米中新冷戦 激化する攻防~産業スパイの実態

2019年のことし、アメリカと中国は国交正常化40周年を迎える。しかし、米中関係は今や「新冷戦」に突入したかのような様相を呈している。ワシントンでは去年10月、「重要戦略の発表」と銘打ったペンス副大統領の演説が大きな話題になった。

宣戦布告

「トランプ政権の対中国政策」と題した40分間の演説で、ペンス副大統領は経済、軍事、外交、宗教と、あらゆる側面で中国政府を痛烈に批判し続けた。
今、この演説は、21世紀の覇権をかけた「米中新冷戦」の開戦を告げる宣戦布告だったとも言われる。 ペンス副大統領は演説である言葉を使った。

『中国は21世紀の経済の“管制高地”を勝ち取ろうとしている』(ペンス副大統領)

“管制高地=Commanding Hights”は、軍事用語で「戦場を支配できる重要な要衝となる高地」を意味する。
『中国政府は“管制高地”にたつため、官僚とビジネス界に対し、必要ならいかなる手を使ってでも、アメリカ経済の原動力である知的財産を入手するよう指示を出した』

ペンス副大統領が“管制高地”と表現した重要な要衝。それこそが米中が争う「最先端技術=ハイテク」だ。中国との経済戦争に勝利するためには、この分野での優位性を絶対に奪われてはならない、ペンス副大統領はそう宣言したのだ。

中国政府はAI(人工知能)やロボット、そして5Gと呼ばれる次世代通信など10項目の分野で世界最高水準の技術を育成する国家戦略「中国製造2025」を打ち出している。
演説でペンス副大統領はこの戦略への強い警戒感をあらわにした。

『『中国共産党は「中国製造2025」を通して世界の最先端技術の90%を掌中に収めることを目標としている。中国の情報機関はアメリカの技術を盗み出す大規模な作戦を企ててきた』

“管制高地”は、社会主義国家ソビエトを建設したレーニンが国家として支配すべき重要な産業を表現するために使われたと言われている。冷戦時代を想起させるこの言葉にはアメリカの新たな脅威となった中国への対抗心と、ハイテク支配への強い危機感がにじみ出ていた。

中国の諜報員

ペンス副大統領の演説から5日後、ある男の身柄がベルギーからアメリカに移送された。男の名はシュ・ヤンジュン(Xu Yanjun)。

FBI=連邦捜査局の捜査により、産業スパイの罪で起訴されていた。

シュ被告は中国の情報機関、中国国家安全省の傘下の江蘇省国家安全庁の幹部とされている。国家機関の諜報員とみられているのだ。シュ被告の任務は「中国製造2025」の重要分野の1つ、航空宇宙産業の情報の入手。
起訴状によるとシュ被告は2017年、アメリカ有数の航空宇宙関連メーカー、GEアビエーションの技術者に接近。航空エンジンに関する講演を依頼し、中国の南京航空航天大学に招待した。
シュ被告はこの技術者に、講演料や宿泊費の名目で3500ドル(38万円)を渡して歓待し、技術者が帰国したあともメールや電話でやり取りを続けた。
そして徐々に情報を聞き出し、企業秘密にあたるエンジンの詳細な技術情報の提供を要求。情報を持ち運び可能なハードディスクか、USBにダウンロードして、出張先のベルギーで渡すよう持ちかけた。 去年4月、ベルギーに出向いたところで、FBIの依頼を受けた地元当局に逮捕された。

『逮捕はGEアビエーションの協力があってのものだった。われわれはGE側と連携することで、中国国家安全省の諜報員を中国国外におびきだすことに成功した。諜報員の身柄を確保するのは初めてで、この事件は非常に重要だ』

こう明かしたのは、事件を担当するアメリカ司法省のベンジャミン・グラスマン検事だ。

きっかけはGEアビエーションからの通報だった。自社の技術者の中国訪問を不審に思ったGE側がFBIに相談。FBIはGE側と連携してシュ被告と技術者のやり取りをすべて監視し、この間、シュ被告には企業秘密のように装った偽情報を送って信用させ、さらなる情報の提供を期待させることで、ベルギーにおびき寄せることに成功した。この事件は、一種の「Sting Operation=おとり捜査」だったとグラスマン検事は語る。

