第4部 被害状況と被害拡大の要因 (その1)
第4部 被害の状況と被害拡大の要因
第4部では、発災後の政府の決断、方針、施策、伝達が、住民の側からどのように見えたのか、受け止められたのか、そして、適切な住民の避難及び避難生活にどれほど資することができたのかを、住民の視点に立って検証する。
4.1 原発事故の被害状況
本事故の結果、ヨウ素換算でチェルノブイリ原発事故の約6分の1に相当するおよそ900PBq(ペタベクレル)の放射性物質が放出された。これにより、福島県内の1800km2もの広大な土地が、年間5mSv以上の空間線量を発する可能性のある地域になった。
住民は、自分たちがどれだけの量の放射線にさらされたかということに大きな不安を持っているが、一人一人状況が違うため、個々人の具体的な被ばく量は明確には分からない。そのため住民の具体的被ばく量は推計する以外に方法はないが、一例として、福島県の県民健康管理調査において、一部の地域の住民について個々人の行動記録から推計したデータがある。そのうち、先行調査が行われた比較的高線量地域の3町村の、放射線業務従事者を除いた住民約1万4000人の事故後4カ月間の外部被ばく積算実効線量推計の値は、平成24(2012)年6月発表のデータによれば、1mSv未満が57.0%、1mSv以上10mSv未満が42.3%、10mSv以上が0.7%であった。総じて数値は低いが、それでも住民の不安は極めて根強い。政府はきめ細かな調査を徹底して継続すべきである。
1)汚染の程度
本事故で大気中に放出された放射性物質の総量は、ヨウ素換算(国際原子力指標尺度〈INES評価〉)にして約900PBq(ヨウ素:500PBq、セシウム137:10PBq)とされており[1]、チェルノブイリ原子力発電所の事故におけるINES評価 5200PBqと比較して約6分の1の放出量になる[2]。放出された放射性セシウム[3]は、地表に降下した結果、次の地図に示すように土壌に沈着している。
環境省によると、年間5mSv、20mSv以上の空間線量となる可能性のある土地の面積は、それぞれ福島県内の1778km2、515km2である[4]。なお、チェルノブイリ原発事故によって放出されたセシウム137による汚染面積は、ベラルーシ、ウクライナ及びロシアの3カ国で1986年時点で1万300km2(555kBq/m2以上)、3100km2(1480kBq/m2以上)であるとされる[5]。
図4.1-2 チェルノブイリ事故によるセシウム137の蓄積量[6]
2)避難者数
本事故による避難区域指定は、福島県内の12市町村に及んだ。避難した人数は、平成23(2011)年8月29日時点において、警戒区域(福島第一原発から半径20km圏)で約7万8000人、計画的避難区域(20km以遠で年間積算線量が20mSvに達するおそれがある地域)で約1万10人、緊急時避難準備区域(半径20~30km圏で計画的避難区域及び屋内避難指示が解除された地域を除く地域)で約5万8510人、合計では約14万6520人に達する[7]。
なお、これに対して、チェルノブイリ原子力発電所の事故により1年以内に避難をした人数は、ベラルーシ、ウクライナ及びロシアの3カ国合計で11万6000人と推計されている[8]。つまり本事故による避難者は、チェルノブイリ原発事故のほぼ同等人数ということになる(「表4.1-1」参照)。
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警戒区域 |
計画的避難区域 |
緊急時避難準備区域 |
合計(人) |
大熊町 |
約1万1500 |
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約1万1500 |
双葉町 |
約6900 |
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約6900 |
富岡町 |
約1万6000 |
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約1万6000 |
浪江町 |
約1万9600 |
約1300 |
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約2万900 |
飯舘村 |
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約6200 |
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約6200 |
葛尾村 |
約300 |
約1300 |
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約1600 |
川内村 |
約1100 |
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約1700 |
約2800 |
川俣町 |
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約1200 |
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約1200 |
田村市 |
約600 |
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約4000 |
約4600 |
楢葉町 |
約7700 |
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約10 |
約7710 |
広野町 |
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約5400 |
約5400 |
南相馬市 |
約1万4300 |
約10 |
約4万7400 |
約6万1710 |
合計 |
約7万8000 |
約1万10 |
約5万8510 |
約14万6520 |
表4.1-1 避難区域から避難した人数[9]
3)被ばくの実態
平成24(2012)年6月現在、原発から放出された放射性物質を原因とする重篤な健康被害は確認されていない。しかし、放射性物質が流出したことは紛れもない事実であり、住民が全く被ばくしていないということではない。
積算被ばく量は人によってさまざまであり、個々人の積算被ばく量を調査することはできない。外部被ばく線量については、個々人が線量計を常に携帯しているわけではなく、内部被ばく線量についても、全ての住民にホール・ボディ・カウンタ(体内に存在する放射性物質の量を測定する機器。以下「WBC」という)による検査が継続的に行われていないからである。
a. 住民の低線量被ばく
被ばくの有無を把握する検査の一つに、身体表面汚染を測定するスクリーニング検査がある。スクリーニング検査は体表面の発する放射線量の測定であり、その時点での個々人の身体の汚染レベル[10]は、スクリーニング検査によってある程度把握することができる。これによって、衣服や身体表面の外部汚染の有無の判定と、放射性ヨウ素等の吸入による内部被ばくの有無の一次的なチェックをすることができる。
この点、汚染のレベルがそのまま被ばくの程度を表すということではない。比較的高いレベルの汚染にさらされた人であっても、脱衣したうえで身体除染を行った場合には、相当程度の汚染の除去が期待できるため、必ずしも高度の被ばくをしているとはかぎらない。
なお、平成23(2011)年3月14日から4月14日までに行われた避難住民のスクリーニング検査の結果は、以下のとおりである[11]。
スクリーニングの数値 |
検査人数 |
1万3000cpm以下 |
15万516人 |
1万3000cpm以上~10万cpm未満 |
879人 |
10万cpm以上 |
102人 |
計 |
15万1497人 |
表4.1-2 平成23(2011)年3月14日~4月14日の避難住民スクリーニングの結果
前述のとおり、スクリーニング検査は外部被ばくや内部被ばくの可能性を推し量るための目安にすぎない。このデータのみでは被ばくした人数や詳しい被ばく線量は分からない上、個々人の正確な被ばく線量を特定することはできない。このため福島県では、県民健康管理調査(以下「県民健康調査」という)において、個々人の行動記録から外部被ばく線量を推計することが行われている[12]。
具体的には、平成23(2011)年3月11日から7月11日までの個々人の「行動記録」を基に、独立行政法人放射線医学総合研究所(以下「放医研」という)が開発した評価システムを用いて、その4カ月間の外部被ばく積算実効線量の推計が行われており、一部地域の結果が発表されている。
そのうち、先行調査を行った川俣町山木屋地区、浪江町、飯舘村の住民で放射線業務従事者を除く1万4412人についての推計結果は、平成24(2012)年6月発表の時点で以下のとおりとなっている[13]。
放射線業務従事者を除く1万4412人の積算実効線量推計結果 |
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1mSv未満 |
8221人 |
57.0% |
1mSv~10mSv未満 |
6092人 |
42.3% |
10mSv超 |
99人 |
0.7% |
表4.1-3 平成23(2011)年3月11日~7月11日の3地域・1万4412人の外部被ばく積算実効線量推計
b. 250mSv以上被ばくした原発作業員
上記のように先行調査地域の住民の外部被ばく積算実効線量は概して小さな数値が推計されているが、本事故で住民よりもさらに高い放射線量を浴びたのが原発作業員である。
平成23(2011)年3月から平成24(2012)年4月までの間、本事故の収束作業に従事した東電及び協力会社の作業員は、それぞれ3417人及び1万8217人である。このうち、電離放射線障害防止規則の特例に関する省令により定められる、緊急作業における線量上限の250mSvを超える線量(外部被ばく及び内部被ばくの積算)を被ばくした東電作業員は6人であり、健康被害の発生の目安[14]とされる100mSvを超える線量(外部被ばく及び内部被ばくの積算)を被ばくした東電及び協力会社の作業員はそれぞれ146人及び21人である。なお、東電及び協力会社の作業員の平均被ばく線量は、それぞれ24.77mSv及び9.53mSvである[15]。
4.2 住民から見た避難指示の問題点
当委員会の調査によって、住民の多くが、避難指示が出るまで原子力発電所の事故の存在を知らなかったことが判明した。
また、事故が発生し、被害が拡大していく過程で避難区域が何度も変更され、多くの住民が複数回の避難を強いられる状況が発生した。この間、住民の多くは、事故の深刻さや避難期間の見通しなどの情報を含め、的確な情報を伴った避難指示を受けていない。
