俺はお前を待っていた!Netflixで復活の大怪獣ガメラ、その歩みと新作への期待

昭和から平成にかけて日本の特撮史に強烈な爪痕を残した

俺はお前を待っていた!Netflixで復活の大怪獣ガメラ、その歩みと新作への期待 - GAMERA -Rebirth-
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2022年11月17日に大怪獣ガメラの新作『GAMERA -Rebirth-』が突如発表された。Netflix独占の配信となる。

これには国内外の怪獣作品ファンが狂喜乱舞したことだろう。正直なところゴジラシリーズは東宝の稼ぎ頭ならぬ看板作品なので「これが最後!」、「さらばゴジラ」と言われても結局は新作が作られてしまうので寂しさもなければサヨナラ感も無い。初作で山根博士の「あのゴジラが最後の一匹だとは思えない」というセリフはゴジラシリーズを“深く”語る上で重要なワードだが、客観視すると東宝側からは大変都合がよく何度でもゴジラをよみがえらせることができる。客からしても「どうせまた復活するっしょ」という喪失感を抱けない台詞になってしまった。

一方でガメラの方はというと、大映時代の昭和シリーズが1965年~1971年の間に7本、徳間グループの傘下に入って80年に1本、95年~99年に3本製作され、角川時代に1本作られただけ。ゴジラシリーズとくらべても圧倒的な少なさにもかかわらず根強いファンが居るコンテンツだ。アメリカでのガメラシリーズの立ち位置を聞いたことがあるのだけど、ゴジラは比較的ライト、怪獣映画としては入門編な作品で、KAIJUを語るならガメラを観てスタートライン。というくらい重視されており、いつになったら日本は「ゴジラ対ガメラ」を作るんだい? と話すほど。

ぶっちゃけると僕はゴジラよりもガメラが圧倒的に好きだ。これについては後述するとして、今回のNetflixの突発的な発表にはほんの0コンマ数秒心が踊ったが、ガメラの体格や平成ガメラシリーズがフラッシュバックして一気にどうなるのか少し影を落としたのだ。

今回は昭和から平成にかけて日本の特撮史に強烈な爪痕を残したガメラシリーズを振り返り、Netflix版で期待したいことを書いていく。

激動の昭和、日本映画産業の荒波に振り回された怪獣ガメラ

1965年に大映が制作し公開した『大怪獣ガメラ』は怪獣、ひいては元ネタの亀に対して「大空を自由自在に飛び」、「火を吹く」という突拍子もない設定を加えたことで、怪獣という種に新しい可能性を生み出した。それまではラドン(1956年)やモスラ(1961年)が空を飛ぶ怪獣として認知されていたが、手足、首を引っ込めて手足の穴からジェット噴射が吹き出して回転しながら飛び、後年は足部分のジェットだけで飛行し、手に人間を乗せるといった他の怪獣映画では見られない個性的な芸当を見せた。

何より当時のメインターゲット層だった子供の心をガッシリと掴んだのはガメラ自身が「子供の味方」、「子供に対して友好的」という点で、この点が僕の心を鷲掴みにして現在に至っているのは言うまでもない。湯浅憲明監督によると、映画スタッフと子供との意思疎通で子供が飽きない映画づくりを目指す意図もあったとのことで、後年製作した『ウルトラマン80』の作品性を考えたらまさにそういった人物だったのだろう。

 

ゴジラは初作から人間が生み出した核兵器というカルマから人間文明に対する災厄として降りかかる破壊神、災害のようなものだったため、シリーズで敵怪獣を倒しても正義の味方なのか、それともたまたま縄張りを侵しにきたならず者を撃退しただけなのかあやふやな立ち位置だった(未だに『ゴジラ』で本来攻めるべきは東京ではなくアメリカだろうと思うのは僕だけか?)。これに対してガメラの立ち位置は明確だった。

