人類学のススメ

人類学の世界をご紹介します。OCNの「人類学のすすめ」から、サービス終了に伴い2014年11月から移動しました。

私の仕事:発掘調査・ドゥアラ洞窟21(1984年発掘調査のまとめ)

2010年05月27日 | D1.私の仕事:発掘調査・ドゥアラ洞窟[

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ドゥアラ洞窟151.ドゥアラ洞窟(Douara Cave)遠景

 ドゥアラ洞窟では、1970年・1974年・1980年・1984年と4次にわたって発掘調査が行われました。この内、1984年発掘調査のまとめは、1987年に、赤澤 威先生と阪口 豊先生の編により、東京大学総合研究博物館紀要の第29号として出版されました。

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ドゥアラ洞窟152.ドゥアラ洞窟(Douara Cave)1984年調査報告書表紙(Bulletin No.29・University Museum・University of Tokyo, 1987)

 この紀要第29号は、東京大学総合研究博物館のホームページで全文が公開されています。以下は、そのリンクです。便利な時代になりました。

リンク:東京大学総合研究博物館公式ホームページ・Bulletin No.29

 本書の内容は、以下のように、全11章からなります。

  1. Paleoenvironments in Palmyra District during the Late Quaternary (Y. SAKAGUCHI)
  2. Thaniyyet Wuker: A Pre-Pottery Neolithic (Sumio FUJII・Takeru AKAZAWA・Yoshihiro NISHIAKI・Hisahiko WADA)
  3. 1984 Excavations at Douara Cave: Methods and Techniques (Takeru AKAZAWA・Tasuku KIMURA・Yukihiro HIRAI・Shuichiro NARASAKI)
  4. Stratigraphy and Sedimentological Analysis of the Douara Cave Deposits, 1984 Excavations (Yukihiro HIRAI)
  5. Middle Paleolithic Assemblages from the Douara Cave, 1984 Excavations (Yoshihiro NISHIAKI)
  6. Lithic Assemblages from the Wadi Fan Deposits at Douara (Yoshito ABE・Yoshihiro NISHIAKI・Takeru AKAZAWA)
  7. Plant Remains from the 1984 Excavations at Douara Cave (Akiko MATSUTANI)
  8. Paleomagnetic Study of the Middle Paleolithic Hearth at Douara Cave (Hideo SAKAI)
  9. Thermoluminescence of Barite Nodules from the Middle Paleolithic Hearth at Douara Cave (Kiyotaka NINAGAWA・Isao YAMAMOTO・Nobusuke TAKAHASHI・Naoki INOUE・Yoshihiko YAMASHITA・Tmononori WADA・Hideo SAKAI)
  10. C14 Dating by Accelerator Mass Spectrometry of Carbonized Plant Remains from a Middle Paleolithic Hearth at Douara Cave, Syria (Koichi KOBAYASHI・Kunio YOSHIDA・Hisao NAGAI・Mineo IMAMURA・Hideki YOSHIKAWA・Hiroshi YAMASHITA・Shohei OKIZAKI・Singo YAGI・Takayuki KOBAYASHI・Masatake HONDA)
  11. The Ecology of the Middle Paleolithic Occupation at Douara Cave, Syria (Takeru AKAZAWA)

 4次にわたる調査で、人骨は出土しませんでした。木村 賛先生と私は、第3章に名前を載せていただきました。

 出土した小型の哺乳類の骨は、フクロウが消化できない毛や骨を吐き出すペレットではないかと推定されています。実際、1984年の発掘では大きな獣骨は出土せず、小さな骨しか出土していません。

 また、イギリスの動物考古学者のセバスチャン・ペイン(Sebastian PAYNE)さんが、1974年の発掘調査で出土した獣骨を1983年にまとめたものでは、イヌの骨ではないかと推定される下顎骨が出土しており、約35,000年前の世界最古のイヌとして話題になりました。

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ドゥアラ洞窟153.ドゥアラ洞窟(Douara Cave)出土イヌ下顎骨(Dog Mandible)[Bulletin 21・University Museum・University of Tokyo, 1983] 

 この紀要第21号は、東京大学総合研究博物館のホームページで全文が公開されています。ドゥアラ洞窟発掘調査の発掘調査報告書パートⅢです。以下は、そのリンクです。 

リンク:東京大学総合研究博物館公式ホームページ・Bulletin No.21

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ドゥアラ洞窟154.ドゥアラ洞窟(Douara Cave)全景