政府の避難指示によって避難した住民は約15万人に達した。正確な情報を知らされることなく避難指示を受けた原発周辺の住民の多くは、ほんの数日間の避難だと思って半ば「着の身着のまま」で避難先に向かったが、そのまま長期の避難生活を送ることになった。
しかも、事故翌日までに避難指示は3km圏、10km圏、20km圏と繰り返し拡大され、そのたびに住民は、不安を抱えたまま長時間、移動した。その中には、後に高線量であると判明する地域に、それと知らずに避難した住民もいた。20km圏内の病院や介護老人保健施設などでは、避難手段や避難先の確保に時間がかかったこともあり、3月末までに少なくとも60人が亡くなるという悲劇も発生した。
また、3月15日には20~30km圏の住民に屋内退避が指示されたが、その長期化によってライフラインがひっ迫し、生活基盤が崩壊した。それを受けて3月25日には、同圏の住民に自主避難が勧告された。政府は、住民に判断の材料となる情報をほとんど提供していない中、避難の判断を住民個人に丸投げしたともいえ、国民の生命、身体の安全を預かる責任を放棄したと断じざるを得ない。
さらには、30km圏外の一部地域では、モニタリング結果や、3月23日に開示されたSPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)の図形によって、比較的高線量の被ばくをした可能性が判明していたにもかかわらず、政府原子力災害対策本部(原災本部)が迅速な意思決定をできず、避難指示が約1カ月も遅れた。
「着の身着のまま」の避難、複数回の避難、高線量地域への避難、病院患者等避難に困難を伴う住民への配慮に欠けた避難などにより、住民の不満は極度に高まった。
当委員会が実施した住民に対するアンケート調査においても、回答欄に加えて、余白や裏面、封筒、さらには別紙を添付して、混乱を極めた避難の状況や現在の困窮、将来に向けた要望が詳細に記述されており、その思いの強さが感じられた。
4.2.1 遅かった事故情報の伝達
1)事故を知った時刻
東電から3月11日15時42分に10条通報、16時45分に15条報告が経済産業大臣、福島県、立地町に対して通知され、19時03分には国から原子力緊急事態宣言が発せられたが[16]、翌12日朝に10km避難指示が発令されるまで、住民の原発事故に対する認知度は全般に低かった。また、同じように住民の避難を余儀なくされた地域であっても、原発からの距離によって事故情報の伝達速度に大きな差が発生した。
当委員会が住民に対して行ったアンケート調査[17]によると、原発周辺の5町(双葉町、大熊町、富岡町、浪江町、楢葉町)の住民であっても、3月12日6時前の10km避難指示より前に事故の発生を知っていた住民はわずか20%以下にとどまる。
図4.2.1-1 事故の発生を知った住民の割合(100%:避難した住民)※当委員会アンケート調査による(以下同じ)[18]
2)事故を知った情報源
多くの住民にとって、事故の情報源はテレビなどのメディアであった。アンケート回答によると、自治体や警察経由で事故情報を知った住民は、双葉町、楢葉町では約40%を占めるが、南相馬市、川俣町、飯舘村ではわずか10%台にとどまっている。南相馬市、川俣町、飯舘村に加えて、川内村、葛尾村では、半数以上の住民がテレビなどのメディアによって事故発生を知ったという。
図4.2.1-2 事故情報の情報源[19]
4.2.2 住民から見た避難の問題点
1)避難指示を知った時刻
事故発生後、政府は避難区域を段階的に拡大していったが、住民への避難指示の伝達は、自治体によって迅速に行われた。
例えば、町の多くが福島第一原発の10km圏内に含まれる双葉町、大熊町、富岡町では、10km避難指示の出た12日午前6時前から約3時間後の9時ごろには、住民の約80%が避難指示について知っていた。浪江町についても、10km圏内の住民に対しては十分迅速に避難指示が伝えられた。
福島第二原発の立地町である楢葉町では、政府の避難指示に先立って12日8時に全町民避難を決定したが、10時ごろには住民の80%が避難指示を認知していた。葛尾村も政府の避難指示に先立ち、14日21時に村役場の判断で全村民避難指示を出したが、その直後には住民の90%が認知していた。こちらも伝達が極めて早かったといえる。
図4.2.2-1 避難指示を知った住民の割合(100%:避難した住民)[20]
2)避難指示の情報源
住民にとって、避難指示の情報源は主に自治体からの連絡であり、地元の自治体と住民による情報伝達力の高さが表れた。
政府の避難指示に先立って役場が住民避難を決定した楢葉町と葛尾村は、住民の70%が自治体からの連絡によって避難指示を知らされている。その他の福島第一原発から20km圏内の地域に含まれる多くの市町村でも、住民の40~60%は避難指示を自治体等(自治体、防災無線、警察)から入手している。テレビなどのメディアによって避難指示を知った住民の割合は10~20%程度にとどまる。
他方、南相馬市、飯舘村、川俣町など、4月になってから計画的避難区域に設定された地域を含む市町村では、40%程度の住民がテレビなどのメディアによって避難指示を知った。
図4.2.2-2 避難指示の情報源[21]
また、政府から自治体への避難指示の伝達には大いに問題があった。
政府から自治体への避難指示の連絡を受信できたのは、双葉町、大熊町、田村市のみであり、富岡町、楢葉町、浪江町、広野町、南相馬市、川内村、葛尾村は政府からの避難指示の連絡を受信せず、あるいは政府からの避難指示が出る前に、報道等によって自らの判断で住民に対して避難指示を発令した。自治体から住民への避難指示の伝達は極めて迅速に行われたと評価できるが、政府の各自治体への緊急時の連絡体制はほとんど機能していなかったと言える。
自治体が住民に対して避難指示を発令した後、住民の避難は速やかに実施された。3)避難した時刻
多くの地域が福島第一原発から10km圏内に含まれる双葉町、大熊町、富岡町の住民は、自治体による避難指示の発令から数時間後には、その80~90%が避難を開始していた。浪江町でも10km圏内に含まれる地域においては、ほぼ同様の傾向があった。楢葉町は12日8時30分に全町民避難を決定し、その数時間後までには80%の住民が避難を開始している。葛尾村においても、14日21時15分に役場が出した避難指示によって、14日深夜までには住民の90%が避難した。
田村市、広野町では、自治体による避難指示の数時間後には、80%近くが避難を実施している。20km圏内の地域を含み、最終的に多くの住民が避難することになった川内村と南相馬市では、20km避難指示が出された12日の時点では20~30%程度の住民しか避難していないが、その後、自主的に避難した住民の割合が徐々に増加している。
他方で、4月に入ってから計画的避難区域に指定された飯舘村と川俣町では、3月15日時点では住民の多くは避難していなかった。30km圏については、3月15日11時に屋内退避指示、3月25日に自主避難要請が出されたが、実際は、こうした政府の指示を待つことなしに、自主的に避難を行った住民が続出した。
図4.2.2-3 避難した住民の割合[22]
4)「着の身着のまま」での避難
a. 原発事故と知らずに避難した住民
アンケート調査の自由回答において、特に双葉町、大熊町、富岡町、浪江町、楢葉町、南相馬市、広野町の住民からは、「事故情報がなかった、着の身着のままの避難だった、原発事故だと思わなかった」という意見が多く寄せられた。以下にいくつかの住民の声を紹介する。
双葉町の住民
「とりあえず避難と着の身着のままで家を後にし、避難先も車で移動中に防災無線で知ったような状態でした。普段なら1時間ほどの距離を6時間以上かかって最初の避難所に到着。この間、遠くに住む息子から『当分帰れないと思うよ』と電話で言われ、少しずつ現実がわかりかけたように覚えています。家を追われ、友人、知人と離ればなれの生活がどんなものかわかりますか」
大熊町の住民
「避難指示を出す際にせめて一言でも、原発関係に触れていれば、それなりの準備をして、せめて貴重品、戸じまりくらいは持ち出して避難に入れたと思います。着の身着のままの避難、一時帰宅の度に家の中は盗難に入られ、ガッカリです」
富岡町の住民
「最初の避難の時に、しばらく戻れないとはっきり言ってほしかった。貴重品も持ち出せず、特に医療関係の書類等がないため両親共に症状が悪化してしまった。着の身着のままでは、高齢者にはきつい。借家のため、富岡に執着はないが、今住んでる仮設にずっと居れないなら、家がなくなる等の問題が多い。生活保護の復活を望む。※避難、誘導してくれたのが県や町の職員ではなく、父の医療関係の方々で、父がどこに避難したかわからず、探すのに半日かかった。避難者名簿等の作成が遅い」
浪江町の住民
「3/12朝、町の体育館で校内放送で、原発の事故よりも、津波が東中学校まで来ています、津島の方へ避難するよういわれて、やっとの思いで津島小学校で夜を明かしましたが、その時、事故発生のことをもっと具体的に説明があれば、津島でなくもっと遠くまで避難していたと思います。連絡がなかったことが残念です」
楢葉町の住民
「避難指示は、原発事故との明解な内容はなく不明瞭であった。何で避難をするのか分からないままの避難は、不安だけを扇いだように思います。その後は、国、東電への不信感が膨らみ、今もって変わることはない。ただ、東電の社員の方への不満ではなくて、東電という企業体質の欺瞞が許せないのです。事故はどうして起こったのか? 地震でか、津波によって初めて起こったのか? その後の対応に、隠されて報道されてない事実はないのか。原因究明に期待しております」
南相馬市小高区の住民
「発電所が水素爆発した事がわからず、なんで避難するのかわからなかった。当時の所長がテレビで、あの時は死ぬかと思ったと言っていたが、そんな情報も住民に直ちに知らせるべきであると思う。とにかく、情報が遅れている。住民を軽く扱っている」
広野町の住民
「私は東電の原子力発電所での事故とはわからず、なぜ避難するのかわからずに町から放送で避難するようにとありました。ただ地震、津波で電気や水道が出ないので避難をしましたが、早く原子力の事故だと教えてほしかったと思います。早く家に帰りたいです」
b. 「念のため」の避難指示
福島第一原発から3km圏内の避難指示及び10km圏内の屋内退避に関して、原子力緊急事態宣言が出されたことを踏まえて、枝野官房長官は3月11日夜の記者会見で、同時点における状況と避難の理由を以下のとおり説明した。
「これは念のための指示でございます、避難指示でございます。放射能は現在、炉の外には漏れておりません。今の時点では環境に危険は発生しておりません」