初作の監督は『幸せなら手をたたこう』を手がけ、大映の中でも特撮経験のあった湯浅憲明。特撮監督には『秦・始皇帝』、『あゝ零戦』の築地米三郎。ガメラの造形には『ゴジラ(1954年)』に参加した八木正夫を始め、当時東宝に在籍し『モスラ』などのゴジラシリーズで気ぐるみ造形をしていた村瀬継蔵、ゴジラの口を動かした鈴木昶が当時の日本映画界にあった「五社協定(映画会社間で俳優、社員、スタッフのやり取りを禁止し違反した場合には罰金を支払うというもの)」を秘密裏に乗り越えて参加するという特撮界のアベンジャーズみたいな出来事があり、これが結果として功を奏した。さらにガソリン等を使って実際に出した迫力ある火炎放射、大映専属の二枚目俳優にして船越英一郎の父、船越英二の出演もあって大ヒットとなり、ゴジラ以降乱立した怪獣作品黎明期にようやくゴジラに並ぶ怪獣がここに誕生した。

以降大映を支える大ヒット作品として1971年の『ガメラ対深海怪獣ジグラ』まで製作されるが、大映の倒産に伴ってシリーズは一旦中断してしまった。大映のドル箱シリーズにも関わらず『大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス』以降『ガメラ対宇宙怪獣バイラス』、『ガメラ対大悪獣ギロン』の3作は予算が減り続けるという奇怪なことが起きていた。

少し長い余談だが、ここで日本映画史のお話。『大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン』の同時上映として公開された大映の傑作『大魔神』があるが、こちらは1年間に3作公開という無茶苦茶な事をしてしまったせいで『大魔神』シリーズは中断。大映の経営不振を加速させたようだった。

これには当時の大映のワンマン社長、永田雅一が円谷英二に依存していた東宝に対抗しての考えだったのだけど、そもそも大映は製作至上主義を長く掲げすぎたせいで直営の映画館が少なく興行網が乏しかった。興行網が弱いということは、松竹、東宝、東映の映画館を間借りしての興行となるので大映の取り分が低くなる。後年になって「大映興業株式会社」という直営館の獲得に奔走するが時すでに遅し。すでに優良物件はこれらの会社に抑えられていたので大映は最後まで配給収入で苦労することになる。日本の映画産業というのは現在に至るまで土地転がし、土地活用の延長線上にあるということは念頭に入れていただきたい。

「対バルゴン」、『大魔神』の同時上映の1966年当時の大映の累積赤字は31億円超となっていたようで、すでに大映の倒産は秒読み間近。しかし永田は「永田ラッパ」と揶揄されるほど口が達者で、さらには岸信介はじめとした政界に繋がりが深かった。これを使って「外貨獲得のために映画を国際的に売り出す産業にしよう」として国から多額の製作資金を融資させた。その額は累計で54億にも上る。しかし、その資金で製作されたのは『大巨獣ガッパ』(日活)、『宇宙大怪獣ギララ』(松竹)そして『大魔神逆襲』だった。一般の人にガッパ、ギララ、大魔神と訊いてみて「怪獣でしょ?」とは返ってこないだろう。これが全てを物語っている。

話をガメラシリーズに戻して、ガメラは入念なマーケティングが功を奏した作品でもある。先程も書いたように、監督の湯浅は子供たちを飽きさせない工夫をシリーズを通して凝らしたわけだが、これは当時の映画館事情がなければできないことだった。

昔の映画館は今みたいに騒いじゃいけないというわけではなく、面白いところはみんなで声を出して笑ったり、感想を言い合うのが当たり前の時代。なんならタバコも吸って良い。昭和の時代はこうした観客の生の反応が関係者の間でも大切にされており、「男はつらいよ」の渥美清も「寅次郎相合い傘」を新宿で観たときと浅草で観たときに、劇中のワンシーン「メロン騒動」の受け止められ方が異なっていると後年「徹子の部屋」で話していた。今の映画産業、映画宣伝で最も欠けている部分なので今こそ立ち直るべきだろう。