以下は、ドゥアラ洞窟発掘調査の発掘調査報告書パートⅠです。以下は、そのリンクです。

リンク:東京大学総合研究博物館公式ホームページ・Bulletin No.14

以下は、ドゥアラ洞窟発掘調査の発掘調査報告書パートⅡです。以下は、そのリンクです。

リンク:東京大学総合研究博物館公式ホームページ・Bulletin No.16

 この1984年のドゥアラ洞窟の発掘調査は、私にとって初めての海外調査で、大変、参考になりました。人骨は出土しませんでしたが、石器・獣骨・植物・地質等、様々な分野の研究者が共同で調査をする必要性を痛感しました。ただ、個人的には、この調査の後で、アメリカのウィスコンシン大学に留学が決まっていましたが、結局、シリアではビザがとれなかったため、一旦、日本に帰国することになりました。

 海外留学を経験した今では、そのままアメリカに観光ビザで入国し、大学で学生ビザに書き換えてもらえば大丈夫だったとわかりますが、当時は、まだ経験不足でした。その後、赤澤 威先生の計らいで、丁度日本に滞在中だった、オレゴン大学人類学部の考古学者、メルヴィン・エイキンズ(Meivin AIKENS)先生のお世話で、オレゴン大学に留学することができました。エイキンズ先生は、当時、オレゴン大学の人類学部長で、東京のアメリカ大使館まで一緒に行っていただき、手続きをしていただきました。


私の仕事:発掘調査・ドゥアラ洞窟20(アパメア遺跡)

2010年05月24日 | D1.私の仕事:発掘調査・ドゥアラ洞窟[

 8月25日(土)には、アパメア遺跡を見学しました。この遺跡は、ハマーの北西約55kmに位置する軍事都市跡です。紀元前300年には存在し、一時は、人口約50万人を擁したとも言われています。2世紀頃に建設された、列柱道路は有名です。

 その後、紀元後7世紀には破壊されてしまいますが、やがて十字軍の時代にも重要視された都市でした。しかし、1152年に大地震で破壊し、歴史の舞台から姿を消したそうです。

 以下の写真は、すべて、私が撮影したものです。しかし、この遺跡に関する知識がほとんど無いので写真のみ掲載します。

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ドゥアラ洞窟149.アパメア(Apamea)遺跡遠景

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ドゥアラ洞窟150. アパメア(Apamea)遺跡列柱道路1

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ドゥアラ洞窟151.アパメア(Apamea)遺跡列柱道路2

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ドゥアラ洞窟152. アパメア(Apamea)遺跡列柱道路3

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ドゥアラ洞窟153.アパメア(Apamea)遺跡列柱道路4

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ドゥアラ洞窟154.アパメア(Apamea)遺跡列柱道路5

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ドゥアラ洞窟155.アパメア(Apamea)遺跡現状(1984年時点)


私の仕事:発掘調査・ドゥアラ洞窟19(ウガリット遺跡)

2010年05月23日 | D1.私の仕事:発掘調査・ドゥアラ洞窟[

 8月24日には、地中海沿いの都市・ラタキアに近い場所にあるウガリット遺跡を見学しました。このウガリット遺跡は、紀元前1,450年から紀元前1,200年頃の港湾都市遺跡です。しかし、紀元前1,200年頃に、破壊されたそうです。

 遺跡は、1928年に偶然発見され、その後、発掘調査が行われました。この調査で、紀元前1,400年頃のウガリット文字を刻んだ粘土板が発見されています。この文字は、世界最古のアルファベット文字だと言われていますが、異論もあるようです。

 以下の写真は、すべて、私が撮影したものです。ただ、この遺跡に関する知識がほとんどないので、写真のみ掲載します。

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ドゥアラ洞窟142.ウガリット(Ugarit)遺跡1

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ドゥアラ洞窟143.ウガリット(Ugarit)遺跡2

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ドゥアラ洞窟144.ウガリット(Ugarit)遺跡3(宮殿への入口)

