前輪駆動の衝撃(1934年)

よくわかる 自動車歴史館 第33話

トラクシオン・アヴァンは技術用語

1934年製の、最初期のシトロエン7CV
1.9リッターエンジンを搭載した11CV。写真は1938年製のカブリオレ
1938年に登場した15CV SIX。トラクシオン・アヴァンの中では最大排気量となる、2.9リッター直列6気筒エンジンを搭載したモデルである

1934年、シトロエンはトラクシオン・アヴァンを発売した。当時としては極めて先進的な機構を持つモデルで、他の自動車メーカーにも大きな影響を与えた。ただし、この名前は正式名称ではない。意味は“前輪駆動”である。実際に発売されたのは7CVという名の乗用車で、後に1.9リッターエンジンを搭載する11CVが加わった。さらにいくつかのバリエーションが登場して戦後も生産が続けられ、1957年までに70万台以上が生産されている。

素っ気ない技術的用語が愛称になったのは、当時は前輪駆動が非常に珍しいものであり、この技術を採用したことで大きなアドバンテージを得たからだ。主流だった駆動方式は、エンジンをフロントに搭載して後輪を駆動するFRだ。1891年に “システム・パナール”が登場し、1910年頃にはほとんどのクルマがこの方式を採用するようになっていたのである。

自動車が誕生した時点ではリアにエンジンを置いて後輪を駆動するRR方式がとられていたが、騒音や振動の面で大きな問題を抱えていた。エンジンを前に出し、クラッチとギアを介して後輪に駆動力を伝えるレイアウトにより、問題点を解消してさらにボディーを低くすることにも成功した。当初はベルトとチェーンによって動力を伝えていたが、ルノーがプロペラシャフトで駆動する方式を採用してからはそれが広まっていった。

これにより、さまざまなメリットが生じた。エンジンを前に出すことで冷却性が向上し、整備も容易になった。前後輪の重量配分の自由度が高まったことも、設計上で有利に働いた。ただし、車体の真ん中に長いプロペラシャフトを通すことで大きなトンネルが必要となり、スペースに制約が生じた。また、重量増もデメリットの一つだった。

キュニョーの砲車も前輪駆動

キュニョーの砲車(提供 トヨタ博物館)
フェルディナント・ポルシェが開発した電気自動車「ローナーポルシェ」
DKW F1

FRの優秀性は誰もが認めていたが、さらに優れた技術を求めて試行錯誤が繰り返されていた。早くも1890年代後半に、オーストリアのグレーフ兄弟とシュティフトがド・ディオン・ブートンのエンジンを用いてFF車を試作している。ただ、技術的には未熟でさまざまな問題が生じたらしく、1台のみが作られたにすぎない。1907年にはアメリカのクリスティが大排気量のエンジンをクルマ前端に横置きし、前輪に直結するというモンスターマシンを製作している。

自動車の歴史の中でFFが現れたのは、それよりはるかに昔のことである。そもそも、1769年に作られた初の蒸気自動車であるキュニョーの砲車は、最前端に巨大なボイラーを配し、ラチェットを用いて前一輪を動かしていた。ド・ディオン・ブートンもFFの蒸気自動車を製作している。初期の電気自動車にもFFは多く、フェルディナント・ポルシェ博士の手がけたローナーポルシェも、インホイールモーターで前輪を駆動している。

1925年、アメリカのハリー・ミラーはレーシングドライバーのジミー・マーフィーの依頼でFFのレーシングカーを製作した。このマシンはインディ500に出場していきなり2位を獲得し、その後も好成績を残している。実績を買われて乗用車の設計を頼まれて作ったのが、コードL29である。5リッターの直列8気筒エンジンを搭載した流麗なスタイルのモデルだったが、駆動力不足という問題を抱えていた。

フランスで前輪駆動車の研究を続けていたのが、ジャン=アルベール・グレゴアールだった。彼はピエール・フナイユと組み、1926年にFFレーサーのトラクタ・ジェフィを製作した。トラクタとは、Traction Avantを略したTractaという造語である。1927年のルマン24時間レースに出場して完走したことが評判を高め、量産仕様のトラクタが1932年までに数百台作られた。

