。17年5月に一部で“死亡説”が取り沙汰された際は「死にませんよ、絶対に」と笑い飛ばした。

 高野山真言宗の僧侶だった喜多川諦道(たいどう)氏を父に持ち、1931年に米ロサンゼルスで生まれた。2歳の時に一家は帰国するが、戦後、姉で副社長の藤島メリー泰子氏(92)と再び渡米。美空ひばりさんの米公演のコーディネートをしたことなどをきっかけにエンターテインメントの世界にのめり込んだ。1952年に徴兵され、朝鮮戦争にも従軍。戦争孤児となった子供たちに英語を教えるなど、1年2か月の兵役の後、軍事援助顧問団の事務職員として来日。東京の米国大使館に駐在しながら少年野球チーム「ジャニーズ」を結成し、この中の4人がジャニーズ事務所第1号グループに。経営は姉のメリー氏に任せ、自身はタレント育成で希代の才能を発揮した。

 郷ひろみ、たのきんトリオ、少年隊、光GENJI、SMAP、嵐ら手掛けたアイドルはいずれも時代を代表するスターとなった。目をかけたJr.をデビューさせると、すぐに次のスター候補の発掘、育成に取りかかり、途切れることなくアイドルを送り出した。世代を超えた“ジャニーズブランド”を築き、「ジャニーズ系」という言葉も生まれた。

 昨年、滝沢秀明(37)が芸能活動を引退し、自身のサポート役としてJr.の育成や舞台制作に専念することになった時は「うれしくて涙がこぼれそう」と語っていたが、最後まで現場に生きた。生後まもない32年ロサンゼルス五輪、初代「ジャニーズ」がデビューした64年に東京五輪を間近に触れ、東京五輪にも並々ならぬ思いを抱いていたが、最後の夢はかなわなかった。

 ◆解離性脳動脈瘤(りゅう)によるくも膜下出血 動脈瘤は脳動脈の中でも脳底部を走行する直径1~6ミリ程度の血管にできたコブで、円柱状で中心が太く両端がしだいに細くなった部分を指す。脳の正常な動脈は内弾性板(内膜)、中膜、外膜という3層構造に分かれ、正常な内弾性板は一番圧力に強いとされるが、ほとんどの動脈解離は内弾性板に大きな裂け目が生じ、中膜の中に血流が進入する。くも膜下出血は激しい痛みを伴うのが特徴。後遺症を伴う場合もあり、手術をしないと死亡率は70%に及ぶとされる。

 ◆ジャニー喜多川(本名・喜多川擴=きたがわ・ひろむ)1931年10月23日、米国生まれ。62年にジャニーズ事務所を創設し、75年に法人化させた。2011年、ギネス・ワールド・レコーズが「最も多くのコンサートをプロデュースした人物」と「最も多くのナンバーワン・シングルをプロデュースした人物」に、12年にも「最も多くのチャート1位アーティストを生み出したプロデューサー」としてギネス認定受けた。姉の藤島メリー泰子氏、めいの藤島ジュリー景子氏は同社副社長。

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