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ドゥアラ洞窟145.ウガリット(Ugarit)遺跡4

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ドゥアラ洞窟146.ウガリット(Ugarit)遺跡5

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ドゥアラ洞窟147.ウガリット(Ugarit)遺跡6

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ドゥアラ洞窟148.ウガリット(Ugarit)遺跡7


私の仕事:発掘調査・ドゥアラ洞窟18(エブラ遺跡)

2010年05月22日 | D1.私の仕事:発掘調査・ドゥアラ洞窟[

 ドゥアラ洞窟の発掘調査も無事に終了し、エクスカーション(巡検)に出発することになりました。全員で、1984年8月19(日)から8月25日(土)まで、チャーターした小型バスで、シリア北部の第2の都市アレッポ等の遺跡を見学する予定です。

 私は、この調査の後でアメリカのウィスコンシン大学に留学することが決まっていたのですが、何度ダマスカスのアメリカ大使館に通っても入国ビザの申請が通りません。そこで、私は皆とは別行動でダマスカスに行き、ビザの申請をすることになりました。シリアには日本赤軍が潜伏しているとのことで、日本人にはビザを出さないということは後で知りました。結局、私は、8月22日(水)の夜に、アレッポで合流することができました。

 8月24日(金)に、全員でエブラ遺跡を見学しました。この遺跡は、アレッポから南西約55kmに位置する遺跡で、紀元前2,400年から紀元前2,240年及び紀元前1,800年から紀元前1,650年の都市国家跡です。紀元前2,250年頃の楔形文字が刻まれた粘土板が約15,000枚も発見されていることで有名です。ちなみに、「エブラ」とは、石灰岩を意味するそうです。

 この遺跡は、紀元前2,240年頃と紀元前1,650年から1,600年の2回破壊され、その後、歴史の舞台から姿を消しました。

 以下の写真は、すべて、私が撮影したものです。ただ、この遺跡についてはほとんど知識がないので、解説することができません。写真のみ、掲載します。 

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ドゥアラ洞窟134.エブラ(Ebla)遺跡1

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ドゥアラ洞窟135.エブラ(Ebla)遺跡2

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ドゥアラ洞窟136.エブラ(Ebla)遺跡3

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ドゥアラ洞窟137.エブラ(Ebla)遺跡4

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ドゥアラ洞窟138.エブラ(Ebla)遺跡5

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ドゥアラ洞窟139.エブラ(Ebla)遺跡6

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ドゥアラ洞窟140.エブラ(Ebla)遺跡7

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ドゥアラ洞窟141.エブラ(Ebla)遺跡8


私の仕事:発掘調査・ドゥアラ洞窟17(ジェルフ・アジュラ洞窟)

2010年05月20日 | D1.私の仕事:発掘調査・ドゥアラ洞窟[

 発掘調査が終了した後の1984年8月18日(日)、全員でジェルフ・アジュラ洞窟の見学に行きました。このジェルフ・アジュラ洞窟は、アメリカの有名な自然人類学者、カールトン・クーン(Carleton S. COON)[1904-1981]が、調査した洞窟です。

 クーンは、ハーヴァード大学でアーネスト・フートン(Earnest HOOTON)[1887-1954]の弟子となり、その後、ハーヴァード大学で教鞭をとった後、ペンシルヴェニア大学で1963年の引退まで人類学を教えました。第二次世界大戦中は主に北アフリカに従軍して、負傷もしており、1945年には少佐で退役しています。

 戦争中に北アフリカに従軍した経験からなのか、戦後、1948年にイラク・1949年と1951年にイラン・1954年にアフガニスタン・1955年にシリア等のアラブ諸国の遺跡を発掘調査しています。クーンは、この発掘調査の成果を、1957年に『The Seven Caves(7つの洞窟)』という本にまとめてAlfred A. Knopfから出版しました。

 この『7つの洞窟』の第8章には、シリアのジェルフ・アジュラ洞窟のことが写真と共に紹介されています。この洞窟は、ジェルフ・アジュラ洞窟という呼び名以外に、ハイファ洞窟とも呼ばれていたようです。

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ドゥアラ洞窟120.『The Seven Caves』の中扉(手持ちの本には、カバーが無く、表紙には題名が印字していないため、中扉をアップします)

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ドゥアラ洞窟121.ジェルフ・アジュラ洞窟遠景1

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ドゥアラ洞窟122.ジェルフ・アジュラ洞窟遠景2

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ドゥアラ洞窟123.ジェルフ・アジュラ洞窟近景1

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ドゥアラ洞窟124.ジェルフ・アジュラ洞窟近景2(『The Seven Caves』・プレート28より)

