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[チェ・ソミョンの安重根を探して]②安応七の名前を隠した日本外交資料館で‘かくれんぼ 40年’

原文入力:2011-05-16午後11:03:35(5479字)

伊藤断罪の理由を書いた‘獄中所感’…殉国3週後に出てきた初の伝記‘不逞文書’10万枚めくり発掘
安応七 義挙~死刑の瞬間まで日帝が記録官・証言者となった抗日運動‘歴史のアイロニー’

キム・ギョンエ記者

←1909年10月22日ハルビンに到着した後、安重根(左側から)医師がウ・ドクスン、ユ・ドンハ同志とともにハルビン駅周辺を事前踏査し列車時刻などを確認した後、ある中国人写真館で撮った記念写真(上写真)。1974年ソウル、南山の安重根義士記念館前にたてられた洋服姿の安義士の旧銅像と2009年に新しく作った銅像(下右側)。唯一の洋服姿のこの写真は、チェ・ソミョン院長が義挙当時に満州地域で発行された新聞記事等を通じて‘写真館で借りて着て撮った’という事実を確認した。これに伴い、ハルビン義挙100周年を迎え2009年に安重根義士記念事業会で<親日人名辞典>に名前が上がった彫刻家キム・ギョンスンの作品だった旧銅像を撤去し、義挙当時の身なりで新しい銅像を製作した。しかし、安重根記念館のホームページはもちろん、独立記念館が出した<安重根文集>や多くの安義士自叙伝では この洋服姿の写真を依然として亡命以前に黄海道、鎮南浦で安義士が設立し運営した三興学校校長時期の姿または、そのような説があると紹介している。チェ院長は<安応七歴史>をはじめとする出処が明確な記録をきちんと確認せずに誤った事実をそのまま放置し無条件に崇めようとする学界の安重根研究風土を切ながった。

チェ・ソミョン国際韓国研究院長は1969年冬、東京の古書店を通じて末松教授から<安応七歴史>を渡され初めて読んだ瞬間の感動を尋ねると、鷺山 李殷相が出した<安重根義士自叙伝>の序文を広げ、ある部分を指した。「安義士が真実の自分の心情を漂白した文なので、自ずから高尚な文学書になったし、また韓末の風雲の中で活躍した自分の事実をありのままに書いた文になので、そのまま重要な史料になったわけだ。」鷺山が79年9月、安重根義士生誕100周年に合わせて本を出し、原典である‘安応七歴史’の意味を明らかにしてある、まさにその句節が自身の考えそのままだと語った。

チェ院長は‘安応七歴史’はすべての安重根研究の出発点でなければならないと強調した。「単純な自叙伝ではなく‘150日間の獄中闘争記’であり、安義士が伊藤博文を処断した意志は私怨や感情的な復讐ではなく、日帝の罪悪の真相を全世界に告発し自身の東洋平和思想を広く知らしめようと考えたものであることを確認させる原典」ということだ。

-‘安応七歴史’を一番最初に読んだ韓国人読者になり本格的に‘安重根研究家’として名声を馳せられたわけですが、安義士に対する探求はどんな契機ですることになられたのですか?

 "63年に安重根義士崇慕会を作る時から発起人として先頭に立った鷺山が2代理事長を引き受け、安重根義士記念館建設を推進する中で‘手伝って欲しい’という要請をしてきた。それで時間のある度に国会図書館と神保町の古書店街などに通い、安義士関連資料を探していた。また、安義士を知っている日本人たちをうわさをたよりに捜しもした。その中で安義士の義挙当時、朝鮮統監部の外事警察にいた相場清に会ったことは特別な意味があるだろう。安義士がハルビン駅義挙現場で逮捕され旅順刑務所で殉国する時までの写真は大部分が園木末喜 当時通訳官が保管していたものだが、それを相葉清の助けで発掘し、70年に安重根記念館が開館する前に安重根崇慕会に寄贈した。初めはそのようにして鷺山を助ける次元だったよ。そうするうちに‘安応七歴史’を読んでみて初めて安義士の偉大さを悟り真剣に研究し始めたわけだ。"

-相葉清と言えば警察通訳官出身で間島総領事館警察部長を務め生涯いわゆる‘不逞鮮人’、抗日独立活動家たちを監視した人物ではないのですか?

