戦後70年を機に、毎日新聞社とTBSテレビは共同で、戦争の悲惨さと平和の尊さを次の世代に伝えていく大型プロジェクト「千の証言」を展開しました。
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千の証言・投稿
<国共内戦>「盾」にされた市民の悲劇=奈良市・濱朝子さん(68)
2015/11/4 18:02 827文字私は中国・長春市(吉林省)に生まれ、終戦後の内乱の様子を聞いて育った。日本では1945(昭和20)年を終戦の年とするが、中国では悲惨な時代が待ち受けていた。同年8月9日、米ソ間のヤルタ秘密協定により、ソ連軍が中国東北部へ侵攻したのである。 知られていないが、アメリカは大量の新兵器を投入して蒋介石率
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<国共内戦>将校服と命をくれた参謀=神奈川県鎌倉市・岩田正勝さん(90)
2015/11/4 18:01 384文字東京大空襲の惨状を見た後の昭和20(1945)年5月、中国へ出征し、山西省で終戦を迎えました。終戦になっても毛沢東軍(中国共産党軍)と果てしない戦いが続きました。当時、蒋介石(中国国民党)は日本軍の残留を希望していました。私は、山西省残留要員として、中国国民党が指揮する軍隊に入れられ、国民党との対
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<戦闘機撃墜>「これで勝てるのか」と心配になった=神奈川県厚木市・太田富治夫さん(85)
2015/11/4 18:00 448文字昭和19(1944)年11月、その日は快晴でした。私は旧制中学3年生で、学徒動員により、東京・吉祥寺にある無線会社の工場で働いていました。 空襲警報で、近くの林のあるところに避難していて見たのですが、南の方から高空をB29が10機編隊でやって来て、私たちの頭上を通って行きました。味方の高射砲の炸裂
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<中国戦線>父が竹細工で継いでくれた命=神奈川県秦野市・女性(66)
2015/11/4 17:59 331文字平成19(2007)年、父のお骨あげの時、係の人から「小さな破片がある」と言われた。中国での終戦間際の銃撃戦で負傷したが、応急処置だけだったので体の中に入った破片は取れずに残っていると父は生前に言っていた。こめかみと手の甲の皮膚の下に黒く見えていたものもあった。 終戦の時、ベトナム国境近くにいたこ
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<戦死>兄の遺骨を前に母が漏らした言葉=東京都・矢上登紀子さん(77)
2015/10/15 18:00 680文字私が国民学校2年だった1945(昭和20)年の暮れごろ、一人の復員兵が「幸助さんの位牌(いはい)参りに参上いたしました」と言って、熊本市春竹町(現・同市中央区春竹町)の実家に来ました。矢上幸助は9人きょうだいの私の長兄で、1941(昭和16)年に徴兵されて中国の戦地に行きました。 その頃は、復員兵
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<広島原爆>壮絶な体験を絵に残した母=仙台市泉区・高倉篤麿(あつまろ)さん(60)
2015/10/15 17:59 827文字私の父母は、広島で同時に被爆しました。母勝子は爆心地から3キロ、父文麿は1・5キロの場所で。父母ははるか遠い宮城県登米町(現在の登米市)で昭和20(1945)年7月に結婚式を挙げ、入籍したばかりでした。軍人だった父の任地・広島を、母が生まれて初めて訪れたのが8月1日でした。母は当時23歳。その時の
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<学童疎開>トイレに隠れて食べた差し入れ=横浜市・浅沼トメ子さん(80)
2015/10/15 17:58 477文字国民学校4年の時に、学童疎開で小田原のお寺へ行きました。とてもひもじかったです。道にミカンの皮が落ちていると、拾って食べました。近所のおばさんが少しの差し入れを持ってきてくれると、トイレの中や布団の中で隠れて食べたことを今でも忘れません。みんなで分け合えるほどの量がなかったからです。母は一度も面会
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<シベリア抑留>今も食事のたびに思い出す空腹の日々=東京都豊島区・平塚久夫さん(88)
2015/10/15 17:56 660文字昭和22(1947)年10月末に2年間の(シベリアでの)抑留生活を終えて東舞鶴(京都府)に上陸、懐かしの祖国へ帰りました。国を離れて3年ぶりです。私物は全部、抑留中の検査で没収され、たった一つだけ持ち帰ったのがアルミニウム製のスプーンです。現在も食事のたびに大切に使用しています。 思えば昭和19(
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<東京大空襲>叔父の機転で助かった亡母=東京都葛飾区・野崎益子さん(61)
2015/10/15 17:55 278文字亡き母は大正6(1917)年生まれだった。実家は浅草の東本願寺の参道沿いで、祖父は早くから歯科医を開業していた。母は10人きょうだいで、昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲の時も多くが同居していた。 空襲警報発令に、自宅近くの防空壕(ごう)へ逃げた母を、母の弟が連れ出しに来て、別の防空壕に
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<空襲>祖母の一瞬の判断で命拾いした=東京都三鷹市・岩崎恵美子さん(75)
2015/10/15 17:54 326文字私が5歳の時の昭和20(1945)年6月、岡山大空襲があった。藁(わら)ぐろ(脱穀後の稲の束を積み上げたもの)の陰に家族で隠れた。祖母が「ここは危ない」と別の藁ぐろに移った直後、前に居た藁ぐろに焼夷(しょうい)弾が落ち燃え上がった。祖母の一瞬の判断で命拾いをした。 家は無事であったが、岡山市内は食