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ドゥアラ洞窟125.ジェルフ・アジュラ洞窟近景3

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ドゥアラ洞窟126.ジェルフ・アジュラ洞窟近景4(『The Seven Caves』・プレート31より)

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ドゥアラ洞窟127.ジェルフ・アジュラ洞窟内部1

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ドゥアラ洞窟128.ジェルフ・アジュラ洞窟内部2(『The Seven Caves』・プレート30より)

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ドゥアラ洞窟129.ジェルフ・アジュラ洞窟内部3(橋に注意。1955年に作られた橋が、約30年経た1984年時にまだ健在だった)

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ドゥアラ洞窟130.ジェルフ・アジュラ洞窟内部4(橋を作っている所)

 クーンは、自然人類学者なので、人骨を発見したかったようですが、ここでは人骨は出土しませんでした。その代わりに、石器や石器の破片を約35,312点発見しました。この内、2,007点を持ち帰ることにしたそうです。

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ドゥアラ洞窟131.ジェルフ・アジュラ洞窟脇に捨てられている石器(赤澤 威先生によると、昔はもっとあったそうです。)

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ドゥアラ洞窟132.ジェルフ・アジュラ洞窟から外を見る

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ドゥアラ洞窟133.カールトン・クーンが、死去した1981年に出版した自叙伝『Adventures and Discoveries』(Prentice-Hall出版)表紙 

 私には、どうしても不思議なことがありました。それは、あれほど発掘調査を行ったクーンが、どうしてドゥアラ洞窟を発見して発掘しなかったのかです。ところが、クーンが死去した1981年に出版された自叙伝にその理由が書いてありました。

 クーンの発掘調査時に、シリア当局からは、調査できる場所はパルミラのホテルから半径7km以内と制限されていたそうです。ただ、クーンが持ち込んだ車はアメリカの車で、「km」表示ではなく「マイル」表示だったので、何とか約10km離れた場所にあるジェルフ・アジュラ洞窟を調査できたということでした。つまり、約18km離れた場所にあるドゥアラ洞窟は、たとえ発見していたとしても調査できなかったことになります。現代では考えられない事情が、当時にはあったのです。


私の仕事:発掘調査・ドゥアラ洞窟16(ドゥアラ洞窟の保護)

2010年05月18日 | D1.私の仕事:発掘調査・ドゥアラ洞窟[

 ドゥアラ洞窟を保護することになりました。洞窟下から集めた石で、石垣をつくり、発掘したグリッドにはビニールシートを敷き、土砂で埋め戻しました。こうして、次回の発掘作業に備えました。

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ドゥアラ洞窟112.洞窟下から石を上げる作業

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ドゥアラ洞窟113.石で石垣を作り、洞窟を保護する作業1

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ドゥアラ洞窟114.石で石垣を作り、洞窟を保護する作業2

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ドゥアラ洞窟115.セメントで、石垣を固める作業

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ドゥアラ洞窟116.片側の石垣がセメントで固められた

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ドゥアラ洞窟117.ビニールシートをかける作業

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ドゥアラ洞窟118.ビニールシートを敷いた状態

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ドゥアラ作業119.土砂を埋め戻した状態(左:ファラハン、右:赤澤 威先生)


私の仕事:発掘調査・ドゥアラ洞窟15(発掘終了)

2010年05月16日 | D1.私の仕事:発掘調査・ドゥアラ洞窟[

 ドゥアラ洞窟の発掘調査も、いよいよ終わりに近づきました。次回の調査まで、洞窟を守るために石で床を覆うことになりました。そのための石を洞窟下から、みんなで、リレーで運びました。暑い中で、この作業は過酷なものです。特に、子供達にとっては・・・。

 1984年8月9日(木)、この日で、子供達の人夫は終了です。みんなと過ごしてきた日々を思い起こし、私も悲しくなりました。人夫頭のファラハンがやってきて、「バーデン・フィー」と言います。「また、いつか会えるさ」という意味だそうです。

 調査終了後、ゲスト・ハウスにみんなを招き、フェアウェル・パーティを開くことにしました。この日のために、羊1頭を購入してメイン・ディッシュにします。皆、あまり食べたことがないご馳走なので、とても喜んで食べていました。