また、10km圏内避難指示及び福島第二原発から3km圏内避難指示に際しては、枝野官房長官は12日午前の記者会見において、東電に対して福島第一原発の1号機及び2号機のベント指示を行ったこと並びに福島第二原発1号機、2号機、4号機に関する15条報告及び原子力緊急事態宣言が出されたことを踏まえて、福島第一原発から10km圏内避難指示について①のとおり、福島第二原発から3km圏内避難指示について②のとおり説明した。
①「この管理された状況での放出をということについては、10km圏外に出ていただいているというのは、まさに万全を期すためでございますので、その点にご留意をいただき、落ち着いて退避をしていただければというふうに思っております」
②「こちら第二についても、現時点で放射性物質を含む外部への流出は確認をされておりません。万全の措置を取るべく、3km圏内の住民に退避の指示をしたところでございます」
さらに、福島第一原発から20km圏内避難指示に際して、福島第一原発の1号機の水素爆発及び海水注入という事故の状況を踏まえて、枝野官房長官は12日夜の記者会見において、同時点における避難の指示を以下のとおり説明した。
「これまでの対応方針同様、今回の措置によって10㎞から20㎞の間の皆さんに具体的に危険が生じるというものではございませんが、新たな対応を取ることの可能性が出たことに鑑み、念のために、さらに万全を期す観点から20㎞に拡大いたしたものでございます」
いずれの記者会見においても、枝野官房長官は、官邸から住民への情報伝達として「念のため」や「万全を期すため」という説明をしており、事故が実際にどの程度進展しているのか、その時点で事故の進展の見通しがどうなっているのか、という点については触れていない。
少なくとも説明の内容としては、「万が一の場合における念のため」や「万全を期すため」ということを強調するのではなく、住民の不安な気持ちに配慮した上で、状況把握及び判断に資するために、原子力発電所の状況について分かっていることと分かっていないことを説明した上で、暫定的であっても将来の予測として原子炉がどのようになることが予測されるのか、何日間程度の避難なのか、避難に関してどういった準備が必要か、といった点を伝えることが必要であったと考えられる。
先に引用したとおり、住民の声には避難指示の内容に対する不満が強く、本事故における初期の避難指示に関して、政府原子力災害対策本部(以下「原災本部」という)が避難に役立つ情報を知りたいという住民のニーズに応えていない実態が見えてくる。
5)避難区域の拡大と多段階避難
a. 6回以上避難した住民も少なくなかった
当委員会の行ったアンケートによれば、福島第一原発に近い双葉町、大熊町、富岡町、楢葉町、広野町、浪江町では、20%を超える住民が6回以上の避難を行っていた。これは主に政府が3km、10km、20kmと段階的に避難区域を拡大したためだが、結果的に住民には大きな負担となってしまった。
図4.2.2-4 各市町村の住民が平成24(2012)年3月までに避難した回数[23]
この点、アンケートの自由回答欄においても、特に大熊町、富岡町及び南相馬市の住民からは「避難場所を転々とし、何度も避難を繰り返した」という声が多数寄せられた[24]。
大熊町の住民
「警察か誰か、白いマスクをした人がただ『西』へ逃げろと云うだけで具体的な指示はなかった。私どもは川内村を目指したが車が渋帯して、普段30分程の行程を5時間位かかってしまった。川内村では道路も広場もどこもかしこも車でいっぱいで葛尾村へ避難し、1泊したが、その晩そこも避難対象区域となってしまった。1才の孫と一緒で大変心配したし、今でも心配している。私は透析患者で病院を懸念したが、幸い郡山で透析出来て良かったが、1週間ほど透析出来ない人もいたと聞く。病院も国の機関で取り扱かって欲しい」
富岡町の住民
「わけがわからず、川内村に避難しろと放送があり、仕度して川内村に向いましたが、川内村はいっぱいで違う所に避難先を変更して、三春に着きましたがそこもいっぱいで、本宮の避難所に行かされました。その後も何カ所か移動しましたが、今はいわき市の借り上げ住宅にいます。あれから1年経ちますが私たちはどうなるのでしょうか」
浪江町の住民
「浪江に戻っても、屋根瓦が落ち、一時帰宅するたび、放射の雨漏りがひどく、とても住まれるという感じはしません。帰宅するたび、腹が立つ。家の息子も、ここに住む事は、もう無理だと言っている。3月11日夕方、ブルーシート6枚、ロープ1束買って来て、12日朝から屋根に掛けようと思って用意していたところに、防災無線と、組長さんから、今すぐに津島の学校とか体育館に行くようにと言われて、津島に3、4日居た。放射線の高い所でした。それから、県内外6カ所も歩いて、今の所に落ちついた(二本松)」
b. あらかじめ広範囲の避難指示をすればよかったのか
多段階避難に関しては、以下に述べるとおり、主に2つの疑問が挙げられる。
① 段階的な避難指示ではなく、最初の時点で福島第一原発から20kmという広めの避難区域が設定されていれば、多数回の避難を行わないでも済んだのではないか
内閣府原子力安全委員会(以下「安全委員会」という)の班目委員長は、避難区域の設定についてはシャドウエバキュエイションという問題を考慮しなければならない、という趣旨のことを述べている[25]。シャドウエバキュエイションとは、避難する必要性のない場所の住民が避難指示に過剰反応した結果、避難用の通路に渋滞が発生して、かえって避難すべき住民の避難が遅れるという問題が発生することである。班目委員長は、本事故対応として行われた段階的な避難について、あくまでも原子力発電所の状況を鑑みた結果の段階的な避難区域の設定ではあるが、この問題に関する限り、結果として「正しかった」と主張している。
仮に、初期の時点で、20km圏内の区域における避難指示を出したならば、避難路が限られている状況下では、最も避難しなければならない原発の近隣住民の避難が遅れるという問題が発生することが予想される。その意味では、「当初から20km圏内の避難指示を出しておけばよかった」とは必ずしもいえない。
実際、住民の意見の中でも、初期に避難を開始した原発近隣の双葉町及び富岡町においては、「渋滞や道路状態の悪さにより、避難場所にたどり着くまで時間がかかった」という意見が多かった。
② 最初の避難指示で、避難先を福島第一原発から20km以遠にしていれば、多数回の避難をしなくて済んだのではないか
福島県地域防災計画(原子力災害対策編)(以下「県地域防災計画」という)によれば、10km圏(EPZ:Emergency Planning Zone[26]に相当する)内の町村は、自ら町村の地域防災計画を作ること、及び避難計画を策定することが予定されている。その中で、第一義的に基礎自治体が避難計画の策定とその実施義務を負うものとされ、市町村をまたいだ広域にわたる避難が問題となる場合には、福島県が避難計画の作成を行うものとされている。
しかし、実際には、福島県は本事故の以前には広域の避難を全く想定しておらず、本事故においても広域の避難の準備に関してほとんど主導的な役割を果たしていない。福島県が主導的に市町村をまたいだ避難先の調整に協力したとされているのは、福島第一原発から10km圏内の避難指示の際の双葉町と大熊町だけ(双葉町の避難先の指定は川俣町、大熊町の避難先の指定は田村市)である。
その結果、初期の一次避難は第一義的に町村に委ねられることとなり、一次避難先が自らの市町村内の避難所であることもあり、また、原発の状況が詳細に伝えられていない中での避難となった。福島県が主導して、初期の避難区域の設定の段階で20km圏外への避難を誘導するなど、先を読んだ対応が可能であったならば、多段階避難による住民の負担を緩和できた可能性がある。その意味で、県地域防災計画における広域避難の準備・想定不足には問題があったといえる。
6) 長期の屋内退避指示による生活基盤の崩壊
a. 屋内退避が住民にもたらしたもの
3月15日11時に福島第一原発から20km~30km圏内に対する屋内退避指示が出されて以降、3月25日に自主避難要請が出されるまで、自主的に避難した人以外の住民は、10日間にわたって屋内に退避し続けることになった。なお、3月25日以降も自主避難をしなかった住民は、4月22日の屋内退避指示解除まで1カ月以上にわたり屋内にとどまったことになる。こうした屋内退避指示の対象になったのは、南相馬市、飯舘村、浪江町、葛尾村、田村市、川内村、楢葉町、広野町、いわき市のそれぞれの一部である。
このうち、特に、南相馬市、いわき市、田村市、飯舘村の対象地域では、屋内退避の長期化によって、物流や商業が停滞し、住民の生活基盤が崩壊するという問題が生じた[27]。
20kmから30km圏内の住民、特に南相馬市からアンケート調査の自由回答に寄せられた、屋内退避(緊急時避難準備区域に対する意見を含む)に関する住民の意見を紹介する[28]。
南相馬市の住民(20kmから30km圏内)
「避難をしたくても、認知症の親がいるため避難は出来なかった。避難者は今も精神的苦痛として補償されているが、自宅にいた私達は1回の補償で終り、部落の除染をしたりしているが、精神的苦痛は自宅避難者も同じではないのか。避難した人達はホテル・旅館等に移り、支援物資をもらって1週間に1回自宅に戻り、物資も持って来たようだ。自宅にいた私達は店が閉って購入出来ない。ガソリンも不足して乗れなかった。東電より20km以内はともかく、旧緊急時避難地域の避難出来なかった人達も考慮すべきではないか」
南相馬市の住民(20kmから30km圏内)
「南相馬市原町区馬場在住でしたが、屋内退避とかにはなったが、当時はとても家にいれる状況ではなかった。(町に人はいなくなり、食料もなくなったりして(ガソリンも)、自分たちの判断で避難し、今に至る(避難継続中)。1年たって、今ごろになり、本当の原発の状況をマスコミ等で聞かされても、悔しい限りです!!警戒区域になった人たちの方が、いろいろされていて、原町の人は本当につらかったと思う!!」
b. そもそも短期想定だった屋内避難
そもそも、屋内退避措置は短期間を想定しているものと考えられる。屋内退避が長引けば、長引くほど住民の生活が辛いものとなるのは当然である。
屋内退避は、屋内に退避することにより放射性プルーム(雲)が通過する期間をやり過ごすことを目的としているにすぎず、安全委員会作成にかかる「原子力施設等の防災対策について」(以下「防災指針」という)[29]でも、10日間にもわたることは想定されていないと考えられる。
すなわち、防災指針上は明示されていないが、屋内退避指示が最適とされる日数について防災指針が参考とする国際的な合意では最長2日程度を想定している[30]。防災指針は、こういった国際合意を参考にして策定されており、基本的には同様の考え方に基づいていると考えられる[31]。
