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白浜村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。賀茂郡のうち。はじめ幕府領,文化8年幕府・旗本小笠原氏の相給,文政5年幕府領分が駿河【するが】国沼津藩領となる。検地は慶長3年。村高は,「元禄郷帳」585石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに586石余。助郷は東海道三島宿に出役。小名は板戸・原田・長田。寛政末年豆州村々様子大概書によれば田地40町余・畑地18町余,家数260余・人数1,300余,牛が多く,馬は少ない。船6艘,肥船10艘にてサンマを猟し,猪も多く,薪も江戸表へ出す。天草運上は村請で6両ずつ上納。本村の特産天草について運上金が現れるのは延宝年間頃であるが極めて少額であり,本格化するのは天明年間頃である。それ以前は一部が商品で大部分は肥料であった。文政5年幕府から当村の幕府領分および海面権を渡された水野氏は海草採取権を領主管理下におき,その見返りとして村に下付金を与えた。明治4年に村の海草採取権は認められることになる。明治4年の書上帳によれば戸数160,商人3(塩商)・職人15(家大工10・船大工5)。運上金は天草・蚫・海老漁,小物成は漁船6艘・鹿尾毛2俵・鉄砲1丁・威鉄砲2丁。海辺の村で山方は灰土・小石地・砂地であり,天水場でもあるので旱損に悩まされている。入会秣場は落合村高野山と尾畑・縄地村の椎ノ木沢にあり,百姓自分持山は13か所。砥山が1か所ある。田地植付は天水にて4月中旬~5月中旬に仕付け,肥料は天草・毛久・かじ免などを柿崎村境瀬浦の入会いより採取。農間余業は薪取り・磯草取り・木綿織など(江川文庫所収文書)。天保元年一色池の端に水野氏陣屋が設置され,同14年三保崎に砲台を築く。社寺は白浜神社・臨済宗長田寺・曹洞宗禅福寺・西光寺(現廃寺)など。安政元年水野氏陣屋の榎本賢次郎が板戸漢学教授所を設ける。明治6年には変舎が長田寺に開校。「順行記」にみる物産は石決明・鹿尾藻・心太草・若女・海老・沢田薪・小竹・トイマ天草(増訂豆州志稿)。明治元年韮山県,同4年足柄県を経て,同9年静岡県に所属。明治22年浜崎村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7350649