剣術師範として赴任した永倉新八

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月形歴史物語 月形の歩みから北海道に大切なことがみえてくる。

剣術師範として赴任した永倉新八

 樺戸集治監にいた囚徒以外の有名人物としては、なんといっても幕末の新撰組にいた永倉新八があげられます。神道無念流を身につけた永倉は、新撰組で沖田総司に勝るとも劣らぬ剣の達人でした。明治になって彼は、杉村義衛と名をあらためていました。

杉村義衛(永倉新八)

杉村義衛(永倉新八)

 新撰組とは、京都における将軍警固と反幕府勢力鎮圧のために江戸幕府が組織した治安維持組織でした。その名を知らしめたのは、元治元年6月(1864年7月)に京都の旅館池田屋に潜伏していた尊王攘夷派志士を襲撃した、いわゆる池田屋騒動です。この戦いで伝説的な働きをしたのが永倉新八でした。


 永倉を含めた24名で創設された新撰組は、全盛期には200名を数える武闘組織となり、1867年10月の鳥羽伏見の戦いにはじまった戊辰戦争では、旧幕府軍に従軍します。周知のようにこの戦争は佐幕派にとってきびしい敗戦の連続で、1869(明治2)年5月に終結した箱館戦争では、榎本武揚率いる旧幕府軍がついに降伏。戦いつづけた新撰組には、土方歳三のように箱館で命を落とした者も少なくありませんでしたが、永倉はその前に組と袂を分かっていました。


 1882(明治15)年、43歳の永倉は月形潔典獄に請われて開庁まもない樺戸集治監にやってきて、1886(明治19)年まで看守たちの剣術師範を務めました。


 囚徒管理のためにこと脱走事件に当たっては刀(サーベル)を抜くことも辞さなかった看守たちにとって、剣道の修練は重要な日課でした。集治監にはそのための演武場があったのです。


 永倉は、月形に赴任するにあたり、旧幕臣の大人物、山岡鉄舟に揮毫を請います。山岡は北辰一刀流千葉周作の門人で、「幕末の三舟」(勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟)のひとり。勝海舟の使者となり、勝と西郷隆盛の会談の実現に尽力して江戸城無血開城を実現させ、維新後は明治天皇の侍従となっていました。勝海舟の部下で槍術の大家であった高橋泥舟は、山岡の義兄にあたります。


 書家としても知られた山岡は杉村の願いに応え、「修武館」の額を贈ります。以後集治監の演武場は、「修武館」の名を冠することになりました。

旧樺戸集治監本庁舎に展示されている「修武館」の額(複製)

旧樺戸集治監本庁舎に展示されている「修武館」の額(複製)

 この額は樺戸監獄が1919(大正8)年に廃監となるまで道場に掲げられていましたが、廃監に伴い公文書類とともに旭川監獄に引き継がれ、現在は旭川刑務所の演武場に掲げられています。月形樺戸博物館では、この複写を見ることができます。


永倉新八(杉村義衛)の人となりをまとめておきましょう。


 永倉は1839(天保10)年、松前藩の江戸定府取次役、長倉勘次の次男として、同藩の上屋敷(江戸下谷三味線堀、現在の台東区小島2丁目)で生まれました。父は松前藩江戸詰の藩士だったのです。


 1846(弘化3)年、7歳で岡田利章の神道無念流剣術道場「撃剣館」に入門。4年目に師が亡くなると岡田助右衛門に師事して、15歳で切紙(初等の免許)、1856(安政3)年に18歳で本目録(修了証)を得ると、元服して新八と称します。19歳になると自由な剣術修行を求めて松前藩を脱藩、長倉を永倉と改めました。名を替えたのは、脱藩によって親族に迷惑がかからぬようにするため、と言われます。


 本所亀沢町の百合元昇三の道場で剣を学んだのち、友である市川宇八朗(後の靖兵隊隊長芳賀宜道)と武者修業の旅に出ました。やがて江戸に戻ると心形刀流伊庭軍平の門人坪内主馬に見込まれ、坪内道場師範代を勤めるうちに近藤勇と知り合い、近藤勇の道場、天然理心流「試衛館」の食客となります。


 江戸幕府が14代将軍家茂の上洛警護をする浪士の組織「浪士組」を組織すると、永倉は近藤らと共に参加。これが24人の「壬生浪士組」となり、やがて近藤が主導する「新撰組」に発展しました。永倉は副長助勤、二番隊隊長、撃剣師範などの要職を歴任し、組のリーダーのひとりとしてありつづけました。


 しかし鳥羽・伏見の戦い(1868年)のあと江戸に退却後、永倉は近藤らと袂を分かち、靖兵隊(靖共隊)を結成。米沢藩に滞留中に会津藩の降伏を知り江戸へ戻ります。このころすでに江戸幕府は大政奉還(政権を天皇に返上)を行っていましたが、かつての同志土方歳三らは、まだ箱館戦争の榎本軍に合流していました。明治の世となり、永倉は松前藩家老下国東七朗によって帰藩を許され、江戸下谷三味線堀の藩長屋に居を構えました。しかし箱館の地では、旧幕府方と新政府軍による最後の戦いが最終局面を迎えていました。


 1870(明治3)年には松前に移住。34歳で藩医杉村松柏の娘、杉村よねと結婚して杉村家の養子となります。1876年には、かつての同志らの霊を慰めるために尽力して、東京板橋に新撰組殉難者墓碑を建立。ここは、近藤勇が斬首された板橋刑場(仙道板橋宿近く)にほど近い地でした。その後彼は小樽へ渡り、そこから1882(明治15)年、樺戸で剣術師範を務めたのです。


 集治監退職後は東京の牛込で剣術道場を開きましたが、1899(明治32)年、妻と子供が北海道小樽色内で薬局を開いていたため、再び小樽へ。1915(大正4)年に77歳で亡くなるまで、小樽で暮らしつづけました。


 日本史の波乱の激動とともにあった永倉(杉村)の生涯の中で、樺戸集治監での4年間はどんな意味を持っていたのでしょう。戊辰戦争や新撰組の顛末(てんまつ)を考えるにつけ、興味はつきません。