 ところが、このパーティの途中で、ちょっとした事件がありました。以前、ご紹介したベドウィンのカレッド君が泣きながら外に出ていってしまったのです。しばらくして、ファラハンが連れ戻してきてくれました。後で事情を聞くと、これまで、このように公平に接してもらったことがないとのことで、感極まったとのことでした。色々と、あるのだなと思わせられます。

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ドゥアラ洞窟104.石を運んでいる様子(洞窟下から撮影)

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ドゥアラ洞窟105.石を運んでいる様子(洞窟上から撮影)

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ドゥアラ洞窟106.洞窟を背景にした、赤澤 威先生

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ドゥアラ洞窟107.左から人夫頭のファラハン・私・赤澤 威先生

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ドゥアラ洞窟108.ゲスト・ハウスでのフェアウェル・パーティの様子1

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ドゥアラ洞窟109.ゲスト・ハウスでのフェアウェル・パーティの様子2 

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ドゥアラ洞窟110.ゲスト・ハウスで、みんなで記念撮影

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ドゥアラ洞窟111.パーティが終わって、帰る子供達


私の仕事:発掘調査・ドゥアラ洞窟14(ドゥアラ洞窟出土石器)

2010年05月12日 | D1.私の仕事:発掘調査・ドゥアラ洞窟[

 ドゥアラ洞窟では、次々と石器は出土しましたが、人骨や獣骨はあまり出土しませんでした。そこで、木村 賛先生と私は、石器のレプリカをせっせと作成しており、赤澤 威先生や西秋良宏さんが出土石器の写真をまとめて撮影している場面を逃してしまいました。

 そこで、今回は、グリッドでの石器の出土状況写真をアップします。

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ドゥアラ洞窟93.発掘風景

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ドゥアラ洞窟94.グリッド全景

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ドゥアラ洞窟95.8-04グリッド出土石器(1984年7月17日出土)[分層発掘に注意]

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ドゥアラ洞窟96.8-04グリッド出土石器全景(1984年7月18日出土)

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ドゥアラ洞窟97.8-04グリッド出土石器近接(1984年7月18日出土)

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ドゥアラ洞窟98.8-04グリッド出土石器(1984年7月23日出土)

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ドゥアラ洞窟99.8-04グリッド出土石器(1984年7月25日出土)

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ドゥアラ洞窟100.8-04グリッド出土石器(1984年7月26日出土)

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ドゥアラ洞窟101.9-03グリッド出土石器(1984年7月29日出土)

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ドゥアラ洞窟102.9-04グリッド出土石器(1984年7月30日出土)

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ドゥアラ洞窟103.洞窟にて記念撮影


私の仕事:発掘調査・ドゥアラ洞窟13(アラブの城塞・ベドウィン)

2010年05月10日 | D1.私の仕事:発掘調査・ドゥアラ洞窟[

 パルミラ郊外の標高150mの小高い丘には、アラブの城塞があります。この城塞は、まず、12世紀に十字軍に備えて構築されたそうですが、その後、17世紀には城塞となったそうです。 

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ドゥアラ洞窟87.アラブの城塞遠景1

 私は、このアラブの城塞に、何度か行くことができましたが、まだ、整備されておらず、中には入れませんでした。

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ドゥアラ洞窟88.アラブの城塞遠景2

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ドゥアラ洞窟89.アラブの城塞近接1

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ドゥアラ洞窟90.アラブの城塞近接2

 この墓の谷やアラブの城塞の近くに、発掘調査の人夫として働いてくれたカレッド・ハッサン君の家があります。1984年8月4日(土)に、カレッド君の家を皆で訪問しました。カレッド君の家は、伝統的なベドウィンのテントでした。ここで、お茶をご馳走になり、記念撮影をしました。

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ドゥアラ洞窟91.カレッド君一家(右からお父さん[一説にはおじいさん]・カレッド君[当時14歳]・カレッド君のお姉さん[当時15歳])

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ドゥアラ洞窟92.カレッド君のお姉さんと記念撮影


私の仕事:発掘調査・ドゥアラ洞窟12(墓地の谷・地下墳墓)