このように、そもそも屋内退避指示は基本的には短期間を想定していると考えられるため、その結果として商業・物流が停滞するような状況までは考慮されていない。住民の視点に立つと、屋内退避が長期化する見通しとなった時点で、住民の生活基盤を確保するための措置を講じることが求められる。または、屋内退避指示の時点であらかじめ退避期間の見通しを示すことが望ましい。
しかし、本事故では、3月15日の20kmから30km圏内屋内退避指示が出された際には、期間の見通しは全く示されなかった。この結果、物流・商業の停滞から住民は十分な生活基盤を失った。原災本部事務局による屋内退避区域の被災者への支援が、遅くとも3月21日からは開始されたが、物資支援は十分に行き届いてはいなかった[32]。こうしたことからみても、政府の住民生活への視点は全く足りていなかったといえる。
7)危険か否かの判断を住民に委ねた自主避難
a. 住民は自主避難をどう見たか
図4.2.2-5 自主的な判断による避難を行った住民の割合[33]
枝野官房長官は、3月25日、20km~30km圏内の屋内退避指示区域の市町村に対して、住民に対して自主避難を促すよう指示した旨、記者会見で発表した[34]。
当委員会の行ったアンケートでは、その大部分が20km圏外であり、政府による避難指示が比較的遅かった地域(南相馬市、川内村、田村市、飯舘村、川俣町)では、自主避難した住民の割合が高かったことが判明した[35]。
以下に、アンケートの自由回答欄に寄せられた自主避難に関する意見を紹介する。特に南相馬市及び川内村の住民の意見が多かった。
南相馬市(20kmから30km圏内)の住民
「自主避難というかたちにするべきなのか、どこへと難しい選択でした。また原発の事故の後は“外には出るな”“窓は開けるな”とのことでしたので、市の広報車が半日に1回程度巡回していましたが、ぜんぜん聞き取ることはできませんでした。私どもは市街地でしたので、どこからの話もなく、市外の親戚者から、区長より自主避難との話があったとのことを聞きました。(中略)NHK放送にての原発の事故に東電幹部の方々の責任を感じない姿勢に非常に悲しく思いました。利用年数を越えて使用していたことが大きな原因ではなかったのではないでしょうか。想定外などありえません。一番の思いは子供達のことです」
川内村(20kmから30km圏内)の住民
「3月11日に事故の第一報を聞いてから、直後、村に多くの方が避難してきました。若い人たちはケータイで、チェーンメールのように『逃げろ』と連絡しあっていました。でも、正式に避難についての情報は、どこからも入りませんでした。防災無線で屋内退避といわれただけです。警察に家族が勤務している近所の人が、『なんだか危ないから逃げる』というのを聞いて、自主避難しました。14日には、警察はもう川内村を出ていたと聞きます。ボランティアで村内の炊き出しをしていた人は、村内の移動でガソリンを使い果たしていました。少しでも早く逃げるのを助けてほしかったと思います。見殺しにされたという思いが消えません」
b. 自主避難は政府の責任の放棄
原災本部が、市町村を通じて住民への自主避難を促すということは、避難するか否かの判断を住民に委ねるということである。
枝野官房長官[36]は、屋内退避指示を行った時点から新たに放射性物質の放出等の事情変更がないことから、新規に避難区域の設定を行う必要性はないとしつつ、屋内退避指示の結果、商業や物流の停滞により住民の生活の継続、維持が困難になりつつあることから、このような自主避難を促す指示を出したと説明している。
この前後から、原災本部事務局は、屋内退避している住民への生活支援に加えて、自主避難者への支援として、福島県に対して宿泊施設の情報提供や、移動手段の確保に関する情報提供、物資の支援等を開始している[37]。
しかし、この「自主避難」は防災指針及び県地域防災計画にも記載のない新しい概念であるため、住民は混乱に陥った。住民が自らの健康を守るために、放射性物質にさらされる可能性のある場所から自分の意思で退避をすること自体は、当然の権利であり、避難の判断を個人に委ねることは、個人の自由を尊重した判断のようにも聞こえる。しかし、それでも避難の判断を住民に委ねたのは適切ではなかったと考えられる。
国には国民の生命と身体の安全を保護する責務があり、原子力災害などの緊急時においては、まさに国家はこの責務を果たさなければならない。初期の3km、10km、20kmの避難指示及びその後の計画的避難区域の設定に関しては、政府・原災本部はまさに国家の責務を果たすべく強制的な避難指示を行ったが、20km~30km圏内の住民については全く異なる対応として、住民自らに避難の判断を委ねた。この点、例えば、枝野官房長官が説明したように放射性物質の新たな放出等の事情変更がないのであれば、屋内退避措置を解いたうえで、物流や商業の停滞を防ぐ手立てを取ることもできたであろうし、区域内からの避難が必要であれば、避難区域の拡大をすることもできたであろう。実際後述のとおり、3月25日の時点で原災本部は、4月22日に設定された計画的避難区域の基礎となる情報を確認していた。しかし、この時点で原災本部がしたことは屋内退避の解除か、避難区域の拡大かという判断を先送りし、避難を住民の判断に委ねるという対応をしたものであり、政府・原災本部は国民の生命、身体の安全の確保という国家の責務を放棄したといわざるを得ない。
8)汚染区域への避難
事故発生後、原災本部は、避難区域を原発から同心円状に設定した。当初は汚染状況が不明であったため、そのこと自体が必ずしも不適当な措置だったと言うことはできない。実際、平成20(2008)年原子力総合防災訓練では同心円の避難が基本である。
しかし、放射性物質による汚染は同心円状に広がるわけではなく、実際の汚染の広がり方は、風向きなどの天候に左右される。本事故では、住民が一次避難をした先が、結果的には放射線量が比較的高い場所だったことが後に判明したケースがあった。
a. 比較的高い線量の地域に避難してしまった住民の声
浪江町は、3月12日、町独自の決定で、町内の原発から20km圏外の津島地区への避難を決定した。双葉町も、同日、福島県からの指示によって川俣町への避難を決定した。また、南相馬市では、3月15日以降に、自主避難者が飯舘村、川俣町方面へ避難した。しかし、これらの避難先はいずれも後に高い線量が確認されたことから、その後計画的避難区域に指定された。
当委員会の行ったアンケートによると、後に警戒区域・計画的避難区域に指定された地域に避難した住民の割合は、浪江町の約50%をはじめ、双葉町の約30%、富岡町の約25%となっている。その他の市町村でも、避難した住民の10~15%程度が、結果的に後に避難区域に指定される線量の高い地域に避難したことが明らかとなった。
図4.2.2-6 後に警戒区域・計画的避難区域に指定される地域に避難したことがある住民の割合[38]
これらの避難者は、安全を確保するために避難したにもかかわらず、実際には高線量環境であった地域に、それと知らず一定期間滞在したことが後に判明し、そのことによって精神的ストレスを受けている住民も少なくない。
これに関連する問題として、SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)のデータの情報開示に係る問題がある[39]。
安全委員会は、3月23日、モニタリングのデータを基にSPEEDIを使って推計した放出源情報を用いて計算したヨウ素の小児甲状腺等価線量の積算線量を表した図形を公表した。この図形には、飯舘村、川俣町山木屋地区及び浪江町津島・赤宇木地区などで、甲状腺等価線量100mSvを超えるヨウ素被ばくをしている住民がいる可能性が示唆されていた。そのため、こうした地域の住民からは「SPEEDIのデータを政府が迅速に公表していれば、自分たちは無用な危険にさらされずに済んだ」との声が上がった。アンケートの自由回答に寄せられた「線量の高い地域に避難した。SPEEDI情報は即時開示すべきだった」という趣旨の住民の声を紹介する。
浪江町の住民
「SPEEDIが公表されず、一番放射線の高い所に避難したことは、一生健康面で脅かされます。なぜ公表しなかったのか、人の命を何と思っているのでしょうか。自宅の方もとても住める状態でなく、インフラの整備、除染など難しく、また中間貯蔵施設が近く、大きな不安を感じます」
浪江町の住民
「128億もかけたSPEEDIでの放射性物質の拡散予測や放射線量の情報を行政へ伝えておけば、線量の高い津島地区への避難指示は、我々浪江町民へは出されなかったと思うと、非常に残念で悔しく思います(私は12日から15日昼まで津島に滞在)。ぜひ隠すことがなく、真実の原因究明をしていただき、二度とこのような事故が起こらないように願う!」
南相馬市の住民
「妻は妊娠初期でした。SPEEDIを早く公表してくれていれば、不安がもっと少なくて済んだのにと思います。飯舘の実家→福島、と放射線の比較的高い所へ移動しました。すごく残念」
b. 誤解を引き起こした政府の不十分な情報提供
前述したように、平成23(2011)年3月23日、安全委員会がSPEEDIの計算図形を公表した。公表された計算図形を見て、浪江町、南相馬市や飯舘村の住民らの間には、「SPEEDIにより放射性物質の拡散が予測されていたにもかかわらず、公表が遅れたことで線量が高い地域に避難してしまった、被ばくをしてしまった」と受け止めた人が多く、非難の声が上がった。
しかし、平成23(2011)年3月23日に安全委員会から公表された図形は、緊急時モニタリングによる放射性核種濃度の実測値から、放出源情報を逆推定し、それをもとに過去の放射性物質の拡散状況を再現計算したものであり、それ以前から行われていたSPEEDIの予測計算による図形とは異なるものであることは留意が必要である。安全委員会による再現計算の結果は、実際の緊急時モニタリング結果の実測値と合致するように計算しているのであるから、過去の放射性物質の拡散状況として算出された再現計算と、実際の緊急時モニタリングの結果で矛盾がないのは、当然のことであった。
詳細は「4.3.4」にて後述するが、SPEEDIによる予測計算の結果と、安全委員会によるSPEEDIを用いた逆推定計算の結果は異なるものであり、安全委員会によるSPEEDIを用いた逆推定計算の結果は、政府の初動の避難指示及び避難区域設定時には存在していなかった。多くの住民には、安全委員会によるSPEEDIを使った放出源情報の逆推定計算による図形が、あたかもSPEEDIが放射性物質の拡散予測をした結果であるかのように伝わっており、これにより浪江町をはじめとする多くの住民が、SPEEDIのデータ開示の遅れが政府の初動の避難指示における最大の問題だったと受け止めている。このように住民に広がった誤解は、政府の住民に対する説明が不十分であったことを示している。
9)計画的避難区域の設定
計画的避難区域が設定された経緯は、以下のとおりである。
