天下人たちのマネジメント術

本能寺の変 光秀vs秀吉の派閥争いがクーデターに

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天正10年(1582年)6月2日早朝、明智光秀は京都・本能寺に織田信長を奇襲した。「本能寺の変」だ。日本史のなかでも真相が謎に包まれている出来事の一つだが、最新研究では、織田軍団内における重臣間の派閥抗争の影響が光秀のクーデターに結びついたと指摘されている。いわば役員間の争いが、巡り巡ってクーデターを引き起こし成功した形だ。現代の企業社会にも通じるガバナンス(統治)の死角を藤田達生・三重大副学長に聞いた。

「トップとの距離」先行する光秀、巻き返す秀吉

――最新編著の「織田政権と本能寺の変」(塙書房)では羽柴(豊臣)秀吉と光秀の派閥争い、絶対的なリーダーとみられていた信長も軍団長クラスの相互バランスを利用して統一政策を進めていった経緯を研究しています。

「織田政権のパワーの源泉は尾張衆と呼ばれる家臣団、近畿地方の服属大名衆、前政権を支えた足利幕臣らで構成されている。信長は柴田勝家ら年長の老臣らと協議して方針を定め、荒木村重ら新参の家臣に統一戦を命じ、光秀ら旧幕臣に京都を中心とした行政などを任せていた。全てを信長一人の独断で決めていたわけではない」

「ただ天正8年(1580年)に宿敵の大阪本願寺との長期戦を制してから専制化の傾向が強まった。検地など時代の先駆けとなる政策を開始し、織田軍団の組織再編にも着手した。具体的には軍団長クラスの異動(国替)と抜てきだ。以前から北陸を担当していた柴田に続き、滝川一益が関東へ総司令官の形で異動した。中国・四国地方の総司令官の地位をめぐり、水面下で秀吉と光秀との生き残りをかけた争いが始まった」

――絶対的なトップとの距離をどう縮めるかがポイントであることは現代と変わりません。先行していたのは光秀だったといいます。

「わずかな期間に台頭した信長が中央政権を運営するには、光秀の手腕と人脈が必要だった。信長のそば近くに仕えていた『御妻木殿』は光秀の義妹だったとされ(本能寺の変の前年に亡くなったと伝わる)、信長のおいにあたる織田信澄は光秀の義理の息子だ。対毛利戦の前線で苦闘していた秀吉を外して、天正8年(1580年)に光秀は朝廷ルートなどを駆使して講和を画策し、信長がそれに一時乗りかけたこともあった」

「ただ秀吉も鳥取城を陥落させ、淡路を支配下に置くなど目に見える業績を上げて巻き返した。さらに信長の子息である秀勝を自分の後継者に迎えた。甥の秀次(後の関白・豊臣秀次)の養父となった三好康長を信長に近づけるなどして織田政権内の勢力を拡大した」

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