2010年05月09日 | D1.私の仕事:発掘調査・ドゥアラ洞窟[

 パルミラの町はずれには、墓地の谷や地下墳墓があります。ここには、様々な形の墓地が並んでいます。私は、これらを何度か訪問することができました。

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ドゥアラ洞窟77.墓地の谷から見たパルミラ

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ドゥアラ洞窟78.墓地の谷遠景1

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ドゥアラ洞窟79.墓地の谷遠景2

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ドゥアラ洞窟80.墓地の谷内のエラベール家の塔形墓

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ドゥアラ洞窟81.地下墳墓1入口

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ドゥアラ洞窟82.地下墳墓2入口

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ドゥアラ洞窟83.地下墳墓3入口

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ドゥアラ洞窟84.地下墳墓4入口

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ドゥアラ洞窟85.地下墳墓4内部1

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ドゥアラ洞窟86.地下墳墓4内部2・石棺


私の仕事:発掘調査・ドゥアラ洞窟11(石器のレプリカ作製)

2010年05月08日 | D1.私の仕事:発掘調査・ドゥアラ洞窟[

 発掘調査では、人類学は、木村 賛先生(当時、京都大学)と私の2人が担当しました。と言っても、私はまだ駆け出しで何のお役にもたてません。木村 賛先生は、有名なイスラエルのアムッド洞窟の第二次発掘調査にも参加されており、経験豊富な人類学者です。色々と、教えていただきました。

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ドゥアラ洞窟65.石器のレプリカ作製中の木村 賛先生(当時、京都大学。その後、東京大学を経て、現在、石川県立看護大学学長)

 ドゥアラ洞窟の発掘調査は、いくら発掘しても、出てくるのは石器と獣骨ばかりで、人骨は出土しません。そこで、赤澤 威先生から、出土石器のレプリカを作製するよう依頼されました。当時の人類学では、学ばなければならないテクニックとして、基本である人骨の観察・計測・接着復元以外に、写真の撮影・現像・焼き付け、X線の撮影・現像・焼き付けと、レプリカの作製が重用視されていました。

 私は、このレプリカ作製の方法は、出発前に、教えを請うていた国立科学博物館(当時)の佐倉 朔先生に懇切丁寧に教えていただいていました。佐倉先生は、私の父と同じ年で時に厳しく時に優しく指導していただきました。

 早速、木村 賛先生と私は、宿舎の地下に机や資材を持ち込み、石器のレプリカ作製を行いました。当然ですが、発掘調査には参加し、その発掘調査の後や休みの日に作製しました。

 以下に、石器レプリカ作製の手順を説明します。

 まず、石器の半分を粘土に埋めます。この作業は、丁寧に行わないとうまく型がとれません。そして、埋め込んだ石器に離型剤として、石けんやシャンプーを水で薄めたものを刷毛で塗ります。これは、レプリカ作製のためにシリコンを使うのですが、そのシリコンと石器が離れやすくするためのものです。

 その後、シリコンをかけます。粘土には、シリコンよりも一回り大きい場所に、石膏が流れでないようにする枠をつけます。この枠は、木村 賛先生が缶を切って作製したものです。

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ドゥアラ洞窟66.粘土に石器半分を埋め込み、シリコンをかけた状態

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ドゥアラ洞窟67.シリコンをかけた上から、石膏を流し込んだ状態

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ドゥアラ洞窟68.型の半分ができた状態。これから、石器のもう半分の型をとる。

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ドゥアラ洞窟69.石器のもう半分に、刷毛で離型剤を塗り、シリコンが流れでないように、粘土で枠を作った状態

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ドゥアラ洞窟70.石器のもう半分に、シリコンをかけた状態

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ドゥアラ洞窟71.石器のもう半分のシリコンの上に、石膏をかけた状態

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ドゥアラ洞窟72.半分ずつ完成した雌型を割った状態。これから、中の石器を取り出す。

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ドゥアラ洞窟73.完成した雌型に、歯科用硬石膏を流し込み、レプリカを作製する。

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ドゥアラ洞窟74.石器のレプリカ。硬石膏のバリがあるので、これをきれいに削る。

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ドゥアラ洞窟75.実物の石器(左上)と石器のレプリカ(右上)

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ドゥアラ洞窟76.木村 賛先生と私の合作でできた石器のレプリカの型。 


