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【底倉蔦屋と沢田武治】

 横浜真金町に酒商を営む沢田武治は飯野藩藩士であった。底倉の湯を好み、しばしばこの地に遊んだ武治は自ら旅館の経営を決意し、明治二十三年(一八九〇)蔦田平左衛門より建物、屋号を譲り受けて、湯宿蔦屋を底倉に開業した。武治が買収した蔦屋平左衛門は、江戸時代からつづく老舗で、仙石屋と梅屋の間にあった。明治二十五年七月二十一日横浜毎日新聞に掲載の蔦屋きく(武治の妻)の特別広告には「本年は御座敷及貸切風呂を新築仕り従前よりも手広に相成候については……」とあり、買収後、早速改造、増築にかかり、古い建物の近代化に取り組んだ様子がわかる。その後も、蔦屋の広告はたびたび新聞に載り、都会人の誘客に力を入れた。明治二十六年三月三日、隣家より出火して焼失、同年夏、八千代橋の架設の成った現在地に新築して移った。同年三月九日の横浜毎日新聞は、蔦屋の焼失を次のように報じている。
 「箱根底倉区温泉宿蔦屋(沢田きく)は去る三日夜一二時隣家梅屋より出火して類焼せるより当分の間宮之下藤屋ホテルの別荘に引移り従前の如く営業し尚不日新築に着手して本年夏頃迄に落成す可き見込みなる由」
 富士屋ホテルの別荘とは、山口仙之助が明治二十年(一八八七)今の吉村旅館の場所に新築した、客室一五室の日本館二棟であった。武治と、じっ懇の仲にあった仙之助は蔦屋焼失に同情し、再建までの間、自己の建物を貸与したのである。
 当時の箱根には未だ医療の設備も医師もなく、これを憂えた武治は、村長山口仙之助と図って底倉村村医に医師岡島行光を招き、明治二十五年(一八九二)函嶺医院の開設に当たっては、発起人の一人として尽力した。医院の敷地は、武治が所有していた土地であった。
 明治三十七年(一九〇四)武治から家業を継いだかず(※金偏に和)義は、箱根の名勝旧蹟に数多くの石碑を建てた。高山園主の銘ある石碑はかず(※金偏に和)義が自費をもって建立したものである。かず(※金偏に和)義の息、武太郎が大正十五年(一九二六)から昭和十一年(一九三六)にかけて記録した植物日記は、弟秀三郎によって解説され、「沢田武太郎日記」として、箱根町教育委員会より刊行された。昭和初期の箱根山植物分布を知る貴重な資料であり、蔵書、標本は県立博物館に保存されている。

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