ART

遺書

ベートーヴェン

片山敏彦訳

Published in October 6th, 10th, 1802|Archived in December 1st, 2023

Image: Rudolf Hausleithner, "Beethoven’s Vision", 1882.

CONTENTS

TEXT

EXPLANATORY|SPECIAL NOTE

改行を施し、旧字・旧仮名遣いは現代的な表記に改め、一部の漢字は開き、約物規則を整えた。
傍点による強調はベートーヴェンの草稿に即しアンダーラインに統一した。
底本の行頭の一字下げは一字上げに変えた。
実際の没年は遺書執筆から25年後のことである。

BIBLIOGRAPHY

著者:ベートーヴェン(1770 - 1827)訳者:片山敏彦
題名:遺書原題:ハイリゲンシュタットの遺書
初出:1802年10月6日, 10日翻訳初出:1938年(岩波書店)
出典:『ベートーヴェンの生涯』(岩波書店。1938年。103, 105-111ページ)

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ハイリゲンシュタットの遺書

わが弟カルルおよび(ヨーハン**)に。ーーわが死後、この意志の遂行さるべきために。

原註(編集部注:本稿の「原註」はロマン・ロランの手による)ーー * ハイリゲンシュタットはウィーン市の郊外。ベートーヴェンはそこを夏期の住居としていた。  
** 原文にはヨーハンの名の記入が忘れられている。ーー文中傍点(編集部注:本文ではアンダーライン)の箇所はベートーヴェンの原文にアンダーラインのある部分である。
おお、お前たち、ーー私を厭わしい頑迷な、または厭人的な人間だと思い込んで他人にもそんなふうに言いふらす人々よ、お前たちが私に対するそのやり方はなんと不正当なことか! お前たちにそんな思い違いをさせることの隠れた本当の原因をお前たちは悟らないのだ。
 
幼い頃からこのかた 、私の心情も精神も、善行を好む優しい感情に傾いていた。偉大な善行を成就しようとすることをさえ、私はつねに自分の義務だと考えてきた。
 
しかし考えてもみよ、六年以来、私の状況がどれほど惨めなものかを! ーー無能な医者たちのため容態を悪化させられながら、やがては回復するであろうとの希望に年から年へと欺かれて、ついには病気の慢性であることを認めざるを得なくなったーーたとえその回復がまったく不可能ではないとしても、おそらく快癒のためにも数年はかかるであろう。
 
社交の楽しみにも応じやすいほど熱情的で活溌な性質をもって生まれた私は、早くも人々からひとり遠ざかって孤独の生活をしなければならなくなった。折りにふれてこれらすべての障害を突破して振る舞おうとしてみても、私は自分の耳が聴こえないことの悲しさを二倍にも感じさせられて、なんと苛酷に押し戻されねばならなかったことか! しかも人々に向かってーー「もっと大きい声で話してください。叫んでみてください。私はつんぼですから!」と言うことは私にはどうしてもできなかったのだ。
 
ああ! 他の人々にとってよりも私にはいっそう完全なものでなければならない一つの感覚(聴覚)、かつては申し分のない完全さで私が所有していた感覚、たしかにかつては、私とおなじ専門の人々でもほとんど持たないほどの完全さで私が所有していたその感覚の弱点を人々の前へさら け出しに行くことがどうして私にできようか! ーーなんとしてもそれはできない! ーーそれゆえに、私がお前たちの仲間入りをしたいのにしかもわざと孤独に生活するのをお前たちが見ても、私を赦してくれ!
 
私はこの不幸の真相を人々から誤解されるようにしておくよりほかしかたがないために、この不幸は私には二重につらいのだ。人々の集まりのなかへ交じって元気づいたり、精妙な談話を楽しんだり、話し合って互いに感情を流露させたりすることが私には許されないのだ。ただどうしても余儀ないときにだけ私は人々のなかへ出かけてゆく。
 
まるで放逐されている人間のように私は生きなければならない。人々の集まりへ近づくと、自分の病状を気づかれはしまいかという恐ろしい不安が私の心を襲う。ーーこの半年間私が田舎で暮らしたのもその理由からであった。できるだけ聴覚を静養せよと賢明な医者が勧告してくれたが、この医者の意見は現在の私の自発的な意向と一致したのだ。
 
とはいえ、ときどきは人々の集まりへ強い憧れを感じて、出かけてゆく誘惑に負けることがあった。けれども、私の脇にいる人が遠くの 横笛 フレーテ の音を聴いているのに私にはまったくなにも聴こえず誰かが羊飼いのうたう歌を聴いているのに私には全然聴こえないとき、それはなんという屈辱だろう*!

原註ーー* この痛切な嘆きについて私(ロラン)は一つの解釈をーーいまなお一度もなされた事がないと私の信じる一解釈をここに表明しておきたい。ーー『田園交響楽』の第二楽章の終わりに、オーケストラが 夜啼鶯 ロシニョール とかっこうと鶉の鳴き声を聴かせることは人の知るとおりであり、たしかにこの交響曲のほとんど全部が自然のいろいろな歌声とささやきで編み上げられているとも言える。多くの美学者たちが、自然音の模倣描写であるこの曲の試みを是認すべきか、あるいはすべきでないかということをしきりに論じてきた。しかもそれらの学者の誰一人、「ベートーヴェンは(自然音を)模倣描写したのではない、なんとなればベートーヴェンには(自然音が)なんにも聴こえはしなかったのだから」ということに気づいていない。ベートーヴェンは、自分にとっては消滅している一世界を、自分の精神のうちから再創造したのである。小鳥たちの歌のあの表現があれほど感動を与えうるのはまさにそのためである。小鳥たちの声を聴きうるためにベートーヴェンに残されていた唯一の方法は小鳥たちをベートーヴェン自身のうちに歌わせることだったのである。(les faire chanter en lui)

