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男色専門の男娼「陰間」のお仕事 第2回~陰間遊びの手順~

江戸の性職業 #019

■陰間は「子供」、陰間茶屋は「子供屋」と呼ばれた

図1『衆道物語』(寛文元年)、国会図書館蔵

 陰間の方が遊女より揚代が高かったのは、その盛り(実働期間といってもよい)が短かったからである。

 

 たとえば、吉原の遊女の年季は「最長十年、二十七歳まで」という原則があった。だが、年季が明けて二十八歳で吉原を出た女が、今度は岡場所や宿場で遊女になる例は珍しくなかった。客が付く限り、遊女に年齢制限はなかった。

 

 ところが、陰間は美少年が好まれたため、盛りは短かった。その魅力はせいぜい十六、七歳までと言われたほどである。

 

 二十歳過ぎると、みな転業した。というより、もう客が付かず、陰間としてやっていけなかったのである。

 

 陰間のその後については、次回以降で後述しよう。

 

 さて、陰間遊びの具体的な手順を、春本『天野浮橋』(天保元年)で見ていこう。次に、わかりやすく現代語訳した。

 

 なお、当時、僧侶は女色は禁じられていたが、男色は自由だった。

 

 また、芳町では陰間を「子供」、陰間茶屋を「子供屋」と呼んだ。

 

 禅宗の寺の住職学心が、地方から修業に来た明心という若い修行僧をともない、芳町にやってきた。

 

 料理屋の暖簾をくぐる。

 

 若い者が学心を見て言った。

 

「心さんがおいでじゃ」

 

 女将が住職を出迎える。

 

「おや、このあいだから、哥菊さんも待ちかねて、たびたびのお噂。まずまず、二階へ。このお方は、初めておいでで?」

 

「これは田舎者。江戸見物のついでに、この辺の楽しみも見せようと、連れてまいった」

 

「そりゃ、よろしゅうございます。さいわい、下り子に千代菊さんというよい子供がいます。あの子を呼んでおあげなすったらよかろう」

 

「ちょっと一ト切、遊んでいこう。早く口をかけたい」

 

 それを受け、女将が女中に命じる。

 

「これ、お常や、早く子供屋へ口をかけ、哥菊さんに千代菊さん、大急ぎというがよい」

 

 女中のお常がさっそく陰間茶屋に向かった。

 

 しばらくして、陰間茶屋の若い者に連れられて、哥菊と千代菊が料理屋にやってきた。ふたりは、振袖に駒下駄のいでたちだった。

 

すぐに、二階の座敷にあがる。

 

 座敷で挨拶を終えると、酒と料理が出て、しばらく話をする。

 

 そのあいだに、女中が奥座敷に布団を敷き、くくり枕を並べて、寝床のまわりを屏風で囲った。

 

「もしえ、お床がまわりました」

 

 これを聞いて、学心と哥菊、明心と千代菊はそれぞれ、用意された寝床に行く。

 

 寝床で、哥菊は帯を解き、振袖を脱いで屏風に掛けた。下着の長襦袢姿で、懐紙と通和散(つうわさん)を持ち、階段をおりて、一階にある便所に向かう。

 

 哥菊が一階に行ったあと、学心は帯を解き、ひとりで寝床に横たわった。

 

 いっぽう、哥菊は便所で通和散をつばで溶き、肛門に塗り付けた。手を洗ったあと、二階の学心のもとに戻る。明心の相手の千代菊も同様である。

 

 寝床に戻ると、学心は自分の陰茎を哥菊の肛門に挿入した。屏風でへだてられた隣の寝床では、明心が千代菊相手に、同様のことをしている。

 

 学「ああ、かわいいよ。もう、いきそうだよ」

 哥「わたしも、いい心持ちだ」

 学「それそれ、もう、いくよ、いくよ」

 

 こうして行為が終わると、学心は揉んだ紙で陰茎を拭き、哥菊のそばに横になった。

 

 しばらくすると、階段をとんとんと、あがる音がして、女中が言った。

 

「おふたりさま、お迎いでござります」

 

 哥菊と千代菊に、別な客から声がかかったのだ。

 

 陰間遊びの手順がわかろう。

 

 なお、通和散は、トロロアオイの根で作った、潤滑用ローションである。肛門性交をする陰間の必需品だった。

 

 図1は、客と陰間の様子を描いている。とくに、左の部屋の客は僧侶のようだ。

図1の拡大図

 

                              (続く)

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永井 義男ながい よしお

1997年『算学奇人伝』で開高健賞受賞。時代小説のほか、江戸文化に関する評論も数多い。著書に『江戸の糞尿学』(作品社)、図説吉原事典(朝日新聞出版)、江戸の性語辞典(朝日新聞出版)など。

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