私の仕事:発掘調査・ドゥアラ洞窟10(ドゥアラ盆地)

2010年05月07日 | D1.私の仕事:発掘調査・ドゥアラ洞窟[

 ドゥアラ洞窟の北側には、ドゥアラ盆地があります。この盆地は、東西約8km・南北約5kmの規模です。 

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ドゥアラ洞窟58.ドゥアラ盆地遠景1(ドゥアラ洞窟側から撮影)

 このドゥアラ盆地では、1974年に阪口 豊先生が石器を発見し、その後の調査で、ホモ・エレクトス(原人)、ネアンデルタール人(旧人)、先土器新石器時代(新人)の石器工房が発見されています。

 これまでに、原人の石器工房は1ヶ所・旧人の石器工房は6ヶ所・新人の石器工房は3ヶ所が発見されています。この盆地には、何度か足を運んで見学することができました。

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ドゥアラ洞窟59.ドゥアラ盆地を背景にした赤澤 威先生(ドゥアラ洞窟側から撮影)

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ドゥアラ洞窟60.ドゥアラ盆地遠景2(ドゥアラ洞窟側から撮影)

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ドゥアラ洞窟61.ドゥアラ盆地内部(ドゥアラ盆地内部で撮影)

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ドゥアラ洞窟62.ドゥアラ盆地内部近接1

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ドゥアラ洞窟63.ドゥアラ盆地内部近接2

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ドゥアラ洞窟64.ドゥアラ盆地で発見された石器


私の仕事:発掘調査・ドゥアラ洞窟9(炭化種子)

2010年05月06日 | D1.私の仕事:発掘調査・ドゥアラ洞窟[

 1984年7月24日(火)、9-07グリッドから炭化した種子が出土しました。調査団長の赤澤 威先生がお書きになられた『ネアンデルタール・ミッション』(岩波書店、2000年)のp.66によると、私が掘っていたグリッドらしいのですが、どうも、フィールド・ノートにも記載していないし記憶がありません。これらは、炭化した種子であることが判明しました。

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ドゥアラ洞窟52.9-07グリッドで発見された植物の種子

 早速、阪口 豊先生と木村 賛先生が、剥ぎ取り標本を作ることになりました。その後、東京大学総合研究資料館(当時、現東京大学総合博物館)の松谷暁子先生による鑑定で、2種類のエノキ属の種子だということがわかりました。また、ロンドン大学考古学研究所のゴードン・ヒルマンさんによると、さらに、エノキ属に加えてスミノミサクラも同定されています。

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ドゥアラ洞窟53.種子の剥ぎ取り標本作業(手前から、赤澤 威先生・木村 賛先生・阪口 豊先生)

 ちなみに、パルミラ近くのラジュメイン山地には、ピスタチオの原種である「ボトム」と呼ばれる木が生えています。ピスタチオは、シリア滞在中に、ビールのおつまみに大変、重宝しました。このボトムの木は、燃料として伐採されたために少なくなったそうです。

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ドゥアラ洞窟54.ラジュメイン山地(標高約1,000m)でまばらに生えているボトムの木遠景

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ドゥアラ洞窟55.ボトムの木近接

 このボトムの木は、神聖なのか、パルミラにあるバール・シャミン神殿の内部にも生えているということを知りました。この神殿は、2世紀半ばに完成しており、雨と豊穣の神が祭られているそうですが、6世紀にはキリスト教の教会に造り替えられたそうです。

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ドゥアラ洞窟56.バール・シャミン神殿遠景

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ドゥアラ洞窟57.バール・シャミン神殿近接。神殿内部に木が見える。


私の仕事:発掘調査・ドゥアラ洞窟8(ラクダの骨)

2010年05月05日 | D1.私の仕事:発掘調査・ドゥアラ洞窟[

 休日の、1984年7月28日(土)、赤澤 威先生と阪口 豊先生が、サブハに出かけた帰りに獣骨を拾ってきてくれました。

 早速、何の動物の骨か持ってきていた獣骨の洋書で調べましたが、載っていません。当時、獣骨に関する本は日本語ではほとんどなく、洋書では、コーンウォール(I. W. CORNWALL)による『Bones for the Archaeologist』かエリザベス・シュミット(Elizabeth SCHMID)による『Atlas of Animal Bones』ぐらいしかありませんでした。残念ながら、これらの本にはラクダの頭蓋骨の図は見あたりません。