グレゴアールの協力を得てFF車を製造したのが、ドイツのDKWである。オートバイメーカーだったDKWは1931年に490ccの水冷2ストロークエンジンを横置きにしたF1を発売し、四輪自動車のメーカーとなった。また、アドラーもグレゴアールの助力でトルンプフを開発した。

習得した技術で独自モデルを開発

アンドレ・シトロエン
トラクシオン・アヴァンは、フロントのサブフレームにパワート
レインやフロントサスペンションを取り付け、それを車体に取り
付ける設計となっていた
ロングホイールベース車である11CVファミリアーレの後席。FF
車ゆえにセンタートンネルが不要で、写真の通りフロアを真っ平
らにすることができた
トラクシオン・アヴァンの生産ラインの様子
工場から出荷される最後のトラクシオン・アヴァン。隣に写る新
型車のDSも、駆動方式にはFFを採用していた

シトロエンは、1919年に自動車の製造に乗り出した若い会社だった。もともとはヘリカルギアの製造を行っていて、エンブレムのダブルシェブロンはその歯の形をかたどったものである。創業者のアンドレ・シトロエンは、先進技術を取り入れることに力を注いでいた。オールスチールボディー、四輪ブレーキなどのテクノロジーをいち早く採用したのがシトロエンだった。DKWやアドラーの製品を見て、シトロエンもFF車の開発を志す。ヴォワザンにいたエンジニアのアンドレ・ルフェーブルが入社し、構想を実現する体制が整った。

7CVが進んでいたのは、前輪駆動を採用したことだけではなかった。パワートレインがフロントに集中したことによってフレームの必要が薄れたと考え、モノコック構造を取り入れたのだ。これによって軽量化と高剛性化などのメリットも手に入れ、プロペラシャフトがないこともあって低床化も可能になった。フロントはトーションバー式のダブルウィッシュボーン、リアはリジッドだがラジアスアームを使った半独立タイプのサスペンションを採用した。重心が低く、直進安定性に優れるという点では、当時の水準をはるかに超えるモデルに仕上がっていた。

生産工程の面でも、この構造は有利だった。サブフレームにエンジンとトランスミッション、フロントサスペンションを取り付け、これをモノコックと合体させるというシンプルな方法が取れるようになったのである。ホイールベースの設定を変えるのが容易で、小型乗用車から3列シートのモデルまでをカバーすることができた。

しかし、トラクシオン・アヴァンも前輪駆動車特有の問題点を克服できていなかった。設計上で障害となるのが、ドライブシャフトだった。大きな折れ角に対応するため、等速ジョイントを用いる必要がある。FRで使われるプロペラシャフトもサスペンションの動きに対応するためのユニバーサルジョイントが使われていたが、FFのドライブシャフトではもっと精度の高い機構が不可欠だった。プロペラシャフトなら大して大きくはならないが、前輪では操舵(そうだ)で大きな折れ角が生じてしまう。

FRで使われていたカルダンジョイントは不等速で、走行中に大きな振動が生じる。グレゴアールが開発したのがトラクタジョイントで、小型で作りやすかったが摩耗が大きいのが欠点だった。トラクシオン・アヴァンも当初はこの機構を採用したが、耐久性が低いことからクレームが多く、ダブルフックジョイントに変更した。車内スペースが広く操縦性の優れた7CV/11CVは前輪駆動車の代名詞的存在となり、トラクシオン・アヴァンと呼ばれるようになった。

トラクシオン・アヴァンは時代を先取りしたクルマで、その後シトロエンの生産モデルのほとんどがFFとなった。戦後になると前輪駆動を採用した小型車が続々と登場し、FFはスタンダードな技術となっていく。トラクシオン・アヴァンが果たした役割は大きいが、このモデルはシトロエンを倒産の危機に追い込んでもいる。工場を新しく作りなおすためなどに莫大(ばくだい)な投資が行われ、資金繰りが悪化したのだ。アンドレ・シトロエンは経営をミシュランに譲り、翌年病死している。果断な新技術の追求が生んだ悲劇だった。それでも、戦前の自動車会社が次々に消滅する中でシトロエンが生き残ることができたのは、前輪駆動の技術を蓄えていたことが理由だったのも確かなのだ。

1934年の出来事

topics 1

自動車製造が日産に改名

1934年6月1日、鮎川義介を社長とする日産自動車株式会社が誕生した。日産という名は鮎川が経営していた日本産業にちなんで名付けられたものだが、ここに至るまでには、長い前史がある。

