北方領土 屈辱の交渉史(4)

「歯舞、色丹の2島返す」揺さぶるソ連 窮地の重光葵を待っていたのは… 米国の恫喝「4島返還でないと沖縄返さない」 

北方領土・歯舞諸島
北方領土・歯舞諸島

昭和30(1955)年1月25日早朝、首相、鳩山一郎の邸宅に向かう東京・音羽の坂道を小太りの男が上っていた。よほど人目を気にしたのか、表玄関を避けて勝手口に回ると、秘書の石橋義夫が出迎えた。

署名・日付なき書簡

小太りの訪問者は駐日ソ連代表部首席代理、アンドレイ・ドムニツキーだった。2階の応接間で鳩山が出迎えると、ドムニツキーは「ソ連政府からの文書をお渡ししたい」と緊張した表情で切り出したが、鳩山は言い放った。

「ご承知だと思うが、僕は共産主義は大嫌いだ。国交回復して日本に共産主義を宣伝しようということなら同意できない」

ドムニツキーは「よく分かっている。イデオロギーを押しつけようとは全く考えていない」と語り、書簡を手渡した。

ソ連に国交回復交渉を開始する用意があることを伝える内容だった。しかし発信者の氏名も日付も記載されていない。鳩山がその点を尋ねてもドムニツキーは「この文書は本国からの命令によるものだ」と返答するばかりだった。書簡がソ連政府の公式文書だったことは、国連大使、沢田廉三が確認を取った。

握りつぶされた機密

日本は昭和27(1952)年4月28日に発効したサンフランシスコ講和条約により主権を回復し、国際社会への復帰を果たしたが、調印を拒んだソ連とは国交回復していなかった。

日本が国連に加盟するにはソ連の同意が不可欠。しかもシベリアには「戦犯」とされた日本兵ら2千人ほどが抑留され強制労働に従事していた。鳩山にとってソ連との国交回復は喫緊の課題だったのだ。

一方、ソ連では政変が起きていた。独裁者のヨシフ・スターリンが1953(昭和28)年3月に死去し、共産党第1書記に就任したニキータ・フルシチョフが権力を掌握しつつあった。フルシチョフは米ソ対決路線と決別し、平和共存路線に転換、日本との関係改善にも前向きだった。ドムニツキー書簡はその意思表示だった。

鳩山はソ連との国交回復交渉に踏み切った。

交渉は昭和30(1955)年6月3日、ロンドンのソ連大使館で始まった。日本側全権は外務次官や駐英大使を務めた衆院議員の松本俊一。ソ連側全権は元駐日大使のヤコブ・マリクだった。

交渉は北方領土問題をめぐって難航したものの、まもなく転機が訪れた。

「歯舞、色丹を日本側に引き渡してもよい」

8月5日の公式会談後、在英日本大使館の庭内でお茶を飲みながらマリクは松本に唐突にこう打診した。9日の公式会談でソ連側は正式に歯舞群島と色丹島の2島返還を提示した。

松本は直ちに機密電報を東京に打ったが、鳩山に届くことはなかった。外相、重光葵が握りつぶしたのだ。重光は親米派の外務省幹部と協議し、あくまでも択捉島と国後島を含めた4島返還を要求すべきだと意思統一した。

「2島返還で妥協してはならない。4島返還を主張すべきだ」

8月27日、外務省の訓令が松本に打電された。これにより交渉は暗礁に乗り上げ、昭和31(1956)年3月20日、決裂した。

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