ガメラにおいては「対バルゴン」では大人に向けたストーリーにしてガメラやバルゴンの出番も比較的少ない。結果、子供たちの集中力が切れて歩き回るというのを目にしたという。確かに「対バルゴン」は僕もそこまで楽しい映画じゃないと思っている。そうした観客の生の反応から「対ギャオス」では前作の「対バルゴン」からの反省として子供の観客が飽きないよう、子供のシーンを多くするという施策が盛り込まれたことで子供たちからの熱い支持を得ることに成功。この作品はガメラシリーズの礎となり、以降の作品も子供を軸にしてピンチに駆けつける救世主、守護神としての立ち位置を確立させた。余談だが本作は漫画版も存在しており、これを手がけたのはあの『はだしのゲン』の作者、中沢啓治だ。心底読んでみたいし、絶版の上、現存数が少ないので角川はイメージアップも兼ねて全力でこの漫画の復刻、発刊をするべきだろ!

文科省は即刻『大怪獣空中戦 ガメラ対ギャオス』を必須視聴教材に指定するべき!

さて、先にも書いたように大映の社長、永田は大映作品の海外展開と外貨獲得も視野に入れていた。その延長にアメリカでの放映権を契約していたことから「対宇宙怪獣バイラス」から「対深海怪獣ジグラ」までは海外の子役、俳優が必ず出演することになった。この方針も後年功を奏して、海外の特撮ファンたちのガメラの認知度を上げることに繋がった。

海外でのガメラ事情を話すと、1972年に大映が倒産してしまった際にアメリカではパブリックドメインになってしまった。そのため海外ではDVD、Blu-rayのディスクを作り放題だし、現在はYouTube でもガメラも含めた英語字幕の大映作品が観られる。

そんなシリーズも「対深海怪獣ジグラ」で一度中断。徳間グループ傘下に入った後の1980年に満を持して『宇宙怪獣ガメラ』が公開された。これはあまりの出来に僕が「スター・ウォーズ」に次いでかなりの回数“観てしまった”作品だ。完全新作を謳っているものの、この作品はいわゆる「総集編」のような作品で、『大怪獣ガメラ』から「対深海怪獣ジグラ」までのガメラの戦闘シーンを再編集して詰め込み、ガメラの新規撮影部分がちょろっと。これに人間ドラマが加えられたというものだった。これに関しては当時5歳だった僕のまざまざとした記憶と感想に添えて言いたいことが山ほどあるので後に紹介する。

余談だが1980年という年は他の怪獣たちが冬眠していた怪獣映画不作の時期。ゴジラも75年の『メカゴジラの逆襲』で興行収入がそこまで伸びなかったことから84年の『ゴジラ』まで冬眠することになった。『宇宙怪獣ガメラ』がいまいち伸びなかったのは心地よい冬眠を無理やり起こされた挙げ句あんな結末にされたのが原因かもしれない。

そんな中、野心を燃やしていたのがギララ。絶対にありえないだろうに、今か今か目覚めの時を待っているとなんと復活場所は「男はつらいよ」。まさかの寅さんシリーズで謎のカムバックを果たした。

その作品は1984年の12月に公開された『男はつらいよ 寅次郎真実一路』で、これまた一生撮らせてくれることはないだろうと思いつつも心の片隅では「特撮映画に挑戦をしたい」と願っていた山田洋次が「そうだ松竹にはギララがいたじゃないか」という思いつきからなんの偶然かゴジラと同じ年にカムバックを果たした。ちなみに配給収入では『ゴジラ』が17億、一方の『男はつらいよ 寅次郎真実一路』が12億強とそこそこいい勝負をしていたりする。ちなみにこの作品ではゴジラのグッズが出るという日本映画史に残る暴挙なので映画ファンは一度は観るべし。

セリフでもゴジラって出たりする超メチャクチャなオープニング

冬眠を経て目覚めた平成ガメラは日本特撮の最高点だった

時を経て世は平成に。ゴジラの体内のメルトダウンが進行する中、日本に新たな怪獣の危機が迫る。
『大怪獣ガメラ』公開30周年の1995年。昭和シリーズの設定を一新し、監督に金子修介、特技監督に樋口真嗣を迎えてガメラシリーズのリブートとして『ガメラ 大怪獣空中決戦』が公開された。

