2017.11.19
# インテリジェンス # 北朝鮮

大量殺人を実行した北朝鮮「女性工作員」はなぜ自白をしたのか

私が出会った北朝鮮工作員たち 第7回
核・ミサイル開発を続け、戦争の不安も高まる中、直近では米中首脳会談などの様子をうかがい、鳴りを潜めているかのような北朝鮮。しかし、北朝鮮の脅威はすでに、私たちのすぐそばまで迫っているかもしれない……。日本にも数多く潜伏している北朝鮮の工作員たち。彼らはいったい何者で、何を感じているのか。公安警察や元工作員への取材を重ねてきた報道記者・作家で『スリーパー 浸透工作員の著者でもある竹内明氏が工作員たちの実像に迫ります。

(これまでの記事は、こちらから

2017年11月13日、韓国‐北朝鮮国境のDMZ(非武装中立地帯)にある南北の共同警備区域、板門店(パンムンジョム)で、北朝鮮軍の兵士が韓国側に駆け込み、北側の銃撃によって重傷を負うという事件があった。

閉ざされた国である北朝鮮では、韓国と接するこうした区域に出入りできる人間は、忠誠心のあついエリート層に限られるとされる。その中から、これほど大胆な方法で脱北しようとする兵士が出てきたのは、まさに異常事態と言えるだろう。

その背景にあるものは、何なのか。

筆者は日本や韓国で暗躍してきた元北朝鮮工作員たちへの取材を通じて、工作員や兵士といった、北朝鮮の中でも特別な訓練を受け、思想教育を叩き込まれた人々の凝り固まった心が、崩壊してしまう瞬間について、たびたび耳にしてきた。今回は、その実例をお伝えしようと思う。

「南山地下室」の恐怖

韓国・ソウルの南山(ナムサン)。現在では、夜になると展望台を目指すカップルたちが多く見られるこの山は、かつて北朝鮮の工作員たちに恐れられた場所だった。

<私は殺される……>

あの時、金賢姫(キム・ヒョンヒ)はそう思ったという。

 

彼女が連行されたのは、南山中腹に建っていた国家安全企画部。韓国の対北諜報機関はかつてこう呼ばれていた。

トンネルを抜けると建物が見えた。金賢姫は車を降りるよう命じられ、両脇を抱えられながら建物裏側から地下への階段を降りた。

<小説で読んだのはここか……>

南山地下室。北朝鮮で読んだ小説の中では、ここは生きて出ることのできない場所だった。南の特務(情報機関員)たちは北朝鮮の革命家を連れてくると、部屋に毒蜘蛛やサソリを放り込む。男が女に変えられてしまうシーンもあった。女性工作員は性的拷問を受ける。その拷問は、北で命じられた秘密工作のすべてを明らかにするまで続くのだ。

――115人が乗った飛行機を爆破し、全員の命を奪ったテロリストの死に場所にはふさわしい場所だ。どうやって秘密を守り抜こうか。私が闘士になって闘うしかない。そう決意して歯を食いしばった――。

筆者は、2016年、大韓航空機爆破事件の実行犯である金賢姫と韓国で会い、直接話を聞くことができた。現代史上、もっとも名を知られた北朝鮮工作員の一人となった彼女は、当時26歳。工作員になって間もなかった。

[写真]2009年11月、拉致被害者・田口八重子さんの家族とともに会見し、スパイ教育の一環である日本人化教育の際に田口さんが指導役とされていたことを証言した金賢姫。会見時、47歳(Photo by GettyImages)2009年11月、拉致被害者・田口八重子さんの家族とともに会見し、スパイ教育の一環である日本人化教育の際に田口さんが指導役とされていたことを証言した金賢姫。会見時、47歳(Photo by GettyImages)

大韓航空機爆破事件が発生したのは、1987年11月29日だ。イラク・バグダッド発の大韓航空機が飛行中に爆破され、乗客乗員115人の命が奪われた。本記事の公開は2017年11月19日だから、まもなく、事件からちょうど30年となる。

爆弾を仕掛けたのは北朝鮮工作員・金勝一(キム・スンイル、当時59歳)と金賢姫だった。二人は日本人の父娘「蜂谷真一・真由美」名義の旅券を持って飛行機に搭乗、爆弾を仕掛けた上で、経由地のアブダビ空港で飛行機を降りていた。爆弾が炸裂したのは、二人が降りた飛行機がアブダビを離陸してから、4時間半後のことだった。

マルボロに仕込まれた「毒薬アンプル」

その後、実行犯二人はバーレーン空港からローマに逃げようとしているところで身柄を拘束され、金勝一はその場で服毒自殺した。その日のことを、金賢姫は私にこう語った。

「(空港に向かう前)バーレーンのホテルを出るとき、工作組長の金勝一が私にタバコの箱を渡しました。『これを噛むときがあるかもしれない』って。

空港では、日本人名義の偽造パスポートがばれて、日本に連れて行かれそうになりました。そのとき金勝一が言ったのです。『日本に連れて行かれれば、正体がばれてしまう。苦労して死ぬなら、これを噛むしかない。私は年を取っているからいいけど、君には申し訳ないことをした』と。

任務遂行中に敵に捕まり、逃げられなかったら自殺しなさいと、工作訓練中にはいつも言われていたので、私もその通りにすることしか考えませんでした」

金賢姫たちはマルボロのタバコの1本に、毒薬入りのアンプルを仕込んでいた。フィルター部分にはタバコの葉を糊で貼り付けてあり、箱を開ければ、どれに毒薬が仕込まれているか分かるようになっていた。

空港の係員に留め置かれている間に、金勝一はこう言ったという。

「まず私が噛む。私が死ぬのを見てから、あなたも噛みなさい」

そのとき、空港の女性警察官がやってきた。

「あなたのバッグを渡しなさい」

「はい」金賢姫はタバコの箱を取り出して、バッグを渡した。

「そのタバコも渡しなさい」

隣で、金勝一が小さく首を振った。それを見た金賢姫は咄嗟に、目印をつけたアンプル入りのタバコを口に押し込んで、思い切り噛んだ。そのまま意識が飛んだ。

病院で目を覚ましたとき、警察官同士の会話が聞こえたという。

"...He died."

その一言で、金勝一が死んだことを悟った。

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