2021.08.15
# 戦争

【戦争秘話】「徹底抗戦論」はアメリカに向けた和平を促すためのメッセージだった

大西瀧治郎中将の遺書・後編
神立 尚紀 プロフィール

「徹底抗戦によって和平を求めた」

そこで門司に思い当たるのが、フィリピンから引き上げ、沖縄戦を控えた昭和二十年三月、大西が台湾の各基地をまわって訓示をしたときのその内容である。

一連の訓示のなかで、大西は、

「敵を殺せ」

と、連呼するように何度も言った。これは、味方に向けてではなく、敵、とくにアメリカ軍に対するメッセージだったのではないか、と思えてならないのだ。

このとき、訓示を聞いた毎日新聞社の戸川幸夫記者(戦後、直木賞作家となる)が無検閲で内地に送った記事を、大西は咎めなかった。新聞記事が、中立国を経て敵国にわたったときの効果を、大西は期待していたのではないか。

海軍省軍務局員だった中山定義中佐は、海軍出身代議士との会食に陪席したさい、

「本土決戦にあたって、内地にはまだどれだけ各種の特攻隊がいるかわからない。米軍はきっと、本土上陸の前に、何か講和の手を打ってくるに違いない。特攻を盾に徹底抗戦を唱えるのは、日本の抗戦論者に対する配慮も当然あるが、連合軍に対して言っているのだ」

という話を大西から聞かされたと、門司に語っている。

軍令部が弱気を表に出せば、敵はますます調子に乗ってくるだろう。大西は、徹底抗戦を叫ぶことで、本土決戦以前に、和平とまではいかなくても、先方から何らかの形で講和の呼びかけが出てくることを期待した。簡潔にいえば、「徹底抗戦によって和平を求めた」のである。そして、その手段は、ありとあらゆる特攻戦法であったのだ。

 

大西は、前記のいわば公的な遺書のほかに、妻・淑惠宛の遺言ともいうべき遺書を遺している。この遺書にも、日付は書かれていない。

〈瀧治郎より
  淑惠殿へ
 吾亡き後に處する参考として書き遺す事次乃如し
 一、家系其の他家事一切は淑惠の所信に一任す
    淑惠を全幅信頼するものなるを以て近親者は同人の意思を尊重するを要す
 二、安逸を貪ることなく世乃為人の為につくし天寿を全くせよ
 三、大西本家との親睦を保続せよ
    但し必ずしも大西の家系より後継者を入るる必要なし
                       以上
 之でよし百萬年の仮寝かな〉

大西は、兵庫県丹波の生まれで、淑惠は東京生まれ。子はない。そんな事情から、大西が淑惠を思いやる気持ちがうかがえる。

大西瀧治郎、淑惠夫妻。大西が中将に進級後の昭和18年5月以降、上落合の自宅で撮られたものと思われる。

淑惠宛の遺書には「直披」とある。〈之でよし百萬年の仮寝かな〉は、大西の辞世としてよく紹介されるが、公的な遺書とは別に淑惠へ宛てた「直披」であることを考えると、これを「辞世」と呼ばれることに、門司は違和感を覚えている。

もう一句の「すがすがし 暴風のあとに 月清し」は、色紙に書いて柱に貼ってあるのを、自刃の一報を聞いて駆けつけた児玉誉士夫(こだま よしお)が見たということから、自刃の直前に書かれたもので、この夜の心象を率直に描いた句であるとみてよい。昭和20年8月16日の月齢は7.7で上弦の月である。これは軍令部から次長官舎に戻る途中、南の空に浮かんでいる月を見上げたか、国定少佐らが帰るのを見送りに出たとき、西の空に沈みかける月を見たか、どちらかであろう。

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