『GE側の速やかな通報のおかげで、企業秘密が中国に渡るのを防ぎ逮捕にこぎ着けた。産業スパイ事件の摘発には、企業との連携が欠かせない。特にハイテク分野ではどこからが企業秘密なのか、その区別を知るためにも企業の協力が必要で、連携の重要性は増している』(グラスマン検事)

シカゴの男

GE側の協力とともに捜査のカギを握ったのが、アップル社が提供するウェブ上のデータ保存サービス「iCloud」だった。
シュ被告は、iCloudのアカウントを持っていた。FBIが、iCloudに残されたデータを分析した結果、シュ被告が少なくとも2013年からアメリカの複数の航空宇宙関連企業に接触し、企業秘密を盗み出そうとしていたことが判明した。さらにSMS=ショートメッセージのやり取りの記録から別の中国人の存在も明らかになった。

シカゴ在住の27歳の中国人の男、ジ・チャオチュン(Ji Chaoqun)。2013年に留学生として渡米し、イリノイ工科大学で修士号を取得していた。
ジはシュ被告をはじめ、中国国家安全省の複数の諜報員と知り合いで、大学を卒業するまでの2年間、たびたび中国に帰国してはシュ被告と会っていた。
この間にシュ被告と交わしたショートメッセージの数は36。
そこにはシュ被告がジを利用して、アメリカにスパイ網を構築しようとした形跡が記されていた。シュ被告はアメリカ国内の先端企業で働く中国人や中国系アメリカ人の経歴や連絡先を調査するよう指示。
これを受けてジは実際にアメリカの調査会社から8人の個人情報を買い、報告していた。FBIはジが中国国家安全省からの指示のもとでスパイ活動をしていたと断定。逮捕、起訴に踏み切った。

シュ被告をベルギーで逮捕してから5か月後のことだ。

シュ被告とジ被告はアメリカの企業や組織で最先端技術の秘密情報を扱う中国系の技術者をスパイにリクルートするため、候補者を調査していたと見られている。

氷山の一角

『この事件は氷山の一角にすぎない。中国は国家ぐるみで犯行に及んでいる』

グラスマン検事は、中国国家安全省がジ被告のような民間人を利用した産業スパイ活動を活発化させていると懸念を強めている。そしてこの流れを作り出したのが、中国で2017年に施行された「中国国家情報法」の存在だとみている。

この新たな法律には、中国の市民と組織に国家の情報活動への協力を義務づける内容が明記されている。さらに中国では習近平体制下で「反スパイ法」や「国家安全法」が施行され、中国国家安全省の権限が強まっている。

シュ被告が拘束される留置所(ミシガン州)

その組織に属するシュ被告の要求を、民間人であるジ被告は断れなかったのではないか。アメリカには第2、第3のジ被告がいてもおかしくない。グラスマン検事はそう考えている。

もう一つの事件

シュ被告の身柄移送から1か月後の去年11月、アメリカ司法省はシュ被告が所属する江蘇省国家安全庁の2人を含む、10人の中国人を起訴したと発表した。

これまでの調べによると、江蘇省国家安全庁はハッカー集団と連携しサイバー攻撃によってアメリカの企業秘密を盗み出そうと画策。標的は「ターボファン・エンジン」の企業秘密。
シュ被告の事件と同様、航空宇宙関連の企業だった。

江蘇省国家安全庁は、中国国家安全省の関係組織のなかで航空宇宙関連の企業秘密を集める任務を背負っているのか?

この質問に関しては、グラスマン検事は「現時点ではよくわからない」と述べるにとどめ、シュ被告の事件とハッカーの事件との関連についても明らかにしなかった。

ハッカー事件で起訴された10人は中国にいるため逮捕できない。どこまで実態を解明できるのか。アメリカが初めてその身柄を押さえた中国の政府機関の諜報員、シュ被告の捜査の行方に注目が集まっている。

「チャイナ・イニシアチブ」

去年11月1日、アメリカ司法省は中国の産業スパイの取り締まりを強化するため、FBIと合同の対策チームを創設すると発表した。
チームは「チャイナ・イニシアチブ」と呼ばれている。

FBIのレイ長官は「産業スパイ事件は近年、2倍に増えている。その多くが中国だ。全米50州すべての州で中国による産業スパイ事件の捜査を進めている」と語った。

NHKの調べでは、トランプ政権発足後の2年間で中国に関連する産業スパイなどの事件で摘発された中国人やアメリカ人は、少なくとも37人に上っている。そして、中国の市民と組織に国家の情報活動への協力を義務づけた「中国国家情報法」を受けて、アメリカの捜査当局の疑いの目はアメリカ国内の大学や研究機関に所属する中国人にも向けられている。