原災本部は、3月15日に20kmから30km圏内の区域の住民に屋内退避指示を出したが、その後、屋内退避の長期化により住民の生活基盤の問題が顕在化し、かつ、これらの地域の汚染レベルの実態も徐々に明らかになりつつあった。しかし、原災本部は、新たな避難区域の設定をすることも、かといって屋内退避を解除することもせず、3月25日には自主避難要請をするにとどまっていたが、4月22日になってようやく、計画的避難区域を設定した。
計画的避難区域とされたのは、福島第一原発から20km以遠で、1年間の積算線量が20mSvに達するおそれがある地域である。住民が「おおむね1カ月以内」に、別の場所への避難を完了することが望ましいとされた。具体的に、この計画的避難区域に指定されたのは、汚染レベルの高かった原発から北西方向のエリアの、葛尾村の一部、浪江町の一部、飯舘村全域、川俣町の一部(山木屋地区)及び南相馬市の一部である。
a. 計画的避難区域の住民からの声
当委員会が行ったアンケート調査によれば、計画的避難区域に指定された市町村のうち、特に、飯舘村、川俣町の住民からは、計画的避難区域の設定が遅かったという批判が寄せられた。なお、飯舘村、川俣町では、3月15日の時点ですでに避難していた住民は、最終的には避難した住民のうちの20~30%にすぎず、この時点では多くの住民が町村内に残っていた[40]。以下、住民からの声の一例を示す。
飯舘村の住民
「私達は計画的避難地域でしたので、原発事故の時も避難指示も何も出ていないので、小さい子供と外を歩いていました。完全に被ばくしてしまいました。まだ小さい1才6カ月くらいの子供がすごく高い放射能の中に過ごして、外で平気で遊ばせていました。もっと早くSPEEDIで流れがわかっていたのですから、発表してほしかったです。上の方の人の考えがわかりません。我々庶民だって命は命なのですから。子供が可愛いのは上の人も下の人も同じです」
「原発事故の初期の情報がこの地域に全く無かった。放射線もIAEAが調査に入った以降に知らされた。TVでは枝野官房長官が『今すぐに健康に影響がある』放射線量でないと繰り返し放送していた。これは情報操作以外のなにものでもなく、飯舘村民は4/22まで(計画避難になるまで)放射線を浴びてしまった。その後の賠償金の支払いでも1年経過したにもかかわらず、財物に対する損害賠償もされないまま、避難区域見直しをしてゴマかそうとしている」
川俣町の住民
「ただちに影響は無いと言いながらも、避難の説明が4/16でした。もっと早く説明してくれてたら、避難先の確保が早くできたと思う。広範囲の被災といえども、対応が遅いと思う。最も大切な初期の現況把握と対応ができてないし、『統一した対策』指令がなかったように感じた。危機に際して準備を求めたい、未曾有の大災害なのに党利党略ばかり、人間性を疑う。そういう人を選んでしまった我々国民にも責任はある、残念ですが」
「事故の検証調査も必要だと思いますが、放射能に汚染された地域になってしまった所に本来避難しなければいけないのに住み続けさせられていることを、しっかり調査すべきだと思います。なぜ避難させられなかったのか? SPEEDIのデータを活用しないで計画的避難区域の人々が1カ月も遅れたのか?除染の効果も十分得られないのに帰還させようとしていることの検証もお願いします」
b. 1カ月も避難区域指定が遅れた理由
前述したように、モニタリングのデータや3月23日のSPEEDIの小児甲状腺等価線量の積算図形から、遅くとも3月23日の時点では、原災本部は、飯舘村、川俣町山木屋地区、浪江町津島地区周辺の積算線量が高いことを認識していたはずである。しかし、それらの地域が計画的避難区域と定められたのは、それから1カ月も後の4月22日のことである。なぜこれほど遅れたのだろうか。
原災本部は、モニタリングのデータによって、3月16日の時点ころから、飯舘村や浪江町津島地区周辺で比較的線量の高い地域が存在することを認識していた。例えば、文科省のモニタリングによれば、3月15日20時40分から50分の時点で、浪江町昼曽根トンネル付近において、255μSv/hから330μSv/hの空間線量率が計測されており、そのデータは翌3月16日には、文科省及び官房長官記者会見において確認されている。また、それ以降も、浪江町赤宇木地区、飯舘村長泥地区周辺のモニタリングポイントにおいて100μSv/hを超える空間線量率が計測されており、官邸でもこのような認識は共有されていた。
さらに、3月21日、国際放射線防護委員会(以下「ICRP」という)は、緊急時の防護措置は20mSvから100mSvを基準に行うべきであるという2007年勧告[41]を踏まえた措置を取るべきであるという日本政府に対して通知を発した[42]。またIAEAは、3月30日には、外務省に対して、飯舘村に避難指示を出すべきであるとの勧告を行っている[43]。
しかし、4月22日まで新しい避難区域の設定は行われなかった。
このように計画的避難区域の設定が大幅に遅れた理由は、①関係する組織間の意見調整及び②新たに避難区域を決める際に参照すべき基準の議論のために時間がかかったことにある。
まず、①については、福島県及び政府原子力災害現地対策本部(以下「現地対策本部」という)は、3月21日、経済産業省原子力安全・保安院(以下「保安院」という)に対して、「飛び地的に圏域を設定することは、地域住民にどこにでも発生する可能性があると疑心を生じさせ、県全体に無用の混乱を生じさせること」や「屋内退避や避難指示の区域を変更することは、地域住民に対する混乱が生じることが想定され、現在の状況も含めて総合的に勘案すると慎重に判断すべきと考える」などの理由で避難区域の変更については慎重に判断すべきと意見具申を行っている[44]。
また、飯舘村についても、村長が、3月27日、原災本部との意見交換で、避難区域を広げることは住民の不安をあおるだけであり、好ましいことと思わないという趣旨の発言をしている[45]。このように、当事者である飯舘村や福島県が避難区域の拡大を望んでいないという事情があったため、原災本部は、関係者の意見調整に時間を要していた。なお、安全委員会も3月18日ごろから、モニタリングデータにより局所的に比較的線量の高い場所があることを前提に避難区域見直しの検討の必要性に言及していたのにもかかわらず、3月20日以降は、避難区域見直しの検討の必要性を否定している[46]。安全委員会は、このような一貫しない態度を取り、意見調整に苦慮していた原災本部に対して、助言機関としての役割を果たすことができなかった。
次に、②については、原災本部では避難区域を決める際に参照する基準に関連し、ICRPの2007年勧告Pub103の参考レベルを採用すべきなのか、採用する場合でも具体的な基準をどのように定めるべきか、という点が検討された。本来の原則に従えば、避難区域を定める際の基準としては、防災指針が定める予測線量の基準があり、それは予測線量が外部被ばく実効線量50mSv又は甲状腺等価線量500mSv以上とされている。
これに照らせば、20km~30km圏内及び30km以遠の比較的高線量の地区が、防災指針に定められている基準を超えているとは認められず、原災本部が強制的に避難指示を出すことは正当化も最適化もされない。
これに対し、ICRPが定める緊急時の介入の参考レベルは実効線量20~100mSvとされているので、この最小値を前提に基準を定めるならば、強制的に避難指示を出すことは最適化される。
しかし、この検討には時間を要し、最終的に20mSv/年の積算線量の基準が採用された。
原災本部は、3月21日の時点ですでにICRPから勧告が出ていたのであるから、安全委員会からの助言と迅速な意思決定があれば、ICRPの参考レベルに従って基準を定め、高線量地区の住民に対し避難指示をすることは可能であった。また、運用上の介入レベルとして、あらかじめ避難指示を出すべき空間線量率を定めておけば、基準を超えれば自動的に避難指示を出せるわけで、新たな避難基準を定めるために時間を浪費する必要もなかった。
以上のような意見の調整や基準の決定に時間がかかったため、原災本部が最終的に、安全委員会の正式な助言[47]を得て、計画的避難区域の設定を発表したのは4月11日になり、実際の区域の設定は4月22日になった[48]。このような原災本部の迷走は、住民の安全を第一に考えていなかったと評価せざるを得ない。
10)特定避難勧奨地点
原災本部は平成23(2011)年6月16日、計画的避難区域及び警戒区域の外で、地域的な広がりはないものの、1年間の積算線量が20mSvを超えると推定される地点であって、除染が容易ではない地点を、特定避難勧奨地点と定め、その地点の住民に対しては注意を喚起し、避難を支援、促進する必要があるとした[49]。その結果、特定避難勧奨地点に指定された地点は、平成24(2012)年5月の時点で、伊達市の117地点(128世帯)、南相馬市の142地点(153世帯)、川内村の1地点(1世帯)である。
この特定避難勧奨地点の制度では、世帯単位の指定であり、指定された世帯の居住者は、避難をするか否かを選ぶことができ、避難希望者のみが支援措置(東電からの賠償や、医療保険及び国民年金保険、介護保険の免除など)の対象となる。そのため、住民からは「住居単位で指定されることから地域が歯抜け状態になってしまう」[50]や「避難をしなくても精神的苦痛を受けているので補償や支援を明示すること」[51]といった声があるが、原災本部は、こうした世帯単位ではなく地域での指定を求める住民の要求や残留者に対する補償の要求への対応を行っていない。
これに対して、チェルノブイリ原発事故後のロシア、ウクライナ、ベラルーシでは、実効線量が1mSv以上5mSv未満の地域において、地域指定での移住の権利を認め、移住希望者にも残留希望者にも公的な支援を行う避難政策(任意移住保証区域の設定)が取られている[52]。
また、特定避難勧奨地点指定の基準が自治体によって異なることへの不満もある。例えば、伊達市では地上高1mの空間線量3.2μSv/h(被ばく線量20mSv/年に相当)を基準としつつも、基準に達しない世帯についても地域の事情なども考慮して指定するとともに、特定避難勧奨地点近傍の妊婦や子どものいる世帯などを幅広く指定した。南相馬市は、独自の基準を定めて指定し、特定避難勧奨地点近傍で妊婦や子どものいる世帯については独自の別の基準(子ども・妊婦基準)で指定した。その後、南相馬市においては、子どもや妊婦のいるすべての世帯の指定につき子ども・妊婦基準を採用している[53]。
他方、福島市は市内に3.0μSv/h以上の地点が2カ所あったが、その世帯の住民が避難を希望しなかったことを理由に特定避難勧奨地点の指定を見送り、除染を優先するとした。説明会で住民は、地域単位での指定や子どもや妊婦のいる家庭の指定に関する独自の基準の適用を求めたが、福島市は応じなかった[54]。こうした住民の意向や地域の実情はくみ取られず、避難か残留かについての住民の選択は十分に尊重されていない。この点について、アンケートの自由記述欄から、南相馬市の住民の声を紹介する。