満を持しての完全新作の『ガメラ』にして、年齢を重ねたファンの嗜好にあった大人向けのストーリーが支持され、1996年には『ガメラ2 レギオン襲来』1999年に『ガメラ3 邪神覚醒』とシリーズが展開。どの作品も高い評価を受け、特撮技法の最高点という声もあるほどこの時代の特撮技術が惜しみなく投入されている。

子供の味方という設定もかつてのファン層の加齢からか、かなり薄められ、古代より存在し、勾玉を通じて人々の祈りを汲み取る地球の守護神へと設定が変更。「ガメラ2」、「ガメラ3」と作品が進むに連れて激化する戦いに合わせてシャープなフォルムに変化していくという生物的な特徴がガメラ、ギャオス、レギオンそしてイリス全ての怪獣に見受けられた。

映画と直接的な関係はないが、1997年にはPlayStationで『ガメラ2000』という3Dシューティングゲームが発売された。

開発元はCG制作会社のデジタル・フロンティア、販売元はヴァージンインタラクティブ。ここでも平成ガメラシリーズの特徴を色濃く受け継いでおり、バイオテクノロジーをテーマにしたギャオスのDNAが鍵となる内容で、「大怪獣空中決戦」と設定の共有を匂わせるパラレルストーリーとなっている。ここまで書いてしまったのと、ここはIGN JAPANなんで一応ゲームの感触を話すと前後ろ左右、4つの視点を切り替えて進むレールシューティングゲームで、プレイヤーは人間が操縦する機体でショットを行いつつ、ガメラにプラズマ火球の発射や回転ジェットアタックを指示してボスやザコ敵をなぎ倒していく。イメージとしてはこのシューティングゲームにおけるガメラの立ち位置は『R-TYPE』のフォースみたいなものだと思えば良い。ちなみに2プレイ可能で、1Pは戦闘機、2Pはガメラと喧嘩になること間違いなし。

コアなファン以外にあまり認知されていない作品だが、ゲームのデザインは良く出来ており、実写を取り込んだCGムービーや、ガメラのCGモデルも大変良く出来ている。見かけたら速攻で購入するべし。

PS1のムービー、とりわけ1997年(『ファイナルファンタジーVII』が出た)と考えたらかなりよく出来ている。ちなみにサウンドはZUNTATA。だけどタイトー製じゃない。

 
左側の男性はなんとあのお笑いコンビ、パックンマックンのパックンことパトリック・ハーラン! 若い!

ついでにガメラゲームで紹介するべきものがある。それはドリームキャストの周辺機器、ビジュアルメモリの特別なバンドルゲーム『ガメラ ドリームバトル』。これは昭和ガメラやジャイガー、ギャオスといった昭和ガメラシリーズや平成ガメラシリーズのキャラから一体選んでトーナメントを勝ち抜いて育成し、優勝して殿堂入りさせるという単純な内容。殿堂入りをさせたらその怪獣は通信対戦で使用することができる。対戦相手はもちろん他人の持ち寄った『ガメラ ドリームバトル』とも可能だが、これより前に発売された『モスラ ドリームバトル』と対戦させることができた。そう、このゲームではガメラ対モスラ、ギャオス対キングギドラという夢の戦いができるのだ。これをどんなことで権利的にクリアしたのかは分からないが、ついに夢の東宝怪獣対大映怪獣という本当の意味でのドリームバトルが実現したのだ!

これをその目で確認したいならすぐにネットショップなどで残っているものを買うべし。

ちなみにこれは一応この『ガメラ ドリームバトル』のために製作されたビジュアルメモリ。後ろにはガメラに関するシールが貼ってある。

さて、平成ガメラシリーズだが高い評価を受けているものの「ガメラ3」を最後にひとまずの終演となった。理由としては興行収入が10億に達しなかったことを金子は理由に上げており、もし達していたら4作目があったのかもしれない、とされている。

