九州の礎を築いた群像

岩田屋三越編(3)栄枯盛衰

天神町交差点から見た岩田屋百貨店(現福岡パルコ)。昭和13年発行の九州鉄道の絵葉書より(西日本鉄道所蔵)
天神町交差点から見た岩田屋百貨店(現福岡パルコ)。昭和13年発行の九州鉄道の絵葉書より(西日本鉄道所蔵)

 ■西鉄との「二人三脚」で成長 拡大路線が仇に

 「競争によるデパートの質の向上は必ず郡部の購買力を一層吸収し、大阪・東京におされていた婚礼衣装等の大口注文を福岡に食い止め得て行くことを確信しています」

 昭和の初め、福岡市の呉服商、2代目・中牟田喜兵衛(1891~1980)は岩田屋百貨店の開業に向け、周囲を説得していた。

 福岡市内は大正14年、中洲に開店した玉屋百貨店を皮切りに、天神の松屋百貨店、博多の九軌デパートと出店ラッシュだった。三越や高島屋も九州に出張販売していた。

 喜兵衛は百貨店進出を決心した。周囲は「競合店が多すぎる」と懸念したが、福岡市に百貨店が集中することで、九州の外にお金が流れるのを福岡で食い止める。今で言う「ダム効果」が働くと、説いて回った。

 出店場所は、それまでの本拠地だった博多ではなく、天神地区を選んだ。

 選択を後押ししたのは、九州電力などの礎を築き、「電力の鬼」と呼ばれた松永安左ヱ門(1875~1971)だった。松永は、岩田屋呉服店の上得意だった。

 当時、福岡の商業の中心は、古代以来の歴史を持つ博多であり、天神は人通りの少ない、商業に不向きな地区だった。

 だが、松永は天神の将来性を見通していた。九州鉄道(九鉄、西日本鉄道の前身)を築き、天神に福岡駅を構えた。

 松永は、この九鉄福岡駅に百貨店を併設するよう持ち掛けたのだった。盟友で阪急電鉄創業者の小林一三(1873~1957)を、喜兵衛に引き合わせた。小林は大正末期、大阪・梅田に日本初のターミナルデパート、阪急百貨店を作った。

 「鉄道の乗客を百貨店に引き込めば、電車も相乗効果でうまくいく。阪急のノウハウも伝授するからぜひ、やってみたらどうか」

 小林の言葉が、喜兵衛の背中を押した。

 「今後、福岡市が発展し、沿線が開ければ利用者は必ず増える」

 喜兵衛は松永から相場の倍の1坪800円で天神町(てんじんのちょう)の土地を買い、11年10月7日、百貨店、岩田屋を開業した。地上8階地下1階、延べ床面積4500坪の超大型店舗だった。

 当時の福岡市の人口は29万人だったが、開店日は10万人をはるかに超える客が押し寄せた。九州初のターミナルデパートは、商都・福岡の先駆けとなった。喜兵衛45歳のときだった。

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 大戦中、岩田屋は売り場面積を縮小し、細々と営業した。空襲を避けようと、外壁を黒っぽく塗った。そのかいがあったのか福岡空襲も生き延びた。

 「新しい時代なんだから、新しい人でやれということだ」

 戦後の昭和22年、喜兵衛は社長職を長男、喜一郎(1915~2008)に譲った。喜一郎は入社からわずか1年半。32歳の若者だった。

 喜一郎はテニスの選手だった。神戸商業大(現神戸大)時代は全日本ランキングで20位に入った。サーブとネットプレーが得意な攻撃型の選手だった。

 「会社経営もテニスと同じだ。『つぼ』を外さなければ、いい結果は必ず出る」。こう語り、経営も「攻め」に徹した。

 22年の大分・日田を皮切りに、久留米(47年)、熊本(48年)、西新(56年)と出店攻勢を仕掛けた。

 岩田屋は、九鉄の流れをくむ西日本鉄道と二人三脚で成長した。西鉄の沿線では住宅の開発が急速に進んだ。小林一三がにらんだ通り、岩田屋も売り上げを伸ばした。喜一郎は23年に新天町商店街などの代表者同士で懇親会を作る。「天神を福岡の都心にしよう」と「都心界」と名付けた。

 喜一郎の目は海外にも向いた。

 30年代以後、バンコクや台湾への進出を検討した。シンガポールはあと一歩まで話が進んだ。喜一郎も現地に足を運んだが、場所の問題で折り合いが付かず、断念した。この決断を喜一郎は生涯悔いたという。

 それはともかく、喜一郎は走り続けた。

 「これから日本もスーパー時代がやってくる」

 38年、伊藤忠商事の取締役だった瀬島龍三から「一緒に九州で食品スーパーのチェーンを作らないか」と誘われた。同年秋、熊本市に1号店を出した。熊本は「火(日)の国」だから「サニー」と名付けた。