南相馬市の住民
「私達の地区には、国の指示により避難した人達、避難を全くしなかった人達がいます。原発事故により受けた精神的苦痛に対して、平等に補償をすべきと思います。避難をしなかった人達も商店街が閉店、病院も閉鎖、学校も閉鎖、自家野菜も食べられない被曝による心配、避難勧奨地点の地域は全て平等に補償をすべきと考えます」
「私達の住んでいる地区は、特定勧奨地点になっていますが、世帯単位でなっています。放射線量が同じであっても、子供がいる、いないで外されています。こんな地区ながら、ガラスバッチさえ配布されていません。私達は見捨られています。地域分断も今、現実になっています。被害者同士なのに、なぜか後ろめたい生活をしています。何のための指定なのか、考えてください。3月12日、今でも仮設に、避難に、これから入りますという人もいます」
4.2.3 病院の全患者避難
本事故直後、避難区域とされた原発から半径20km圏内では、病院[55]の入院患者など自力での避難が困難な人たちが取り残された。震災直後の混乱の中、これらの病院に対しては行政からの十分な支援がなされず、医療関係者らは独力で避難手段を探し、入院患者の受け入れ先を確保しなければならなかった。通信手段が限られ、十分な情報も入手できない状況の中、入院患者の避難は困難を極め、避難の過程で病状が悪化、又は死亡する事例が続出した。これらの病院の入院患者や医療関係者は、いずれも避難の過程において多大な負担を強いられた。特に身体への負担が軽い交通手段や早期に医療設備がある避難先を確保できなかった病院に入院していた重篤患者は、深刻な事態に陥った。こうした事態をもたらした要因は、広範な避難区域設定を伴う大規模な原子力災害を想定していなかった地方自治体及び医療機関の防災計画の不備にあったと言わざるを得ない。
県地域防災計画はJCO事故規模の事故を想定して策定されており、病院の避難計画の作成や避難の実施を病院が独力で行うとしている。今回の事故はその想定をはるかに上回るものであり、病院が独力で避難先や避難手段を確保できる状況ではなかったが、福島県や市町村はこれに消極的な関与しか果たさなかった。本事故による避難指示が患者に過大な負担を強いた原因として、このような原子力災害への備えの欠如があるといえる。
本項では、まず避難区域内の病院の入院患者が強いられた避難の実態を明らかにした上で、福島県、市町村、病院が入院患者の避難において果たした役割を検証し、主に県地域防災計画の問題点を指摘する。
1)避難の実態
a. 事故発生時の原発周辺の医療機関の概要
福島第一原発から20km圏内には、大熊町、双葉町、富岡町、浪江町、南相馬市の5市町に7つの病院が存在する。県立大野病院(大熊町)、双葉病院(同)、双葉厚生病院(双葉町)が5km圏内に、今村病院(富岡町)、西病院(浪江町)が10km圏内に、市立小高病院(南相馬市)、小高赤坂病院(同)が20km圏内にある。事故当時これらの7つの病院には合計約850人の患者が入院していた(「図4.2.3-1」参照)。そのうち約400人が人工透析や痰の吸引を定期的に必要とするなどの重篤な症状を持つ、又はいわゆる寝たきりの状態にある患者であった(以下「重篤患者」という)。
本事故によって避難指示が発令された際、これらの病院の入院患者は近隣の住民や自治体から取り残され、それぞれの病院が独力で避難手段や受け入れ先の確保を行わなくてはならなかった(【参考資料4.2.3-1】参照)。
b. 救えなかった60人の命
当委員会の調査によると、平成23(2011)年3月末までの死亡者数は7つの病院及び介護老人保健施設の合計で少なくとも60人に上った。「震災後の避難前の時点」から「別の病院への移送完了」までに死亡した入院患者数は、双葉病院38人、双葉厚生病院4人、今村病院3人、西病院3人であった[56]。また、双葉病院の系列の介護老人保健施設の入所者は同病院の患者と一緒に避難したが、そのうち10人が死亡している。なお、死亡者の半数以上が65歳以上の高齢者である。平成23(2011)年3月末までに40人の死亡者が発生した双葉病院は、医療設備のある避難先や避難手段の確保が比較的遅かった上に入院患者数も多く、本事故による避難において最も過酷な環境におかれたといえる。
c. 患者への負担の病院による差
20km圏内に含まれる7つの病院の間では、避難先の医療機関と避難手段の確保ができたか否かによって、その後の患者への負担に大きな差が生じた。
県立大野病院、双葉厚生病院、市立小高病院は、早期に避難手段や避難先の医療機関を確保でき、近隣の住民の避難とほぼ同時である3月13日までに入院患者全員が避難した。県立大野病院及び市立小高病院における死亡者はおらず、双葉厚生病院では4人が死亡したものの、いずれも避難による負担とは関係のない病死と判断されている[57]。
他方、避難先の医療機関と避難手段の確保が難航したのは今村病院、西病院、小高赤坂病院及び双葉病院だった。これらの4病院は近隣住民や自治体よりも避難が遅れ過酷な状況に追い込まれた。4病院共通の課題として、医療関係者の避難による病院の人手不足や、重篤患者のバスによる避難、医療設備がない避難先への移送などが挙げられる。そのため多くの患者の容態の悪化を招き、中には死亡者が発生するという被害の拡大につながった(「図4.2.3-2」参照)。
7病院の避難時期と交通手段の違いによる影響
図4.2.3-2 7病院の避難時期と交通手段の違いによる影響[58]
2)過酷な状況に陥った要因
本事故による病院の患者避難において、患者に過大な負担を強いた背景には、以下のような原子力災害に特有の事情があった。
- 看護師など医療スタッフが避難してしまい、医療関係者が不足した。
- 避難区域が広範囲に及び、周辺住民も避難手段を必要としたため、交通インフラがひっ迫し、活用できる避難手段が限定された。
- 避難区域が広範囲に及んだため患者が長距離、長時間の避難を強いられた。
- 放射線による被害を避けるために短期間で避難先を確保することが求められ、十分な医療設備のない避難所に一次避難してしまった病院があった。
a. 医療関係者の不足
事故直後、断続的な水素爆発により、放射線の影響を恐れた看護師など医療関係者が早期に病院を離脱した。このため避難区域に残された入院患者に対し、看護師などの病院職員の人数が不足し、ライフラインや医療物資がない中で、十分な治療や看護ができなかった。
例えば、西病院では、12日午後、水素爆発を機にパニックが生じ、家族を心配した看護師ら17人が職場を離脱したいと院長に伝えた。一時は病院にいる看護師がゼロになったが、町の薬剤師や、家族の状況を確認した後に病院に戻ってきた看護師などによって、その後の避難が行われた。
今村病院でも、重篤患者67人と病院職員8人を残して、軽症患者にほとんどの病院職員が付き添い、川内村に避難した。
双葉病院では、12日から15日にかけて第1陣から第3陣に分かれ避難した。歩行可能な軽症の入院患者を移送する第1陣の避難(12日)の際に、院長1人を残して院内にいた看護師や医師ら職員全員が同行した。病院には129人の重篤患者が残された[59]が、双葉病院系列で隣接の介護老人保健施設の職員、病院に戻ってきた医師らにより、避難完了までの3日間、多い時でもわずか6人の医療関係者で治療と看護を行った。生活物資も医療物資も不足しており、照明器具はロウソクのみであった。医師らは治療を最大限施したものの、15日までに4人が院内で相次いで死亡した。
西病院、今村病院及び双葉病院へのヒアリングによると、「残ってほしい気持ちはあったが、放射線の恐れもあり、職員それぞれにも家族がいるので、残ってくれとは強く言えなかった」「医療スタッフが減っても、すぐ支援が来ると思っていたので、少人数でも持ちこたえられると思った[60]」と話している。
b. 限られた避難手段と救助
本事故においては、多数の住民に対して避難指示が発令されたため、交通インフラがひっ迫し、医療機関が活用できる避難手段は極めて限定されることとなった。
特に、各病院が直面した最大の問題が、重篤患者の移送だった。例えば、西病院は12日、県警から20人乗りのバスの提供を打診されたが、身体麻痺があったり、点滴をしていたりするなどの重篤患者を移送するには、5~6人しか乗せることができないうえ、身体への負担が大きいことを理由に、院長がバスでの移送は困難と判断した[61]。
重篤患者の移送においては救急車や自衛隊のヘリなど、医療機器が搭載できることや身体への負担の少ないことを満たす移動手段が必要であり、多数の重篤患者を移送することは困難であった。
c. 長距離・長時間の避難
本事故では、患者の移動は長距離、長時間になった。
例えば、双葉病院においては、約230km以上の長距離かつ10時間という長時間の移動で、患者が体力を失い、死亡者が出た。14日10時半、隣接する介護老人保健施設に残っていた98人と、点滴をはずしても命に別状がないと判断された重篤患者34人の合計132人が、自衛隊手配の大型バス等で病院を出発し、スクリーニング検査を受けるためにいったん南相馬市の保健所に向かいながら、併行して避難先となる病院を県災対本部が探したものの見つけられることができないまま[62]、20時にいわき市内の高校に到着した。避難途中の車内で3人が、いわき市内の高校に到着後、翌日の早朝までに11人が死亡した(「図4.2.3-3」参照)。
また、小高赤坂病院でも同様の事態が生じた[63]。同病院は、14日午後に重篤患者をいわき市内の学校の体育館に観光バスによって避難させたが、出発から到着まで9時間半、200km以上を移動することとなった。
d. 一次避難先の確保
避難区域内の病院は、放射性物質による被ばく被害を極小化させるために、移送先の医療機関を決める余裕もなく、避難しなくてはならなかった。中でも小高赤坂病院及び双葉病院は、重篤患者を医療設備のない体育館などへ一次避難させなくてはならなかった。しかも、避難開始時は行き先すら知らされていなかった。
さらに、ほとんどの病院では、一次避難先からの再移送先となる医療機関を病院職員が独自に探さなくてはならなかった。
今村病院[64]では15日、医療設備のない体育館への一次避難が終了した後、医療環境の確保のため県災対本部に電話したところ、「自力で探してほしい」と指示された。その後、同病院医師の知り合いに電話を掛けたが、断られるか、先方の人員不足から看護師とヘルパーの同行なら場所を貸すという条件付きの承諾がほとんどであり、転院の終了は17日となった。避難を待つ間、体育館で待機していた重篤患者に、発熱、低酸素血症など、明らかな容態の悪化がみられた。