 ところが、現地の人々に聞くと、即座にどちらもラクダの骨で、成体と子供の骨だと教えてくれました。こちらも、何となくラクダかなとは思いましたが、ラクダの骨を見るのは始めてで自信がありません。早速、記録を残すために、写真を撮影しました。実力の無さを痛感させられた1日でした。

 大英自然史博物館の動物学者・クラットン=ブロックの『図説・動物文化史事典』によると、ラクダの祖先についてはあまり知られていないそうですが、約4,000万年前に北米で進化し、一部は南に移動してラマやビクーニャとなり、一部はアラスカからベーリング海峡を通ってシベリアに移動。その後、南アジアや北アフリカに移動したと推定されていますが、化石があまり発見されていないため、よく分かっていないそうです。北米のラクダは、約12,000年前に絶滅してしまいます。

 ラクダの家畜化は、紀元前5,500年から同4,200年に行われ、その後、紀元前4,200年から同2,500年にはさらに家畜化による管理が強まったと推定されています。現在は、フタコブラクダとヒトコブラクダがいますが、紀元前3,000年頃は、フタコブラクダは中央アジアに、ヒトコブラクダは西アジアに生息していたと推定されているようです。

 ちなみに、ドゥアラ洞窟出土獣骨は、東京大学の古生物学者・高井冬二先生により、記載されています。それによると、哺乳類としてハリネズミ・コウモリ・ノウサギ・アレチネズミ・スナネズミ・イヌ科・キツネ・イタチ・アジアノロバ・ラクダ・ダマジカ・ガゼル等が出土しています。ただ、ほとんどは浅い層から出土しており、深い層からはアジアノロバ・ラクダ・ダマジカ・ガゼルが出土しているようです。

 このドゥアラ洞窟の1970年の発掘調査の報告書は、東京大学総合研究資料館(当時、現東京大学総合研究博物館)から出版され、現在、全文が公開されています。

リンク:東京大学総合研究博物館公式ホームページ・BulletinNo.5

リンク:東京大学総合研究博物館公式ホームページ・BulletinNo.6

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ドゥアラ洞窟42.ラクダ頭蓋骨(左:成体、右:子供)前面観

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ドゥアラ洞窟43.ラクダ頭蓋骨(左:成体、右:子供)後面観

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ドゥアラ洞窟44.ラクダ成体頭蓋骨上面観

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ドゥアラ洞窟45.ラクダ子供頭蓋骨上面観

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ドゥアラ洞窟46.ラクダ成体頭蓋骨下面観

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ドゥアラ洞窟47.ラクダ子供頭蓋骨下面観

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ドゥアラ洞窟48.ラクダ成体頭蓋骨左側面観

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ドゥアラ洞窟49.ラクダ子供頭蓋骨左側面観

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ドゥアラ洞窟50.ラクダ成体頭蓋骨右側面観

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ドゥアラ洞窟51.ラクダ子供頭蓋骨右側面観


私の仕事:発掘調査・ドゥアラ洞窟7(ドゥアラ盆地表面採集石器)

2010年05月04日 | D1.私の仕事:発掘調査・ドゥアラ洞窟[

 1984年8月2日(木)に、宿舎では、西秋良宏さんを中心に、ドゥアラ洞窟の北側にあるドゥアラ盆地で表面採集をした石器の整理が行われていました。私も、その様子を見学させてもらい、西秋さんから説明を受けました。

 この盆地は、東西約8km・南北約5kmの規模です。ここは、旧石器時代人の石器工房として有名で、1974年に阪口 豊先生により発見されたそうです。それぞれ、番号が付いており、第60地点はホモ・エレクトス(原人)の工房。第34・38・41・59・62・63地点は、ネアンデルタール人(旧人)の工房。第33・35・42地点は、先土器新石器時代の工房のようです。

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ドゥアラ洞窟38.宿舎での石器整理作業風景 

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ドゥアラ洞窟39.ドゥアラ盆地表面採集石器第34地点(典型的なムステリアン石器)

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ドゥアラ洞窟40.ドゥアラ盆地表面採集石器第38地点(フリント原石)

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ドゥアラ洞窟41.ドゥアラ盆地表面採集石器第60地点(ヤブルディアン石器)