“相葉清は熊本県出身だが日帝はこの地域を対外進出拠点として熊本学園大学に朝鮮語学校を一番最初に作った。相葉をはじめとして安義士取り調べのために統監部が派遣した境警視、通訳官 園木末喜が皆この学校の第1回同窓生だったよ。この3人と安義士の写真にまつわる話は将来詳しく話すことにして、とにかく60年代当時、相葉は日韓親善協会会員であり日本外務省の顧問を務めていた。ある日偶然にある雑誌で彼が寄稿した韓国関連文を見て訪ねて行ったところ、安義士の挙事直後にあった‘安応七’という名前にまつわるエピソードを聞かせてくれたよ。‘1909年10月26日夜遅く、漢城(ソウル)の統監部に箋筒が到着した。 “ウン・チアンという朝鮮人が伊藤統監を殺した。彼に関する調査記録を送れ。”超非常がかかり深夜に幹部会議が招集されたが、‘不逞鮮人’(ブラックリスト)名簿に‘ウン・チアン’はなかった。‘ウン’家は国勢調査にもない姓氏であった。そうするうちに一人の課長がロシア検察が調査した名前であれば洋式に表記したのではないかと言い出し‘アン・ウンチ’と読んでみると似た発音の‘アン・ウンチル(安応七)’が出てきた。ようやく安重根の記録を探し翌日ハルビンへ通知できた。’まさにその名前のために日帝が安義士の身元を探すのに困ったということだった。”

-ところで‘ウンチル(応七)’が安義士の幼名ということは分かり難かったのではないですか? そのいきさつもそうで、今でも多くの人々が知らないでしょう。
“安義士が旅順刑務所で1909年12月13日から翌年3月15日まで93日にわたり書き綴った‘安応七歴史’は何よりもハルビン義挙以後、半世紀にわたり口伝と証言だけで伝えられてきた安義士に対する数多くの疑問を解いた。冒頭で明らかにした自分の名前‘応七’のいきさつからしてそうだった。‘1879年己卯年7月16日、大韓国、黄海道、海州府、首陽山の麓で一人の男の子が生まれ、姓は安、名は重根、字名を応七(性質が軽く性急な方なので名前を重根とし、腹部と胸部に七個の黒い点があったので応七とした)とした。’安義士は1905年乙巳保護条約(韓日交渉条約)強制締結で日帝に国権を奪われるとすぐに故郷の清渓洞を離れ抗日救国運動に本格的に飛び込むが、その後 義挙の時まで‘重根’の代わりに‘応七’を名前として使ったと言う。”

-その時から安重根研究会も作り本格的に安重根研究を始めたと理解しているが。

“69年には‘安応七歴史’発見以外にも個人的にいくつか意味ある変化があり、ちょうどその年の4月、亜細亜大学の教授職を辞め韓国研究院が開院した。韓国研究院には‘金玉均(キム・オクキュン)研究会’が先に作られていたし、獄中手記公開を契機に‘国際安重根研究会’も作った。主に現職大学教授と日本の報道機関の論説委員が参加して毎月発表会を開き始めた。研究会を作ったので勉強をしなければならないだろ? その時、私が一番最初に訪ねて行った先が日本外務省の外交資料観だったよ。獄中手記を見れば安義士がハルビンではなく関東都督府 旅順裁判所で裁判を受ける過程と旅順刑務所生活が詳しく出ているじゃない。当時、関東都督府は日帝が日清戦争で勝った後に設置した一種の占領地統治機関であったから、関連記録は全て外交資料館にあると判断したのだ。予想通り外交資料館は日帝の朝鮮侵略史、私たちにとっては抗日独立運動史を明らかにする記録の宝庫だった。毎日出勤するように通った。後日、日本近代外交史文書を日本人より多く読んだ‘怪物韓国人’といううわさが立ちもした。この頃には外交資料館長から、ひょっとしてこういう資料を見たことがあるかと私に聞きに来て。(笑)”

チェ院長は69年4月‘脱亜入欧論’で日帝の大陸侵略に端緒を提供し慶応義塾を設立した自由主義教育思想家の福沢諭吉の娘が提供した彼の私邸に東京韓国研究院を開院した。福沢は1884年‘甲申政変’に失敗し日本に亡命した金玉均が身を委ねた人物だ。チェ院長は57年5月27日、ソウル大教区長のノ・キナム主教の斡旋で米軍用機に乗り日本に亡命した以後、最初の5年間は主に国会図書館に通い‘韓国歴史’勉強し、特に‘金玉均’と天主教関連研究に没頭した。

-外交資料館が記録の宝庫とおっしゃったが、安義士と関連して捜し出した重要記録にはどんなものがあるのですか?