双葉病院では、体育館から先の転院先の手配の一部は県災対本部が担当したが、大部分は双葉病院の関係者自身による手配となった。しかし、一度に多数の患者を受け入れる病院はほとんどなく、県内外の病院に少人数ずつに分かれて転院することとなり、転院先は計90カ所に及んだ。
3)地方自治体と医療機関が果たした役割の検証
避難区域内の病院は避難の実施において過酷な環境に置かれたが、福島県及び市町村は病院の重篤患者の避難に関して積極的な支援を行わなかった。病院は、行政からの支援が期待できず、十分な情報もない中、独力で全患者の避難手配を行わなければならず、結果として適切な避難先及び避難手段を確保できなかった病院の患者は過大な負担を強いられた。
a. 福島県災害対策本部の果たした役割
上述のように、県災対本部は、病院に対して一次避難として医療設備のない避難所への避難を指示したものの、その後の避難先の医療機関の確保には十分な支援を行わず、多くの病院が自ら避難先を確保することに追われた。医療設備のない避難所では重篤患者は十分な医療を受けることができず、容態が悪化した者もいた。
また、事故直後の対応についても、県災対本部救援班は積極的に関与しなかった。「気づいたら自衛隊が双葉厚生病院の避難に動いていた」「13日には内閣府から『警戒区域内の病院の避難を支援しろ、急げ』という指示があったので、県災対本部内に待機していた自衛隊にそのまま伝えた[65]」など、県は主体的に病院の患者避難に関わる姿勢ではなかったことが窺える[66]。
b. 市町村の果たした役割
各病院の所在する市町村も、積極的に病院の避難に関わることはなかった。これら市町村のほとんどは、病院の状況を知っていたにもかかわらず、病院の退避よりも先に役場機能を移転させた。
県地域防災計画によると[67]、市町村の病院の患者避難については、「関係市町村は、災害時要援護者に向けた情報の提供、避難誘導、避難所での生活に関して、高齢者、乳幼児、妊産婦、傷病者、障がい者(児)及び外国人等のいわゆる『災害時要援護者』に十分配慮するものとする。特に、災害時要援護者の避難所での健康状態の把握等に努めるものとする」という記載がある。
しかし、実際にはほとんどの市町村は住民の避難への対応に追われ、病院の入院患者の避難に対してはほとんど対応できなかった。大熊町関係者[68]は病院の入院患者の避難よりも早く、12日中に90%[69]以上の町民の避難をさせ、町役場機能を移転したことについて「バスも向かわせたが、災害対策本部から自衛隊を頼んだので、自衛隊がいけばどうにかなるだろうと思った」と話しているが、実際に自衛隊が病院に向かったのは14日以降だった。また、双葉町関係者[70]は、「病院の避難は病院が管理すべきではないかと思う」との認識を示している。
西病院がある浪江町は、職員を病院に派遣し、避難を呼びかけたものの、重篤患者に対する適切な避難手段の手配は行わなかった。今村病院がある富岡町[71]は「バスを手配しようとしたが、浜通りのバスはどこも出払っており1台も手配できなかった。12日午後4時に町役場は撤退したが、残された病院等は町ではなく『別の対応』がされると聞いた。結果的にそれが自衛隊であり県警だった」と話しており、町としても避難手段の手配が難しかったという。
関係市町村としては、病院の避難は自衛隊又は病院自体に任せ切りにしていたのが実態である。
c. 原発周辺医療機関の原子力災害に対する備え
7病院中6病院は、県地域防災計画で原子力災害時に病院が独力で患者の避難を行わねばならないと定められていることを知らなかった[72]。唯一、原発事故時の避難マニュアルを用意していた今村病院においても、全患者の避難や複合災害を想定したものとはなっておらず、同病院の関係者は「想定外で全く役に立たなかった」と述べている。
その他、マニュアルを準備していなかった病院では、「そもそも原発から20km圏の病院が全患者避難するなんて想定外。行政の支援が必要だった」「ライフラインも通信手段もない中、病院で避難しろと言われても手も足も出なかった」「10人程度の患者なら話は別だが、全患者の避難となると、独自で避難手段や転院先を確保するなんて不可能」などの声が上がっている。県病院協会関係者[73]は、「地震の避難訓練や原発事故時の訓練でも全患者の避難は想定していないし、ライフラインが生きていることが前提で行われている」と話している。
4)大規模原子力災害に備えた医療機関の避難計画の問題点
これまで述べたように、原子力災害による患者避難において、患者への負担の軽減のためには、早期の避難先と避難手段の確保が決定的要因となる。しかしながら、本事故における避難先・避難手段の確保は、各病院の個別の努力に依存しており、制度として担保されたものではなかった。今回避難先と避難手段が確保できた病院においても、再度原子力災害が発生した時に避難先・避難手段を確保できる保証はなく、原子力災害に備えた仕組みの整備が求められる。
a. 避難先・避難手段の確保における制度的担保の欠如
今回いくつかの病院で避難先と避難手段が確保できた要因は、オフサイトセンターに近く情報が取得しやすかった、自衛隊に緊急の災害派遣を要請することができた、避難先の病院との交流があったなど、病院固有の事情によるところが大きく、制度的に担保されたものではなかった。
① 県立大野病院の避難先・避難手段確保の方法
県立大野病院は、オフサイトセンターに近く、加えて、初期被ばく医療機関に指定されていることから、原発事故の防災訓練などで日ごろから交流があった。通信が途絶えていたものの、病院職員が病院とオフサイトセンターを行き来し、避難指示に関する情報の入手や、バスの確保などを速やかに行うことができた。そのため患者の病院からの退避は、大熊町民の避難よりも早い12日の午前中に完了した。受け入れ先はバスで移動しながら探し、川内村の保健福祉医療複合施設に決まった。
② 双葉厚生病院の避難先・避難手段確保の方法
双葉厚生病院の場合、震災後に県庁を訪れた福島県立医科大学附属病院(以下「県立医大病院」という)の医師が、院長の旧友だったことが幸いした。同医師は災害派遣医療チーム(DMAT)の隊員であり、発災後県災対本部に駆けつけた[74]。
同医師は、原発が危ない状況であることを院長に電話連絡するとともに、自衛隊に「県知事の命令で病院患者の救済に向かってほしい」[75]と伝え、自衛隊ヘリを向かわせた。その結果、同病院からの退避は13日午前中には終了した[76]。
③ 南相馬市立小高病院の避難先・避難手段確保の方法
南相馬市立小高病院は、3月12日に、以前より交流があった同市立総合病院(30km圏内)による受け入れが決まり、救急車と職員が手配したバスによって、翌13日には避難をすることができた。
④ 避難が近隣住民よりも遅れた残り4病院
避難が遅れた今村病院、西病院、小高赤坂病院及び双葉病院では、大部分の通信手段が途絶えたため、病院職員が、町役場、警察、自衛隊などに直接、避難支援を求めに出向かなくてはならなかった。
入院患者のほとんどが重篤だった西病院では、浪江町職員や県警から、バスによる移送の提案を受けたが、患者の命に危険が及ぶために見送られ、自衛隊ヘリを待った。そのため避難は遅れ、14日夜となった。今村病院は、警察や県に支援を求め、13日夜から14日未明にかけて避難した。
小高赤坂病院及び双葉病院では、病院職員が市町内を走り回り、消防や県警などに避難支援を求めたが、これを受けることができなかった。結局、小高赤坂病院は14日夜、双葉病院は15日午前になって退避を開始した。
b. 県地域防災計画における大規模原子力災害の想定不足
県地域防災計画では、病院の患者避難は基本的に病院独力で行うとしている。県地域防災計画によると、「学校、病院、工場及びその他防災上重要な施設の管理者は、それぞれ作成する消防計画の中に以下の事項に留意して避難に関する計画を作成し、避難対策の万全を図るものとする」とされており、病院の避難計画については以下の通り記載されている[77]。
「病院においては、患者を他の医療機関または安全な場所へ集団的に避難させる場合を想定し、被災時における病院施設内の保健、衛生の確保、入院患者の移送先施設の確保、転送を要する患者の臨時収容場所、搬送のための連絡方法と手段、病状の程度に応じた誘導方法、搬送用車両の確保及び病院周辺の安全な避難場所及び避難所についての通院患者に対する周知方法等についてあらかじめ定めておくものとする」
しかしながら、この県地域防災計画は、20km圏という広域の避難区域が設定される規模の原発事故を想定して作られたものではない。(なお、県地域防災計画が広域の避難を想定していないことについては、「4.3」参照)県災対本部救援班は「病院全体を動かすことは防災計画では想定していなかった」と県地域防災計画の不備を認めている。
本事故によって、大規模原子力災害においては、病院が独自に避難先医療機関と重篤患者の避難に適当な避難手段を確保するという防災計画は機能しなかったことが明らかになった。
今後、災害時に自力で避難できない入院患者らが取り残され、死亡者が多数出る状況を防ぐために、今回の教訓を活かした対策が必須である。災害時の入院患者らの避難支援に備え、福島県をはじめとする原発立地道県及び市町村、並びに原発周辺の医療機関は、原子力災害に対応するマニュアルの見直しや訓練、通信手段の整備、事故時の連携などを検討し、整備しておく必要がある。
[1] 東電「福島第一原子力発電所の事故に伴う大気への放出量推定について(平成24年5月現在における評価)」(平成24〈2012〉年5月24日)
[2] 総放出量の推計に関しては、【参考資料4.1-1】参照のこと。
[3] チェルノブイリ原発事故との比較のため、ここではセシウム137のみ扱う。
[4] 環境省「除染等の措置等に伴って生じる土壌等の量の推定について」(平成23〈2011〉年)
[5] IAEA,“Environmental consequences of the Chernobyl Accident and their Remediation: Twenty Years of Experience” Radiological Assessment Report Series (2006)
[6] European Comission Joint Research Centre Environment Institute,“Atlas of caesium depositon on Europe after the Chernobyl accident”(2001)
[7] 内閣府原子力被災者生活支援チーム「参考資料」新大綱策定会議(第6回)資料第5-2号(平成23〈2011〉年9月)2ページ
[8] IAEA,“Chernobyl\’s Legacy: Health, Environmental and Socio-economics Impacts and Recommendations to the Governments of Belarus, the Russian Federation and Ukraine”(2005)
