※日経トレンディ2021年6月号の記事を再構成
中国の作家・劉慈欣によるSF長編、『三体』シリーズが記録的な快進撃を続けている。日本で第1部が発売された2019年時点ですでに、世界全体での累計発行部数は2900万部、20カ国語以上の言語に翻訳され、さらに部数を伸ばしている。
「翻訳SFの単行本では今世紀最大の売り上げ」と語るのは早川書房で『三体』シリーズの編集を担当する「SFマガジン」編集部の梅田麻莉絵氏。日本でも現在までで累計37万部となり、完結編の発売を5月末に控える。未知の異星人との遭遇や攻防を描く古典的テーマながら、エンターテインメント性が高く、SFに持ち込まれた中国的感性の新鮮さに読者層を広げている。
中国では08年の第1部発売後すぐに話題作となったが、それを世界規模の爆発的ヒットにまで押し上げたのは、15年にSF界の最高賞とされるヒューゴー賞長編部門を、アジア作家として、また翻訳小説として初めて受賞したことだ。作家ケン・リュウによる質の高い英訳に、オバマ元大統領やフェイスブックCEOのマーク・ザッカーバーグらが推薦本に挙げたことも、売れ行きに拍車をかけた。
「中国では社会現象と呼べる大ヒット。19年に成都で開かれた中国のSF大会に参加し、劉慈欣氏への熱狂的歓声にその人気ぶりを実感した。加えて、参加者が高齢化しつつある日本のSF大会と比較してとても規模が大きく、若者が多いことにも驚いた」(梅田氏)
2006年▼ | 中国のSF雑誌「科幻世界」に連載開始 |
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2008年▼ | 第1部・第2部の単行本発売。中国国内でヒット |
2010年▼ | 第3部単行本発売 |
2014年▼ | ケン・リュウによる翻訳で英訳版発売 |
2015年▼ | アジア人作家初となるヒューゴー賞長編部門受賞。その後、オバマ元大統領、マーク・ザッカーバーグらが相次いで推薦。国際的評価を受け、中国国内でもさらに爆発的ヒットに |
2019年▼ | 日本で第1部の邦訳発売。
劉慈欣『さまよえる地球』を原案とする映画『流転の地球』公開。中国では歴代興行収入4位の大ヒット |
2020年▼ | 第2部の邦訳発売 Netfliaxがドラマ化を発表 |
“分かりやすい”スケールの大きさがヒットの理由
そもそも中国では「科学普及小説」と呼ばれるジャンルがSFとは峻別されて存在し、こちらは科学への興味を高め、正しい理系知識を啓蒙することを目的とする。そのためフィクションを扱うSF(科学幻想小説)は子供の読み物として下に見られ、国家的抑圧を受ける時代も長かったという。『三体』は、世界にほぼ初めて紹介された中国の長編SFにもかかわらず国際的ヒットを記録し、中国でのSFの評価を覆した。
日本においても『三体』は、既存のSFファン層を超えて読者を増やしている。「コアなSFの読者層は50~60代男性だが、『三体』は30~40代のビジネスパーソンにも売れている。中国を取引先とする商社マンが、話の種として読むという話も聞く」(同氏)。
物理学の難問「三体問題」や、量子力学、核融合エンジンによる宇宙船開発など、ハードSF的な要素も強いシリーズが、これほど多くの読者の心を掴んだ要因とは何か。梅田氏は、いわゆる“大きなSF”と呼ばれるスケール感ではないかと分析する。「SF小説の世界では近年、自己とは、意識とは何か? といった思弁的で難解なテーマを掘り下げる作品が主流で、新たな読者が気軽に手を伸ばしにくくなっている側面もあったと思う。『三体』は、かつての小松左京に代表されるような、スケールの大きい突拍子もないストーリーを、圧倒的なエンタメ性やアイデアの豪胆さで読ませる」(梅田氏)。それが若い読者には新鮮に映ったうえ、往年のSFを知る読者にとっては懐かしくもあり、様々な読み手のニーズに合致したのがヒットの要因といえる。
『三体』ブームの一方、日本国内でも近年、新たな若年読者層を獲得し、ヒットするSF作品が現れてきている。今春アニメ化された宮澤伊織の小説『裏世界ピクニック』はコミック版を含め、累計50万部を突破。2人の女子大生が現実と隣合わせに存在する「裏世界」で、実話怪談的な謎に満ちた探検を繰り広げる連作シリーズだ。