“もちろん‘安応七歴史’の原本はまだ出てこなかったよ。代わりに76年に‘安応七所感’の原本を捜し出したね。 1909年11月6日、安義士が園木通訳を通じて旅順刑務所長 栗原貞吉に書いた短い文だが、鉛筆で書いた親筆だったよ。義挙直後、現場で逮捕された安義士はハルビン管轄ロシア検事ミルレルから認定尋問を受けた後その日の夕方に日本総領事館に引き渡され、その二日後には旅順裁判所へ事件が送られ11月3日に旅順刑務所に収監されたではないか。旅順で検察官 溝渕孝雄と統監部が派遣した堺警視に代わる代わる本格的な取り調べを受けたのだろう。ところで‘なぜ伊藤を殺したか’と同じ内容を何度も尋ねるので最初から書いたのだ。伊藤を断罪した理由15種を明らかにした‘伊藤博文罪悪’と共に‘安応七所感’を書いたんだろう。事実、その時まで安義士は尋問にもまともに答えなかったと言う。他の同志たちを保護しなければならなかったんだよ。‘悲しく天下大勢を遠く心配する青年たちがどうして腕組だけして何の方策もなしに座して死だけを待つことが正しいはずがあろうか。したがって私は考えあぐねてハルビンで銃弾一発で万人の見る前で老いた盗賊 伊藤の罪悪を糾弾し意のある東洋青年たちの精神を呼び覚ましたのだ。’安義士の気概が感じられるじゃないか?”

-外交資料館で安義士記録を探すことは思ったよりも容易ではなかったと言いましたが。

“その理由はしばらく後で分かったよ。それは当初、外交資料館で史料を‘安重根’または‘安応七’という題名で分類しておかなかったためなんだ。もっと正確に言えば日帝時に朝鮮人の名前の題名で作成した文書や事件報告書自体がなかったんだよ。後日、探してみると‘不逞団関係雑件’という題名で分類してあったよ。何と10万枚ぐらいもあるのだ。李奉昌(イ・ポンチャン)義士の裕仁天皇爆弾投擲事件の記録は‘大正何年…不逞鮮人事件’(副題:桜田門事件)で括られている形だった。 安重根義挙事件ファイルの題名は‘倉知鉄吉 政務局長が旅順出張中に収集した資料’だった。‘安応七所感’もまさにその文書綴りの中に入っていた。倉知局長は昨年 私が初めて公開した<倉知回顧録-韓国併合の経緯>(1939年)の主人公だが、義挙当時 小村寿太郎外務大臣の密令を受けて旅順に一ヶ月以上 留まり、安義士の裁判と死刑までを総指揮した倉知外務省政務局長が本国に報告した文書綴りだ。従って韓国研究者がやみくもに外交資料館に行っても何も捜し出せなかった。”

チェ院長は94年から日本外務省の外交資料館に所蔵された史料5万本をいちいちめくって捜し出した史料をまとめて2004年<日本外務省 外交資料館所蔵 韓国関係史料目録1875~1945>(国史編纂委員会)を出した。

-‘安応七歴史’が自伝ならば、去る95年に先生が入手し公開した<近世歴史>は‘最初の安義士伝記発見’という評価を受けましたね。

“やはり文書の題名は‘不逞事件を通じてみた朝鮮人の側面観’であったが、朝鮮総督府警務総長 明石元二郎が1911年7月に作成したものを寺内正毅 朝鮮総督が本国の小村寿太郎 外務大臣に‘朝鮮統治参考用’として報告した極秘文書だった。この報告書に‘近世歴史’に対する言及と共に、当時 高等警察が翻訳した近世歴史の日本語本が添付されていたんだ。‘安義士が殉国しわずか3週間後の1910年4月15日、安義士の伝記が韓国内から出た。凶徒 安重根の行動を記述した写本が不逞分子らの間に愛読されている。不遜にも‘近世歴史’というタイトルをつけている。凶徒の意中を推し量らせる資料だ。’こういう内容が記されていただろう。安義士殉国以後、いわゆる特別高等警察が逮捕した不逞鮮人のほとんど大部分がこの本を大事に保管していて統監部はこれを発刊した人間を捕まえるために血眼になったが、ついに明らかにすることができなかったという話が伝説のように伝えられたので、そういう伝記があるという事実はすでに知られていた。ただし、その内容と実体が逆説的にも日帝の記録のおかげで確認されたということだろう。それ以前までは1914年 白岩 朴殷植(ペクアム パク・ウンシク)先生が上海で出した<安重根>が最初の伝記として知られていた。白岩は父親 安泰勳(アン・テフン)進士と格別の仲で幼時から安義士を見守ってきたと言う。それで朴殷植先生の<安重根>は最初ではなくても、今までに出てきた数多くの伝記の中で唯一、安義士を直接に見た人物が書いたという点で価値が高い。”

キム・ギョンエ記者 ccandori@hani.co.kr

原文: https://www.hani.co.kr/arti/culture/religion/478269.html 訳J.S