 39年の年度方針で喜一郎は「これから志向すべきは、岩田屋企業集団の総合的展開だ。これなくして岩田屋の発展はない」と意気揚々と語った。

 喜一郎は拡大路線を歩み、後ろを振り返ることはなかった。

 天神では、九州内外の資本による競争が激化し、「流通戦争」「小売り戦争」と言われた。岩田屋と喜一郎は常に、戦いの中心にいた。

 九州一の百貨店を育て上げた喜一郎は60年、社長を弟の栄蔵に譲った。70歳だった。平成元年には、喜一郎の長男、健一が42歳で社長に就いた。

 だが、喜一郎の「攻め」は、負債の増大となって、岩田屋を蝕(むしば)んでいた。

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 健一が社長に就任したころ、岩田屋はグループ全体で170億円もの債務超過に陥った。西新店の赤字など、多店舗戦略が裏目に出た。そして平成3年にはバブルが崩壊した。周囲の目に、岩田屋は危機的状況に映った。

 それでも天神の岩田屋本館は黒字だった。健一ら経営陣は手を打つのは「まだ先でよい」とみていた。

 健一は本館近くの土地に新たな売り場「Z(ジー)サイド」を出店する計画を打ち出した。

 だが、この頃、創業以来「共存共栄」の関係にあった西鉄との間に、すきま風が吹いていた。

 西鉄は昭和61年、福岡(天神)駅の建て替えを柱に、天神を大改造する「ソラリア計画」をぶち上げた。このうちターミナルビルに入居する百貨店をめぐり、岩田屋と三越が激しくぶつかった。最終的に西鉄は三越を選んだ。

 その後、西鉄はターミナル北側のビル「ソラリアステージ」に出店するよう岩田屋に要請したが、今度は岩田屋が「売り場面積など条件が合わない」として断った。

 「西鉄と組まなくとも、やっていける」。健一が「Zサイド」に突っ走った背景には、西鉄との感情的なもつれもあった。

 Zサイドは失敗に終わった。「新しい価値観を持った25~39歳の働く女性」をターゲットにしたが、客層は予想より若く、客単価は伸びなかった。

 平成7年に導入した「買い取り仕入れ、自主販売」も失敗だった。

 日本の百貨店は「買い取りなしの委託販売」が慣習だった。商品仕入れや接客など売り場に責任を持つのはテナント(アパレル)であり、百貨店は売り場を貸す「場貸し」といわれる。

 この商慣行を岩田屋は変えようとした。百貨店側の責任で多くの商品を買い取り、アパレルが派遣する販売員に頼ることもやめた。

 だが、リスクは大きかった。売れなかった場合の在庫負担は、岩田屋が負うことになったからだ。接客経験の乏しい岩田屋の販売員は満足に商品を売ることができず、Zサイドの初年度売上高は200億円にとどまった。目標の350億円に遠く及ばなかった。

 岩田屋の環境はさらに厳しくなった。

 Zサイド開店の翌年、天神では博多大丸が東館を開業し、福岡三越がソラリアターミナルに進出した。天神の百貨店の売り場面積が一挙に2・7倍になったといわれる。

 岩田屋の債務超過額は300億円に達した。年間売上高の3割にあたる。銀行団の姿勢がますます厳しくなった。一線を退いていた喜一郎は、私財をなげうち、岩田屋の看板を守ろうとした。

 デフレ不況下で百貨店を立て直すのは、容易ではない。平成11年に創業の地である本館を学校法人、都築学園グループに売却した。

 14年、再建計画が策定された。福岡銀行などによる債権放棄に加え、伊勢丹の傘下入り、中牟田家の経営権返上が盛り込まれた。

 健一に替わり、伊勢丹副社長の佐久間美成が社長となった。14年5月の株主総会後、記者会見に臨んだ佐久間は、岩田屋の経営不振の理由を問われると、おもむろに懐から1本の扇子を取り出した。

 「扇って広げたら、素早く閉じるでしょう。岩田屋はそのタイミングがずれた。だめな時を見極め、俊敏に対応するのが大事です。それが商売の原点だ」

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 伊勢丹は喜一郎を特別顧問として遇した。地元経済界とのパイプ役を期待したのだ。

 自らが大きく育てあげた百貨店が、他人のものとなる。表舞台から去った喜一郎は、自身の言葉を発信することはほとんどなくなった。胸中に「盛者必衰」「栄枯盛衰」の言葉がよぎったことだろう。

 だが、岩田屋の看板は、地元の人々に愛されていた。伊勢丹主導の下で、徐々に客足は戻ってきた。

 今年6月3日。福岡商工会議所で、岩田屋三越社長の中込俊彦と西鉄社長の倉富純男が、握手を交わした。来春、岩田屋三越が運営する「福岡三越」に「空港型免税店」を一緒に出店するとの記者発表を終えた直後のことだ。

 倉富は語った。

 「男性の手をこんなに長く握ったのは初めてだ。それだけ岩田屋さんとのコミュニケーションをしっかり図り、一緒に試行錯誤する時代になったということ。岩田屋さんにお客さまにきていただかないと、うちのバスも電車も、これから本当にいかんわけですよ」

 九州の商都・天神を築いた岩田屋と西鉄は今、博多に商業施設を集積するJR九州を意識し、関係を再構築しようとしている。(敬称略)

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