UNHCR初の女性トップ
日本人として初めて国連難民高等弁務官を務めた緒方貞子さんが10月22日、亡くなった。92歳だった。故郷を追われた難民に寄り添い、「現場主義」を貫いた。信念をもって、血の通った支援に身をささげた生涯だった。
緒方さんは1927年、東京で生まれた。5・15事件(1932年)で暗殺された犬養毅元首相を曽祖父に持ち、祖父、父はともに外交官。英国、香港などで少女時代を送り、国際的な視野を身につけた。米国に留学して最先端の政治学の理論に触れ、修士号と博士号を取得。政治学を学んだのは、日本がなぜ戦争をしたのか、知りたかったからだという。
「小さな巨人」防弾チョッキつけ紛争地へ
91~2000年、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のトップを務めた。東西冷戦が終わり、民族紛争が相次いだ時期。小柄な体を防弾チョッキで包み、ユーゴスラビアやチェチェンなどの紛争地に自ら出向いて、難民の声に耳を傾けた。その姿勢は海外メディアから「小さな巨人」とたたえられた。
「現場主義」を形作った最初の出来事は91年4月。当時、湾岸戦争後のイラク国内では、180万人のクルド人難民が発生していた。緒方さんは現地を視察して、このうち40万人がトルコとの国境に逃れたもののトルコに拒まれ、雪の山中で行き場を失っているのを目の当たりにした。それまでのUNHCRでは「国境の外に出て来た人」が「難民」で支援の対象だが、「国内避難民」は保護してこなかった。だがルールを曲げて、救援に踏み切った。これがその後の難民支援の転機となった。
「恐れを知らぬ人」グテレス国連事務総長
国際協力機構(JICA)理事長時代(03~12年)も、40カ国以上を訪問。アフガニスタンをはじめ紛争地の復興や、アフリカの開発支援に力を尽くした。緒方さんの死去を受け、国連のグテレス事務総長は29日、追悼の声明を発表し、「人道主義者で、世界中の模範となる人。恐れを知らぬ人だった。UNHCRに唯一無二の遺産と足跡を残した」とその功績をたたえた。女性初のUNHCRのトップとして「女性に対する暴力の影響だけでなく、その解決に女性が関与する必要性にも光を当てた先駆者だった」と振り返った。
■Voice
自国の利益ばかり追いかけて国を守れる時代ではない
「私をはじめ、UNHCRの組織が常に難民救援の最前線の現場にいたことが、私の最大の貢献」(2000年12月)
「日本に戻り、人々の思考が内向きになっていることに驚いた。その象徴的な例がアフリカへの関心の低さ。紛争、エイズなどアフリカで起きていることは世界の平和に関わるのに、日本人は理解していない」(2004年5月)
「東日本大震災で途上国からも支援が寄せられたのは、日本が途上国の支援を続けてきたから。援助とは、相手国のためだけにあるのではない」(2011年10月)
「(理事長を務めている)国際協力機構(JICA)で職員を募集すると、何千人もの若者の応募がある。国際社会で働きたいという若者の多さに、私は希望を持っています」(2011年10月)
※いずれも毎日新聞の取材に対する緒方さんの答えから抜粋した
■KEY WORDS
【国連難民高等弁務官】
難民の保護と援助に当たる国連機関「国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)」のトップを指す。UNHCRは1950年に設立、本部はスイス・ジュネーブ。重要な任務は、難民の権利を守り、迫害の恐れのある本国に強制送還されないよう難民を守ること。さらに、本国への自主帰還、受け入れ国での定住、第三国定住を目指して難民を支援すること。
【5・15事件】
1932年5月15日、海軍将校らが起したクーデター事件。将校らは首相官邸や警視庁、政党本部などを襲撃して、当時の首相、犬養毅を暗殺した。
【湾岸戦争】
イラクによるクウェート侵攻をきっかけに始まった。1991年1月、米国を中心とする多国籍軍がイラクへの攻撃を開始した。2月24日には地上戦に突入。多国籍軍はイラク軍を圧倒してクウェートを解放し、停戦となった。
【グテレス事務総長】
元ポルトガル首相。2017年1月1日に第9代国連事務総長に就任した。05年6月から15年12月にかけ、緒方さんと同じく国連難民高等弁務官を務めていた。