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薩摩街道




 藩政時代、鹿児島城下から領外へ出る街道の中で最も重視されていたのは、西目筋(にしめすじ)と
東目筋(ひがしめすじ)の二本の街道でした。西目筋は現在の国道三号線に重なる海沿いの道、
東目筋は鹿児島城下から、加治薩摩街道地図木、牧之春を通り、日向路を、都城、高岡、本庄と結び
佐土原に至る概ね十号線に重なる東の山間部を通る道で、これが所謂(いわゆる)薩摩街道です。


 藩政時代、この街道は、軍事目的は勿論、藩主の参勤交代、物資の輸送、連絡道などとして重要な役割りを持っていました。この薩摩街道日向路の中での険路は、有水の岩屋野から、和石(よれし)を通り、去川の関所に至る尾根伝いの道でした。

 この尾根伝い険路を最初に開発したのは伊東氏でした。明応四年(一四九五)伊東氏は三俣院の地を手中に収め、高城を前線基地として、山之口城、松尾城、梶山城、勝岡城、野々美谷城、下之城、そして高城の出城、小山城の八城を配置しました。この八城を守るためには、伊東氏の本城都於郡(とのごおり)やその領内から、高城への兵馬や物資の輸送路を開く必要があり、国見山を越えて有水に通ずる道路を開通させたのです。

 やがて伊東氏は没落し、島津領となり、去川に関所を設けました。その後の慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の役で
西軍に味方し、かろうじて逃げ帰った島津義弘は、去川の関の前面に、高岡、穆佐(むかさ)、倉岡、綾の関外(かんがい)四郷を設け、更に高岡に天ヶ城を築いて多くの郷士を領内各地から移住させ、
外敵に備えました。こうなると高岡、鹿児島間の人の往来や物資の輸送はひん繁になり、
藩政時代になると薩摩街道と呼ばれるようになりました。

   



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