非公式ではあるが落語家の林家しん平が大映から特別に製作許可を貰って続きを作っているようだが、僕自身一度も観たことがないので割愛。観れる機会があるなら観てみたい。

さて、平成ガメラの特徴だが、先も書いたように現在もなお神格化されている平成ゴジラシリーズが堅調だったことからか、ここに追いつけ追い越せという気概があったのだろう。子供向けの路線を薄めてリアリティの追求を徹底した。そのひとつに自衛隊の協力があったことと、当時お昼の番組としてメジャーだった草野仁の「ザ・ワイド」や朝の情報番組「ズームイン!!朝!」が劇中で登場するなど映画『ロボコップ』のような観客の没入感を高める手法が取り入れられているのが特徴的だった。

現時点で最終作となっているのは仮面ライダーシリーズを多く手がけ、参加した田崎竜太が監督した『小さき勇者たち GAMERA』。現在権利を有している角川ヘラルドが初めて手がけたガメラ作品となる。この作品も3作にわたって製作された平成シリーズや、昭和シリーズと世界、設定を共有しない全く新しいガメラのリブート作品だった。

本作は平成シリーズと打って変わって再びガメラが子供と意思疎通をする素振りを見せることから、湯浅時代に築いた子供の味方としてのガメラの路線に戻る。加えて怪獣ジーダスの作中における行動やその誕生はバイオ的で平成シリーズの系譜を引いている。さらにこの物語の過去シーンではアヴァンガメラとギャオスの戦いが昭和シリーズというよりやや平成シリーズに寄っているところから、昭和と平成の中間に立った作品だったと言える。

この作品も興行収入が振るわなかったことに加えて、評判も思ったほど食いつきがよくなかったためシリーズ化はされずにフェードアウトし、現代に至っている。

ここで一連のガメラ作品の紹介は終わりと言いたいところだが、KADOKAWAはYouTube上にガメラ生誕50周年企画として「GAMERA」というショートムービーを公開していた。

ファンは完全新作を期待していたが、結局はただのお祝いムービーだった模様。個人的には平成シリーズの延長になるような気がしていたので、好評ではあってもこの路線が公開されたら実際どうだったろうかとは思う。

いまこそ『宇宙怪獣ガメラ』という珍作を

ガメラシリーズをひとつひとつ追っていったが故に『宇宙怪獣ガメラ』はその顛末に困惑したものだった。先も書いたようにこの作品は総集編で、これにちょこっとしたガメラの新撮部分と等身大ヒーローのような人間ドラマで構成されている。

問題はこのガメラの“新撮部分”。ガメラが久しぶりに日本の上空を飛んだかと思ったらすでに観たことのある怪獣たちとの既視感しかない戦闘シーンを観させられたかと思ったら最後はスター・デストロイヤーもどきの宇宙船と交戦しておしまい。

おっと忘れてはいけない。この映画には週刊少年ジャンプを持った葛飾区のお巡りさんや、宇宙戦艦ヤマト、銀河鉄道999が登場する。なんて豪華なんだ! と思うのは1人でもいたのだろうか。ほとんどの鑑賞者はポカーンとしたのではないか。

この映画の罪は他にもある。スター・デストロイヤーもどきと書いたがそのまんまと言っても差し支えがないほどの激似ぶり。実際観ると分かるがオープニングも『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』のブロッケードランナーを追跡するシーンそのまんまな登場の仕方をしてしまう。ガメラを観ていたのは幼稚園児の頃だったので、後年小学生に上がってから「スター・ウォーズ」に触れたらあまりの似せ方というか似せすぎにひっくり返ってしまった。1980年と言ったら「エピソード5/帝国の逆襲」が公開されたばかりで、「エピソード4」の日本公開は1978年。いかに日本の映画界に「スター・ウォーズ」が大きな爪痕を残し、強い影響力があったのかうかがえるひとつの証拠だがやりすぎ。

注:「ガメラ」です。

 
雑コラではありません。

いやぁ昭和はおおらかだなぁ……

おまけに等身大ヒーローのような人間ドラマにも当時幼稚園児の僕は困惑したのをよく覚えている。そして観たことのあるガメラとその他怪獣たちの戦いの映像。「対深海怪獣ジグラ」まで手を叩いて楽しんでいたものが、この作品だけ妙に不自然な感触を持ったのだ。

なんだこりゃ?

