鈴木敏文は、米セブンイレブンの買収に格別の思い入れがある。日本育ちの事業モデルを、巨額の負債を抱えた「本家」に移植。面従腹背の経営陣に苦慮しつつ、破綻企業の再建に成功した。=敬称略

<b>鈴木敏文(すずき・としふみ)</b><br /> <b>1932年12月、長野県生まれ。中央大学経済学部を卒業後、東京出版販売(現トーハン)入社。63年にイトーヨーカ堂へ転職。73年にヨークセブン(現セブン‐イレブン・ジャパン)を設立し、コンビニエンスストアを日本に広めた。コンビニに銀行ATMを置くなど、常識にとらわれない改革を実施。2016年5月にセブン&アイ・ホールディングス会長兼CEO(最高経営責任者)から名誉顧問に退いた。人生観は「変化対応」。</b>(写真=的野 弘路)
鈴木敏文(すずき・としふみ)
1932年12月、長野県生まれ。中央大学経済学部を卒業後、東京出版販売(現トーハン)入社。63年にイトーヨーカ堂へ転職。73年にヨークセブン(現セブン‐イレブン・ジャパン)を設立し、コンビニエンスストアを日本に広めた。コンビニに銀行ATMを置くなど、常識にとらわれない改革を実施。2016年5月にセブン&アイ・ホールディングス会長兼CEO(最高経営責任者)から名誉顧問に退いた。人生観は「変化対応」。(写真=的野 弘路)

 昨年、鈴木敏文によって封印された、ある社内の動きがあった。セブンイレブンの本家、米国のセブン-イレブン・インク(SEI)を上場させようという、一部の幹部による構想だ。SEI株の一部を上場し、5000億~1兆円規模の資金を調達。コンビニ店舗の拡大余地が大きい米国で、さらなる成長投資に振り向けるという青写真が描かれていた。

 この構想について鈴木は、「現地の連中とか何かは、上場したいと思っていたし、そうした構想もあったけど、やめた方がいいと判断した」と打ち明ける。SEIは純利益で450億円程度を稼ぎ出し、セブン&アイにとって虎の子の事業。上場すれば、SEIの利益が他の株主に流出してしまうからだ。

 今でこそ、SEIはグループの稼ぎ頭の一つだが、ここに至る道のりは平坦ではなかった。SEI(当時はサウスランド)は1990年に、多角化などの失敗から破綻。米連邦破産法第11条(チャプターイレブン)に基づく再生手続きを開始する際、救済の手を差し伸べたのが鈴木だった。91年、イトーヨーカ堂とセブン-イレブン・ジャパンは共同で、4億3000万ドルを投じてSEIの約7割の株式を取得した。

●米セブンイレブンの創業から再建の歴史
●米セブンイレブンの創業から再建の歴史
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 鈴木は、「セブンイレブンが米国で倒産したとなったら、日本もいずれそうなるのではと推測されるよね。それは避けたかった」と振り返る。そして、「彼らのやり方ではうまくいくはずないと思っていた。我々がやれば、再建できる。あの時も相当反対されたけど、自信があったから突っ走った」と続けた。

 周囲が反対したのは当然だった。SEIは、当時の為替レートで5000億円規模の負債を抱えて倒産。一部は債権放棄されたものの、約4000億円の負債を引き継ぐことになったからだ。

 買収に前向きな鈴木に対し、慎重な態度を崩さなかったのが、創業者の伊藤雅俊だった。

ハリケーン・スズキがやってきた

 89年にSEIからハワイでの営業権を買収した際、米国本社への出資要請もあった。90年1月から具体的な買収の検討に入ったが、同年夏にイラク大統領のサダム・フセインがクウェートに侵攻。伊藤は、売上高の4割以上をガソリンが占めていたSEIの業績に影響が及ぶことを懸念し、「買わないでおこうと言い出した」(当時の関係者)。

 最終的には鈴木の熱意が伊藤の慎重さに勝ったが、伊藤は最後まで財布のひもを緩めなかった。伊藤は極力、出資を抑えて、経営努力で会社を再建することを鈴木らに求めた。その結果、買収後も巨額の負債が、再建の足かせになり続けた。金利負担が重く、利益が負債の返済へと消える。イトーヨーカ堂の信用力で借り換えを進めても、金利負担の削減効果は限定的だった。

 SEI経営陣の「面従腹背」の態度も改革を遅らせた。鈴木は振り返る。

 「もうお手上げだと助けを求めてきたのに、コンビニの元祖は自分たちだという意識が抜けない。しかも、自分たちで売っている商品を試食しているのかと聞くと、していないんだよね。それを当然だと思っていた」

 「アメリカに行くたびに、そういうところがダメだと厳しく指摘すると、口では『はい、分かりました』と言うんだけど、言う通りに全然やらない。毎回怒鳴るものだから、『ハリケーン・スズキ』なんて呼ばれていたよ」

 鈴木は、日本で培った「単品管理」や「共同配送」などの仕組みを米国に持ち込み、現地の消費者の生活習慣に合った商品やサービスを提供するよう、経営陣や従業員に意識改革を迫った。

 「一番苦労したのは、ベンダーのルートセールス任せではなく、日本と同じように各店舗が自ら発注するように変えることだった。自社で持っていた巨大な物流センターも全て売却させた」

 幹部社員に熱心に説教をするさまは、現地社員から「スズキスクール」と表現されるほどだったという。こうしたテコ入れの成果もあり、SEIは買収の3年後に黒字化した。ただし、債務の返済は遅々として進んでいなかった。

 実は、この財務面の苦境から脱するきっかけを作ったのが、当初は買収に慎重な姿勢を示した伊藤だった。2000年1月、伊藤は「私の目の黒いうちに立派な上場会社にしろ」と関係者に指示。大胆な資本の追加投入によって、再建を加速することを了承した。

 伊藤はSEIの買収後、同社の会長として取締役会に鈴木らとともに出席していた。会議は鈴木が取り仕切り、伊藤は口を挟まなかったが、伊藤は会社のオーナーとしての立場から、鈴木らの改革を支えていたのである。

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