同作の編集を担当する、同じく「SFマガジン」編集部の溝口力丸氏は、「ジャンル色の強い小説の利点は、固定読者が高い確率で手に取ってくれること。『裏世界ピクニック』の場合、それがSF・ホラー・百合(女性同士の関係性)と3つあり、それぞれの読者を獲得できた」と語る。
溝口氏は、19年に『なめらかな世界と、その敵』でブレイクした伴名練や、17年に『最後にして最初のアイドル』で星雲賞日本短編部門を受賞した草野原々など、気鋭の若手作家の作品を多く担当してきたヒットメーカーでもある。SFというジャンルの現状について「他メディアとの融合が進み、これからも伸びる余地がある」と見ている。
「昔は文芸という一つの大きな市場があり、SFはその中のジャンルだという垣根がはっきりしていたが、今は様々な娯楽がフラットに消費される時代。ひと言でSFと言っても、映画もアニメもスマホゲームもある。円城塔氏がアニメ『ゴジラ S・P』の構成を手掛けるなど、SF作家が他メディアに進出する例も増えている」(溝口氏)。
マーベル映画や『ソードアート・オンライン』など、SF要素を多く含んだ大ヒットコンテンツが広く浸透している事も、SFが新たに読者を獲得し始めた土壌になっているという。「現実が不透明な今のような状況だと、SFに未来の視点を求める需要もあるのだろうと思う」(溝口氏)
『三体』シリーズは20年の秋に、Netflixがドラマ化を発表。超ヒットドラマの『ゲーム・オブ・スローンズ』で知られるデイヴィッド・ベニオフ、D・B・ワイスらが制作・脚本を担当する。国内でもハインラインの古典的名作SFを映画化した『夏への扉 ―キミのいる未来へ―』の公開が、21年6月に控えている。SFはまさに今、夏の時代を迎えている。
ケン・リュウ編『折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー』(ハヤカワ文庫SF)
貧富の差により三層のスペースに分割され、時間とともに回転・交替する架空の北京を描いた表題作他、ケン・リュウが精選・翻訳した短編アンソロジー
『中国・SF・革命』(河出書房新社)
「文藝」20年春号の同題特集を増補・単行本化。中国SF・幻想文学の注目作家の短編他、日米の作家による中国をテーマとした短編作品も掲載
立原透耶編『時のきざはし 現代中華SF傑作選』(新紀元社)
『三体』の翻訳監修も手掛ける立原透耶氏編の短編集。劉慈欣と並び「中国SF四天王」と称される王晋康、韓松、何夕といった大家から注目の新鋭作家まで、17作の短編SFを収録
郝景芳『人之彼岸』(新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)
『折りたたみ北京』収録の表題作でヒューゴー賞ノヴェレット部門を受賞した注目の作家による短編集。AIをめぐる6編の物語とエッセイを収録
陳楸帆『荒潮』(新☆ハヤカワ・SF・シリーズ)
グーグルや百度での勤務経験を持ち、80年代生まれ世代を代表する作家のデビュー作。「中国のウィリアム・ギブスンといわれている」(梅田氏)
消費トレンド・ヒットを研究する月刊誌「日経トレンディ」。2021年6月号では「エンタメブーム大研究」「2021年上半期ヒット大賞 下半期ブレイク予測」を特集しています。
新型コロナウイルスの影響で旅行などが制限される中、救いとなるのが音楽やゲームなどのエンターテインメント。2021年上半期に話題になったコンテンツは、一見なぜはやったのか分からない謎めいたヒットが多く生まれました。そこで、人の心を動かすブームの源はどこにあるのか、徹底解析します。
記事公開当初『人之彼岸』の説明文に誤りがありました。正しくは「『折りたたみ北京』収録の表題作でヒューゴー賞ノヴェレット部門を受賞した注目の作家による短編集。AIをめぐる6編の物語とエッセイを収録」です。[2021/5/17 14:00]
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