1911年、橋本増治郎は東京・麻布に快進社を創立。田健治郎、青山祿郎、竹内明太郎の協力を得て自動車を開発し、1914年の東京大正博覧会にV型2気筒エンジンを搭載する脱兎号(DAT Car)を出品した。DATとは、協力者3人のイニシャルを並べたものだ。その後不況や関東大震災の影響で経営が悪化し、1925年にダット自動車商会に改組する。

一方、大阪では1919年に実用自動車製造株式会社が設立された。1921年にアメリカ人技師の協力を得てリラー号を試作したが、こちらも事業化はなかなかうまく進まず、1926年にダット自動車商会と合併してダット自動車製造株式会社が生まれた。この会社は、1931年に戸畑鋳物の出資を受け、傘下となる。戸畑鋳物の社長が、鮎川義介だった。

1933年にはダット自動車製造と石川島自動車製作所が合併し、自動車工業株式会社となる。戸畑鋳物はダット大阪工場を買収し、自動車工業からダットサン製造権を譲り受けて戸畑鋳物自動車部を発足させた。その後、乗用車生産を本格化させるため日本産業との共同出資で自動車製造株式会社を設立。翌1934年の株主総会で改称が決まり、日産自動車となった。

1944年に日産重工業株式会社に商号変更されたが、1949年にもとの日産自動車株式会社に戻っている。

topics 2

タトラがT77を発表

タトラT77

タトラは1850年にオーストリア・ハンガリー二重帝国に設立された馬車製造会社がもととなっている。1897年に自動車製造を開始し、1927年にタトラ工業株式会社と改称された。1935年にはプラハに本社を移している。

タトラの技術開発の中心となったのは、ハンス・レドヴィンカだった。彼が作ったモデルSはSOHCエンジンを採用していて、強力なパワーを誇っていた。このモデルは商業的成功を収めたが、レドヴィンカは上層部との折り合いが悪くなって退社し、シュタイア社に移る。

第1次大戦後の1921年にレドヴィンカは復帰し、T11、T17などの乗用車を開発した。バックボーンフレームやスイングアクスルといった新しい技術を多く採用し、極めて先進的なモデルを生み出していった。

レドヴィンカはRR方式に興味を抱き、研究を進めていた。1934年にプラハ・オートサロンで発表されたT77は空冷のV8エンジンをリアに搭載しており、FRが常識だった大型高級車の中で特異な成り立ちだった。ボディーは流線型で、リアのエンジンフードは背びれのような形状になっていた。あまりに斬新な姿とテクノロジーは大きな反響を呼んだ。

同年に開催されたベルリン・モーターショーにも出品され、カーマニアのヒトラーはタトラブースを訪れ、レドヴィンカに詳しく話を聞いている。国民車構想を実現するためにレドヴィンカを起用するプランもあったといわれるが、最終的にフェルディナント・ポルシェが選ばれた。

topics 3

ヒトラーがドイツ総統に

アドルフ・ヒトラーは画家を目指していたが成功せず、1914年に兵士となった。第1次大戦に従軍するが、負傷で野戦病院に入っている間に終戦を迎える。

彼は政治の世界に身を投じ、ドイツ労働者党に入党する。1920年に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)と改名され、分派闘争を経てヒトラーは党の実権を握る。ミュンヘン一揆で投獄されるものの、彼は大衆の人気を得てナチスは国会でも勢力を伸ばしていく。

1932年にはナチスは37.8%の得票率で230議席を獲得し、第1党となった。1933年、ヒトラー内閣が発足する。彼が議会を解散した直後に国会議事堂放火事件が発生し、それを共産主義者の仕業だとして弾圧が行われた。選挙でナチスは45%の得票を得たが、過半数には至らなかった。しかし、共産党員や左派の議員はすでに拘禁されていて、事実上ナチスが議会をコントロールできるようになっていた。

1934年にヒンデンブルク大統領が死去すると、ヒトラーは首相と大統領の権限を合わせた地位に自らをつけ、完全に権力を掌握した。この措置は民族投票によって89.93%という極めて高い支持を得て、ヒトラーはドイツ総統となった。形の上では、民主的な手続きで独裁権力を手に入れたのである。

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[ガズー編集部]

MORIZO on the Road