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<戦災孤児>誇りをくれた次兄の通信簿=東京都調布市・名取末子(81)
2015/10/15 17:53 314文字昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲で両親と兄姉の計8人を亡くし、当時、学童疎開で仙台市にいた末っ子の私一人が残されました。自宅は跡形もなく、焼けただれた金庫だけが残っていました。中から見つかったのが次兄の通信簿です。 表紙は焼けただれ汚れていますが、中身ははっきりしています。国民学校の6
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<空襲>母の背中の記憶と消えない痛み=北九州市八幡西区・中島初美さん(78)
2015/9/3 16:25 803文字昭和20(1945)年8月8日の八幡大空襲の際、国民学校3年生だった私は母と畑にいました。突然、焼夷(しょうい)弾攻撃に襲われ、パニックになりながら防空壕(ごう)に駆け込みました。 防空壕に入った直後、焼夷弾が直撃。壕でうずくまっていた私の右手小指・右膝関節を焼夷弾が貫通、意識不明になりました。
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<フィリピン戦線>「死ぬな」と激励してくれた軍曹の死=京都市西京区・尾崎健一さん(87)
2015/9/3 16:24 702文字私は昭和19(1944)年12月、16歳で少年通信兵としてフィリピンのルソン島に派遣された。通信隊に勤務したが、既に敗戦色が濃く、米軍の一方的な猛攻を受けて敗退し、勤務地のマニラから東北の山岳地帯に転進したものの、たちまち通信機は破壊されて部隊は壊滅し、軍の組織も崩壊した。 辛うじて生き残った兵は
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<引き揚げ>「平和」うらやむ中国青年の言葉=奈良県天理市・志村義一さん(86)
2015/9/3 16:23 420文字昭和21(1946)年7月末、中国の葫蘆(ころ)島より、アメリカの上陸用船で引き揚げする港にて乗船の時、タラップを上るところで一時停止しました。数分間ではなかったかと思います。タラップの元に(蒋介石の)国民党軍の一人(若い兵隊さんでした)が立ち番をされていて、立ち止まった時に、中国語で少し会話をし
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<特攻隊>心に焼き付いた見送りの風景=大阪市住吉区・藤原二朗さん(92)
2015/9/3 16:21 301文字栃木県の黒磯(現那須塩原市)にも特攻基地があり、終戦の前々日、昭和20(1945)年8月13日夕、第201神鷲飛行隊双発襲撃機2機(小川満中尉、藤田重喜伍長、横山善次少尉)が、犬吠埼東方洋上の米機動部隊に向け出撃した。 当時、私は協力気象隊で、出撃隊員に気象状況(特に寒冷前線が東北地方からすみやか
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<空襲>戦災孤児となり味わったみじめさと悲しみ=東京都小平市・女性(79)
2015/9/3 16:20 262文字昭和20(1945)年6月1日、大阪市港区一帯が空襲で焼け野原になり、両親、姉を一度に亡くしてしまった。たくさんのみじめな思い、悲しみを味わった70年。今は3人の子供に恵まれ幸せな日々を送っているが、思い返すと、怒りの持って行きようのないさびしさ、悲しさがある。 他人に話しても、たぶん理解はしても
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<空襲>涙も出なかった恐怖体験=大阪府枚方市・安井照代さん(89)
2015/9/3 16:19 391文字忘れもしない、大阪大空襲。1945(昭和20)年3月14日未明、私は当時19歳の学生で、大阪市西区の江戸堀町内の誘導班の一員でした。ラジオから間断なく放送される空襲警報に「いよいよだな」と覚悟していた途端、ついに照空(しょうくう)灯の交錯する中から数知れぬ焼夷(しょうい)弾が頭上に落下しはじめまし
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<機銃掃射>トラックの下に滑りこみ難をのがれた=京都市左京区・盛口瑞穂さん(82)
2015/9/3 16:18 410文字国民学校3年の時に太平洋戦争が始まり、不安の中で卒業。当時は東京の目黒に住んでおり、一駅先の女学校に入学したものの、教室にいるのは1年生だけで、2年生以上は勤労奉仕に参加し、学業どころではありませんでした。 1年生も警戒警報が出ると帰宅させられましたが、その途中で米軍の機銃掃射にあい、陸橋上に止ま
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<戦時下>配給の服で「着たきりスズメ」の生活=大阪府枚方市・宮川高江さん(81)
2015/9/3 16:17 301文字戦争末期、山村の我が村にも都会から大勢の人が疎開してきた。国民学校4年生の頃、2人用の机を3人で使用し、習字の時はせまくて大変。練習は新聞紙を使い、清書のみ半紙を使用した。 下校後は畑の雑草のアカザを取り集め、母がゆがいて供出。桑の木の茎の下の部分の皮をむき、干して束ねて供出、秋にはススキの穂を少
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<特攻>「帰投せよ」の入電で引き返した父=松江市・松下明さん(60)
2015/9/1 20:32 722文字今年は戦後70年の節目の年。私も今年、還暦を迎えた。平成25(2013)年3月17日に87歳で天国に飛び立っていった父。3回目のお盆を迎えた。 父は昭和20(1945)年8月13日、愛知の海軍航空隊から800キロの爆弾を抱え、艦上爆撃機「彗星(すいせい)」に乗り込み特攻に飛び立った。 ◇ 燃
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