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日大練馬光が丘病院「撤退」問題の現状(その1/2)
国枝さきの(日大光が丘病院の存続を求める区民の会副代表)

2011/12/29

 日大光が丘病院日本大学医学部付属練馬光が丘病院)の今年度末での撤退という問題については、MRICでも、すでに8月31日号(Vol.256)で報じられたこともあり、ご存知の方も多いと思います。近況を、MRICの読者の皆さんも共有していただきたく、筆をとりました。

 日大光が丘病院の「撤退」が唐突に伝えられた7月中旬、私たちは「日大光が丘病院の存続を求める区民の会」を結成し、事態の打開に向けて活動してまいりました。しかし、各新聞にも連日伝えられているとおり、事態は混沌としたままで、練馬区日大本部が再度テーブルに着き現状を打開するという状況は、実現できておりません。

 選定された後継運営主体(地域医療振興協会)は、現在、2012年4月以降の病院運営体制を築けておらず、公募要件を満たさないばかりか、極端な病院縮小が懸念される状況であり、日大光が丘病院との引継ぎにも入れない状況にあります。年度末まで、あと100日、徐々に明らかになるこうした事態は、患者とその家族、近隣住民や病院で働く方々にとってだけでなく、東京北部~近隣都下~埼玉南部といった医療圏にとっても憂慮すべき事態になっています。

 4月以降、医療内容はともかく、病床数だけであれば、長い時間をかけて元に戻るかもしれません。しかし、今般の厳しい医療状況、特に、救急体制をめぐる厳しい状況のなかで、その間に医療圏が壊れてしまった場合には、壊れた医療圏を元に戻すことは至難といわざるをえません。

日大光が丘病院の果たしてきた役割
 東京23区の西北、練馬区の地にあって、この20年間、地元住民や地元医療機関のみならず、広い地域から患者を救急搬送する救急隊員の厚い信頼を受けてきたのが、日大光が丘病院です。日大光が丘病院は、日本大学が経営破綻した練馬区医師会立光が丘総合病院を引き受け、大学病院としては決して恵まれた建物ではないところを、工夫を重ねて現在に至っています。規模は、17診療科病床数342床、2005年に順天堂大学医学部附属練馬病院ができるまでは、練馬区唯一かつ最大規模の大学病院でもありました。また、経営を引き受けるのと相前後して、日本大学は、練馬区医師会立光が丘総合病院の残した借財にも手をさしのべています(今回は立ち入りませんが、これが、いわゆる「50億円問題」です。経緯に関しては、片山医学部長が同窓会紙に書かれています)。

 医療圏というところでみると、2~2.5次の救急病院として、3次医療機関である日大板橋本院(1037床)と手をたずさえて、長年、東京西北部~近隣都下~埼玉南部の地域医療を支えてきただけでなく、日大板橋本院のゲートキーパーとして、日大板橋本院が3次医療機関として重症患者の治療に専念できるよう、上手に役割分担してきた病院でもあります。ちなみに、電子データは日大板橋本院と共有しています。

 特に、小児科に関しては、手厚い体制であることからも、日大光が丘病院が地域で果たしている役割は大きく、都立清瀬小児病院が2010年春にすでに閉鎖、さらに志木市立市民病院も来春縮小が避けられないことが報じられるなか、小児入院患者を一手に引き受けてきた日大光が丘病院の撤退に、地域住民・医療機関の不安が高まっています。また、近隣には、日大光が丘病院ならではの医療内容があってはじめて生活が成り立っている患者さんも大勢集まってきておられます。

 一つだけエピソードを書かせてください。病院近くの子どもたちは、救急車のサイレンの音が何種類もあることを、よく知っています。それだけ、いろいろな地域から頼られている病院だということです。「撤退」が唐突に伝えられた7月中旬以来半年たった現在、事態は厳しさと不透明さを増すばかりです。

区民の会の活動
 事態が伝えられた7月以来、私たちは広く周辺の住民、患者、医療者のみなさんと手をたずさえて1万5千を超える署名を集め(医師会分とあわせて3万筆以上)、11月には、日大田中英壽理事長、12月に入ってからは志村豊志郎練馬区長ともお会いして、直に日大存続のための協議を求めてきました。残念ながら、区長は日大との協議を拒否、これを受けて私たちは現在、区に対して監査請求を行っています。

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