この感想を否定したい僕はこれ以降、定期的にこの『宇宙怪獣ガメラ』を繰り返し観ている。納得が行かないのだ。あれだけいつも明るく楽しい終わり方をするのに、宇宙の遥か彼方で爆散して死んでしまったのか(?)どうかも分からない終わり方とは一体何なんだと。

はい、昭和ガメラの最期です。なんて雑な終わり方なんだと当時は呆然としました。直前のガメラの声もどこか特攻自爆を思ってか、悲しい声を上げるのがね……

とまぁ愚痴が続いたが、実のところ『宇宙怪獣ガメラ』はそこまで嫌いじゃない。じゃないと50回以上も観直すことはしない。さっきは既視感でしかないと書いたが、ガメラの戦闘シーンだけを集めた復習物と考えたらわりと観られる作品なのだ。ファスト映画の需要がある昨今、ガメラという怪獣を知るのに手っ取り早いのはこの『宇宙怪獣ガメラ』である。ガメラシリーズ初心者はこれから観た方がいい。

ガメラとは? 新作ガメラが目指すべき方向は?

僕にとってガメラとは「思慮深く、知能の発達した戦略家怪獣」だと思っている。

はっきり言って僕は昭和シリーズと平成シリーズどちらが好きかというと昭和シリーズの方が圧倒的に好きだ。

これはどちらの作品にも共通しているのだが、ガメラは毎作だいたい初戦に手痛い敗北を喫することになる。その敗北した姿はとても痛々しく、昭和シリーズでは子供を対象にしていると言えど当たり前のように血は出るし、なんなら腕が取れかけたりするほど痛々しかった。観ている子供たちに劇中に登場した子供たち同様にガメラを心配し、応援したくなるように心をくすぐっている。その後、ガメラはガメラなりに戦略を立て直して再びリベンジマッチを挑んで勝利をおさめるというのがシリーズの図式である。

ガメラが知恵を回しているのは「対バルゴン」から見られる。バルゴンは冷凍怪獣という冠が載っていることからも分かるように冷たい環境を好む怪獣。じゃあガメラの火炎放射が有効かというとそうでもなく、得意の火炎放射は強靭な皮膚でガードされてしまう。バルゴンの弱点は水で、水に浸かると表皮が溶けてしまう習性があることが発覚。一時ガメラはバルゴンに凍結させられるもそれを体で理解して、回転ジェットでバルゴンを琵琶湖に突き落とす。水で柔らかくなったところにガメラ自身の牙を突き刺し、最後は引きずりこんで撃退した。

ギャオスも日光が弱いと分かったら、夜明けのギリギリまでギャオスを地上にとどめ、日光で弱くなったところを逃がすことなく富士山の火口に投げ入れて始末。「対ギロン」では基地から発射されるミサイルをキャッチした後にギロンが手裏剣を発射する頭部に突き刺し、最後は火炎放射で点火して爆死させるという鬼畜ぶり。「対ジャイガー」や「対ジグラ」でも周囲にあるものを道具として使うので知能はかなり高い。

このようにガメラは自身が多大な傷を負うものの、相手の怪獣の特性を着実に把握して弱点を見出し、そこを突いて倒すという頭の良さを見せている。ひらめきが好きな子供を楽しませるような作りだけでなく、こうしたトリックのヒントがストーリーの中に織り交ぜられ、黎明期に数多に誕生した怪獣の中でも知恵者という立ち位置にしてあげることでガメラの独自性を築いている。

そんなこよなく昭和シリーズを愛した僕が平成版「大怪獣空中決戦」を初めて観たときにどんな感想を抱いたか。「ガメラ……だけど、これなんか違くないか??」その後3回ほど観直した畑少年(小学2年)はある答えに行き着いた。「こりゃ亀の甲羅背負ったゴジラだわ」

平成シリーズもガメラが手痛い敗北を喫した後に復活して敵怪獣とのリベンジマッチに勝利するという様式を引き継いでいるが、その戦い方は火炎放射と置き換わったプラズマ火球を打ち込むパワープレイ。どうやって敵怪獣にプラズマ火球でクリティカルヒットを与えて爆散させるかということに終止している。ちなみに爆発シーンは大変美しい。