アメリカ国務省は去年6月、航空やロボットなどの最先端技術を専攻する中国人の大学院生に発行するビザの有効期間を5年から1年に大幅に短縮した。
大学の研究秘密や知的財産を盗む、いわゆる「学術スパイ」を封じ込めるねらいがあると見られている。

ある教授の死

中国の産業スパイの摘発が強化されるなか、去年12月、アメリカの名門スタンフォード大学の著名な中国人教授が、みずから命を絶った。

張首晟教授、55歳。
中国の上海出身で、ノーベル物理学賞の候補とも目されていた。

張教授が自殺した同じ日、トランプ大統領がG20サミットの開催地、アルゼンチンで習近平国家主席とおよそ1年ぶりに会談し、米中貿易戦争の“一時休戦”で合意した。
この日、カナダでは中国の通信機器大手「ファーウェイ」の孟晩舟副会長が逮捕されている。

米中関係を揺るがす2つの大きなニュースのはざまで、張教授の死は大きく報じられることはなかった。しかし、この知らせは、米中両政府の関係者に大きな衝撃を与えた。

張教授の投資会社「DHVC」

張教授は量子物理学の第一人者として知られる一方、シリコンバレーで最先端技術に資金を投じる投資会社「DHVC」を立ち上げていた。
トランプ政権は、この投資会社が中国政府によるシリコンバレーでの最先端技術の取得に大きな役割を果たしている可能性があると警戒の目を向けていた。

12月1日の米中首脳会談の10日前に発表されたUSTR=アメリカ通商代表部の「技術移転、知的財産、技術革新に関する中国の行動と政策」と題する報告書で、懸念すべき企業として明記されたなかの1つに張教授の投資会社「DHVC」の名があった。

「DHVC」はアメリカのAIやバイオテクノロジー関係の企業113社に投資。その元手となる豊富な資金の一部は中国政府から出ていたと見られている。2013年に行われた「DHVC」の記念式典には北京市長が出席するなど北京市の支援を受け、中国共産党とも深い関係にあるとされている。
USTRは中国政府が「DHVC」などの民間の投資会社を使って最先端技術に資金を投じることで、技術そのものを中国に移転していると警鐘を鳴らしている。

張教授の家族は張教授がうつ病に苦しんでいたと明かしている。
だが、トランプ政権から疑いの目を向けられ悩んでいたのではないかという臆測も出ている。

張教授の死後、私はシリコンバレーの「DHVC」を訪ねてみた。応対してくれたアジア系の女性社員は『教授の突然の死にみな驚き悲しんでいます』と話したが、米中関係の質問などの取材には応じなかった。

5人に1人

アメリカでは産業スパイと疑われて逮捕されながら、その後、証拠不十分で釈放された中国系アメリカ人が少なくない。

核兵器の研究施設、ロスアラモス研究所のウェンホー・リー氏。
アメリカ海洋大気局のシェリー・チェン氏。
テンプル大学の物理学者、シャオシン・シー氏。

アメリカの司法当局はいずれのケースもスパイとして立証できず、謝罪に追い込まれている。中国系アメリカ人の団体「百人会」は2017年に「中国スパイの訴追・産業スパイ活動の分析」という報告書を公表した。

百人会の報告書

報告書は「産業スパイの疑いで訴追された中国系などアジア系の人々の22%がスパイの罪では有罪にならなかった」として、5人に1人が無罪の可能性が高いと結論づけた。
そして第二次世界大戦中、罪のない大勢の日系アメリカ人たちが強制的に収容所に送られた負の歴史に触れ、「肌の色で捜査すべきではない」と司法当局の姿勢を批判している。

スパイの摘発が強化されるなか、アメリカに暮らす中国人や中国系アメリカ人の人権が侵害されるおそれはないのか。
中国による産業スパイ事件を捜査するベンジャミン検事はこう強調する。

『われわれの任務はあくまでも法律に違反した人たちを摘発することだ。法律に違反していないのに中国人だからといって逮捕されたり人権が侵害されたりすることがあっては決してならない』

米中新冷戦とも言われるなか、両国の対立がさらに激しさを増していった時、本当にそう断言できるのか。検事の答えを聞きながら、私の頭のなかには拭えない疑問が残った。

山田裕規

ワシントン支局長

油井秀樹