たびたびこんな目に遭ったために私はほとんどまったく希望を失った。みずから自分の生命を絶つまでにはほんの少しのところであった。ーー私を引き留めたものはただ「芸術」である。自分が使命を自覚している仕事をしとげないでこの世を見捨ててはならないように想われたのだ。

 

そのためこのみじめな、実際みじめな生を延引して、この不安定な肉体をーーほんのちょっとした変化によっても私を最善の状態から最悪の状態へ投げ落とすことのあるこの肉体を引き摺って生きてきた! ーー忍従! ーーいまや私が自分の案内者として選ぶべきは忍従であると人は言う。私はそのようにした。ーー願わくば、耐えようとする私の決意が永く持ちこたえてくれればいい。ーー厳しい運命の女神らが、ついに私の生命の糸を断ち切ることを喜ぶその瞬間まで。自分の状態がよい方へ向かうにもせよ悪化するにもせよ、私の覚悟はできている。ーー二十八歳で止むを得ず早くも 悟った人間 フィゾローフ になることは容易ではない。これは芸術家にとっては他の人々にとってよりも一層つらいことだ。

 

神(Gottheit)よ、おんみは私の心の奥を照覧されて、それを識っていられる。この心のなかには人々への愛と善行への好みとがあることをおんみこそ識っていられる。おお、人々よ、お前たちがやがてこれを読むときに、思え、いかばかり私に対するお前たちの行いが不正当であったかを。そして不幸な人間は、自分とおなじ一人の不幸な者が自然のあらゆる障害にもかかわらず、価値ある芸術家と人間との列に伍せしめられるがために、全力を尽くしたことを知って、そこに慰めを見出すがよい!

 

お前たち、弟カルルと(ヨーハン)よ、私が死んだとき、シュミット教授がなお存命ならば、ただちに、私の病状の記録作成を私の名において教授に依頼せよ、そしてその病状記録にこの手紙を添加せよ、そうすれば、私の歿後、世の人々と私とのあいだに少なくともできるかぎりの和解が生まれることであろう。ーーいままた私はお前たち二人を私の少しばかりの財産(それを財産と呼んでもいいなら)の相続人として定める。二人で誠実にそれを分けよ。仲良くして互いに助け合え。お前たちが私に逆らってした行いは、もうずっと以前から私は赦している。弟カルルよ、近頃お前が私に示してくれた好意に対してはとくに礼を言う。お前たちがこのさき私よりは幸福な、心痛のない生活をすることは私の願いだ。

 

お前たちの子らに徳性すす めよ、徳性だけが人間を幸福にするのだ。金銭ではない。私は自分の経験から言うのだ。惨めさのなかでさえ私を支えてきたのは徳性であった。自殺によって自分の生命を絶たなかったことを、私は芸術に負うているとともにまた徳性に負うているのだ。ーーさようなら、互いに愛し合え! ーーすべての友人、特にリヒノフスキー公爵とシュミット教授に感謝する。ーーリヒノフスキーから私へ贈られた楽器は、お前たちの誰か一人が保存していてくれればうれしい。しかしそのため二人の間にいさかいを起こしてくれるな。金に代えた方が好都合ならば売るがよかろう。墓のなかに自分がいてもお前たちに役立つことができたら私はどんなにか幸福だろう!

 

そうなるはずならばーーよろこんで私は死に向かって行こう。ーー芸術の天才を十分展開するだけの機会をいまだ私が持たぬうちに死が来るとすれば、たとえ私の運命があまり苛酷であるにもせよ、死は速く来すぎるといわねばならない。いま少しおそく来ることを私は望むだろう。ーーしかしそれでも私は満足する。死は私を果てしのない苦悩の状態から解放してくれるではないか? ーー来たいときに 何時 いつ でも来るがいい。私は敢然と汝(死)を迎えよう。ーーではさようなら、私が死んでも、私をすっかりは忘れないでくれ。生きている間私はお前たちのことをたびたび考え、またお前たちを幸福にしたいと考えてきたのだから、死んだのちも忘れないでくれとお前たちに願う資格が私にはある。この願いを叶えてくれ。

 
 
ルートヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン    
ハイリゲンシュタット、一八〇二年十月六日  
 
 

ハイリゲンシュタットにおいて。一八〇二年十月十日。親愛な希望よ。ーーさらばおんみに別れを告げるーーまことに悲しい心をもって。ーーいくらかは快癒するであろうとの希望よ。この場所にまで私が携えてきた希望よ。いまやそれはまったく私を見棄てるのほかはない。秋の樹の葉の地に落ちて朽ちたようにーー私のためには希望もまた枯れた。ここに来たときとほとんどおなじままにーー私はここから去る。ーー美しい夏の 日々 にちにち に私の魂を生気づけた高い勇気、ーーそれも消えた。ーーおお、神の摂理よーー歓喜の澄んだ一日を一度は私に見せてください。ーーすでに久しく、まことのよろこびの深い反響は私の心から遠ざかっています。おお、神よ、いつの日にーーおお、いつの日に、ーー私は自然と人々との寺院のなかで、その反響を再び見出すことができるのですか! ーーもはや決して? ーー否ーーおお、それはあまりにも残酷です!ーー