ただ、知恵ではなくてパワープレイ。これはゴジラの十八番芸であって、ガメラである必要はない。「ガメラ2」ではレギオン相手に腹からぶっ放すプラズマ火球でレギオンを消し去るという常軌を逸した超パワープレイ。「ガメラ3」ではイリスの拘束を逃れるために自身の手をプラズマ火球で焼き切る。一方のイリスはガメラのDNA情報から解析して自分のものにしたプラズマ火球のコピーを放つも、ガメラは先程失った手で受け止めてプラズマ火球を自身の新しい手として具現化させ「バニシング・フィスト」でイリスをぶん殴って倒す。これが唯一ガメラらしい知恵を使ったと思う箇所だが、イリスという怪獣の弱点を突いての頭脳プレイかと考えたらちょっと疑問だ。

「レギオン」のインパクトが良かったせいかゲームでもラスボスをパワー押しでKO

『小さき勇者たち GAMERA』はガメラが知恵を使って戦っていると思える箇所が明確に、かつ多数あった。ギャオスの超音波光線のように鋭利で、バルゴンのように伸びる舌で戦うジーダスは見た目も昭和シリーズ路線でかなり好印象の怪獣だった。ガメラもこの伸びる舌を逆手に利用して戦い、撃退させ、終盤ではこの舌を引き千切って一発を決めるという終わり方で大変爽快感があり、原点回帰を目指した作品としては好きだった。ただストーリーの面や、ガメラという名前を使わなかったことに加えて、かつての子供たちが歳を重ねたことを考慮して作られた大人路線の平成3部作と比べたらどっちつかずな感があったのは否めない。

平成3部作シリーズは他にも当時子供の僕を悩ませたものがあった。それは「ガメラがやたらと女たらしになってしまった」こと。先にも書いたように勾玉がガメラと心を通わせるツールで、これを藤谷文子の役が人類代表のような感じで担うわけだが、子供向けの子供たちのヒーローガメラという延長で観続けた自分にとって夢中になれる設定を頭ごなしに否定された挙げ句、女の子の身の危険だけを心配するようなガメラの姿に置いてけぼり感を強く感じたのだ。

Netflixで現在制作進行中の『GAMERA -Rebirth-』で何を求めるかというという話に入る前に、実はこれアニメなんじゃね? という予感。公開されているアカウントがKADOKAWA animeというチャンネルであるため、特撮作品の可能性が低くなってきている。まぁこの際アニメでも実写特撮でもどっちでも良いがそこは早めに発表するべきでしょ。

さて、求めたいものの話だが、路線としては子供たちの味方というのを必須にする必要はなく、人類の味方であるということに絶対的な基礎をおいてほしい。特定の誰かに愛情をそそぐ、共鳴するというのではなく、もっと幅広く接するようなフレンドリーさを持たせなければだめだと思う。作品によって立場があやふやなゴジラとは違って明確な正義の怪獣であることは絶対だ。ゴジラは恐怖であり、ガメラはそれとは対照的に親しみやすさがないとだめだ。
さらに言うなら、パワープレイはもうゴジラシリーズでお腹いっぱいなので相手に弱点を作り、その弱点を攻略する。そういったガメラ作品を期待している。

最後に今回のコラムの執筆においては亡き斎藤守彦さんの『映画を知るための教科書 1912~1979』を参考にさせていただいた。現在疑問だらけの日本映画産業を勉強する上で参考になるので映画産業の何故、何を知るために読んでほしい。


ハタフミノブ(@hata_fuminobu)はフリーのライター兼Web生放送ディレクター。
このコラムに限った話じゃないが物を書くにあたって本棚をひっくり返し、DVDをひっくり返し、ゲーム棚をひっくり返しとやっていたらコラムを書く時間より観る、調べる時間の方が多くなって新作を観る時間、プレイする時間も必然的に減ってくるこの事象をなんとかしたい。

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