[9] 内閣府原子力被災者生活支援チーム「参考資料」新大綱策定会議(第6回)資料第5-2号(平成23〈2011〉年9月)2ページ
[10] 外部被ばくとは、放射性物質が身体の外にあることを前提に、これから発せられる放射線を浴びること。他方、身体汚染とは、放射性物質が衣服や身体に付着すること。
[11] 福島県資料
[12] WHO(世界保健機関)は外部被ばく線量のみならず内部被ばく線量の推計を行っている。
[13] 福島県「県民健康管理調査『基本調査』の実施状況について」第7回「県民健康管理調査」検討委員会資料1(平成24〈2012〉年6月12日)
[14] 「4.4.1」参照のこと。
[15] 東電「福島第一原子力発電所作業者の被ばく線量の評価状況について」添付資料(平成24〈2012〉年5月31日)
[16] 「3.1.1」及び「3.3.1」を参照のこと。
[17] 当委員会による住民アンケートの概要は以下のとおり。
調査目的:避難指示・避難、原発の危険性に関する説明等の実態の把握
調査方法、実施期間:郵送アンケート調査、平成24(2012)年3月15日~4月11日
調査対象:避難区域が指定された以下の12市町村から避難を行った住民(約5万5000世帯)のうち、市町村別に無作為抽出された約2万1000世帯
対象市町村:双葉町、大熊町、富岡町、楢葉町、浪江町、広野町、田村市、南相馬市、川内村、葛尾村、川俣町、飯舘村
回収数:1万633通(回収率:約50%)
[18] 母数は、Q4「福島第一原子力発電所事故によって避難を行いましたか」に「はい」と回答した回答者のうち、Q2「福島第一原子力発電所で事故があったと知ったのはいつですか」に対して日付・時刻共に記入した回答者数。母数は以下のとおり;双葉町:861、大熊町:993、富岡町:1164、楢葉町:866、浪江町:1297、広野町:608、田村市:252、南相馬市:1159、川内村:521、葛尾村:244、川俣町:142、飯舘村:247。
[19] 母数は、Q3「福島第一原子力発電所事故の情報源は何でしたか」への回答数とし、1人の回答者が複数の選択肢を回答した場合はそれぞれカウントしている。母数は以下のとおり;双葉町:1119、大熊町:1342、富岡町:1509、楢葉町:1140、浪江町:1714、広野町、828、田村市:331、南相馬市:1839、川内村:793、葛尾村:365、川俣町:265、飯舘村:441。
[20] 母数は、Q4「福島第一原子力発電所事故によって避難を行いましたか」に「はい」と回答した回答者のうち、Q7「自分の住んでいる地域に避難指示がでていることを知ったのはいつですか」に対して日付・時刻共に記入した回答者数。母数は以下のとおり;双葉町:832、大熊町:969、富岡町:1128、楢葉町:805、浪江町:1186、広野町:465、田村市:222、南相馬市:654、川内村:347、葛尾村:187、川俣町:41、飯舘村:72(*川俣町、飯舘村はサンプル数が少ないため、数値の信頼性は低い)。
[21] 母数は、Q8「最初に避難指示を知った情報源は何でしたか」への回答数とし、1人の回答者が複数の選択肢を回答した場合はそれぞれカウントしている。母数は以下のとおり;双葉町:1053、大熊町:1264、富岡町:1422、楢葉町:1030、浪江町:1519、広野町:672、田村市:292、南相馬市:1266、川内村:577、葛尾村:250、川俣町:127、飯舘村:242。
[22] 母数は、Q4「福島第一原子力発電所事故によって避難を行いましたか」に「はい」と回答した回答者のうち、Q11「実際に避難を開始したのはいつですか」に対して日付・時刻共に記入した回答者としている。母数は以下のとおり;双葉町:894、大熊町:1068、富岡町:1202、楢葉町:917、浪江町:1368、広野町:660、田村市:270、南相馬市:1380、川内村:612、葛尾村:294、川俣町:149、飯舘村:256。
[23] サンプル数はQ13「今までに何回避難されましたか」に回答した回答者数。サンプル数は以下のとおり。双葉町:982、大熊町:1199、富岡町:1353、楢葉町:1022、浪江町:1500、広野町:734、田村市:286、南相馬市:1510、川内村:675、葛尾村:317、川俣町:203、飯舘村:349。
[24] 6回以上避難した人の比率が最も多かったのは浪江町だが、同町住民の回答では、それよりも「線量の高い地域に避難した。SPEEDI情報は即時開示すべきだった」といった意見の方が強く表れている。
[25] 班目春樹安全委員会委員長ヒアリング
[26] 防災指針において「原子力防災対策を重点的に充実すべき地域の範囲(EPZ)の目安」として示される、原子力発電所から半径8から10km圏内の地域。
[27] 3月12日の時点で全町避難をした楢葉町、同日住民への自主避難要請を出した広野町、3月14日までに全村で福島市内への避難を決定した葛尾村、3月15日までに全町で二本松市内への避難を決定した浪江町、及び3月16日までに郡山への避難を決定した川内村の5町村の多くの住民については、屋内退避は長期化しなかったと考えられる。
[28] 屋内退避に関しては南相馬市から多く回答があったためこれを選択した。
[29] 安全委員会決定「原子力施設等の防災対策について」(昭和55〈1980〉年6月30日)
[30] 防災指針の引用する国際放射線防護委員会の考え方によれば2日程度の屋内退避において5~50mSvの実効線量が回避できること、国際原子力機関の考え方によれば屋内退避の最長予測時間2日に関して10mSvの実効線量が回避できることが最適化されている;防災指針 付属資料7;社団法人日本アイソトープ協会『国際放射線防護委員会の2007年勧告』(Publication 103)(丸善、平成21〈2009〉年)
[31] 防災指針で屋内退避指示を出す指標として定められている目安の値は、外部被ばく実効線量の予測線量(何らの防護対策も講じない場合に生じると予測される線量)が10mSvから50mSvの幅とされている。
[32] 保安院資料
[33] サンプル数は、Q6「避難は政府・自治体の避難指示によるものですか、自主的なものですか」に回答した回答者数。サンプル数は以下のとおり。双葉町:909、大熊町:1129、富岡町:1288、楢葉町:935、浪江町:1317、広野町:594、田村市:247、南相馬市:1090、川内村:484、葛尾村:196、川俣町:106、飯舘村:192
[34] 枝野官房長官記者会見(平成23〈2011〉年3月25日)
[35] 広野町では、3月14日に避難場所を小野町に定める前の3月12日において町外への自主避難を促しており、また、3月13日に全町民避難指示を決定しており、そのために自主避難者が多かったと考えられる。
[36] 枝野官房長官記者会見(平成23〈2011〉年3月25日)
[37] 保安院資料
[38] サンプル数はQ14「後に警戒区域・計画的避難区域に指定される場所に避難してしまったことがありますか」に回答した回答者数。サンプル数は以下のとおり。双葉町:935、大熊町:1131、富岡町:1293、楢葉町:984、浪江町:1439、広野町:703、田村市:277、南相馬市:1462、川内村:647、葛尾村:300、川俣町:182、飯舘村:309
[39] 詳細は「4.3.4」参照のこと。
[40] そのほか、南相馬市の住民からの声では、計画的避難区域の設定が遅かったということよりも、避難指示がなかったことや自主避難に関する批判・不満が多かった。また、葛尾村の住民からの避難指示に関する批判、不満は他の市町村に比べて少なく、葛尾村が政府に先駆けて独自に避難指示を出したことが評価されているものと考えられる。
[41] 社団法人日本アイソトープ協会『国際放射線防護委員会の2007年勧告』(Publication 103)(丸善、平成21〈2009〉年)
[42] 保安院資料
[43] 保安院資料
[44] 保安院資料
[45] 保安院資料
[46] 保安院資料
[47] 安全委員会「『計画的避難区域』と『緊急時避難準備区域』の設定について」(平成23〈2011〉年4月10日)
[48] 枝野官房長官記者会見(平成23〈2011〉年4月11日及び4月22日)
[49] 原子力災害対策本部「事故発生後1年間の積算線量が20mSvを超えると推定される地点の対応について」(平成23〈2011〉年6月16日)
[50] 伊達市住民ヒアリング
[51] 保安院資料
[52] 衆議院「チェルノブイリ原子力発電所事故等調査議員団報告書」(平成23〈2011〉年12月)
[53] 保安院資料
[54] 福島市「渡利・小倉寺地区の放射線量詳細調査結果等に係る説明会の結果について」(平成23〈2011〉年10月8日)
[55] 医療法第1条の5で定義される「病院」とは、「医師又は歯科医師が、公衆又は特定多数人のため医業又は歯科医業を行う場所であって、二十人以上の患者を入院させるための施設を有するもの」を指す。
[56] なお、各入院患者の死亡が避難を直接の原因とするか否かについては、ここでは述べていない。
[57] 病院関係者ヒアリング
[58] 少人数の患者の移送に用いた職員の車などは除いた。各病院に対するヒアリングによる当委員会まとめ
[59] 病院関係者ヒアリング
[60] 病院関係者は、「1陣が避難する際に大熊町役場の職員にも院長と患者が残っていることを伝えていたため、すぐ応援の車両が来ると思っていた」と話している。
[61] 病院関係者ヒアリング
[62] 県災対本部ヒアリング
[63] 病院関係者ヒアリング
[64] 病院関係者ヒアリング
[65] 県災対本部救援班ヒアリング
[66] 県災対本部救援班は、患者の受け入れ先の確保のために県内の病院に電話はしていたという。県災対本部救援班ヒアリング
[67] 福島県防災会議「福島県地域防災計画原子力災害対策編」(平成21〈2009〉年度修正)57ページ
[68] 市町村関係者ヒアリング
[69]「図4.2.2-3 避難した住民の割合」参照。
[70] 市町村関係者ヒアリング
[71] 市町村関係者ヒアリング
[72] 病院関係者ヒアリング
[73] 福島県病院協会関係者ヒアリング
[74] 県立医大病院医師ヒアリング
[75] 県立医大病院医師ヒアリングによると「県知事の命令はなかったが、原発が危険な状況で病院の患者を助ける方法はそれしかなかった」と話している。
[76] なお、医師は、その後も病院からの入院患者の避難について指揮をとり、今村病院、西病院へ向けても同様に自衛隊ヘリを要請したという。県立医大病院医師ヒアリング
[77] 福島県防災会議「福島県地域防災計画原子力災害対策編」(平成21〈2009〉年度修正)15ページ