平成4年(1992)
野村監督率いるヤクルトが、阪神と最後まで混戦となりましたが、岡林・古田選手のバッテリーに、MVPを獲得したハウエルをはじめ、高津・池山・飯田・広沢選手などの活躍によって14年ぶりの優勝を果たしました 。神宮球場を本拠地として30年、2度目の優勝でした。
第1戦は、延長12回裏に杉浦選手の日本シリーズ史上初となる代打サヨナラ満塁本塁打でヤクルトが劇的勝利をおさめましたが、第2戦は、荒木投手が6回表に清原選手に本塁打を打たれ、対戦成績を1勝1敗としました。舞台を西武球場に移した第3・4戦は石井一・岡林投手で連敗するも第5戦は、延長10回池山選手の決勝本塁打で西武の日本一を阻止し、神宮に戻りました。第6戦は、またも延長10回、秦選手のサヨナラ本塁打で3勝3敗としましたが、第7戦、延長10回ついに西武に勝ち越され、西武の優勝が決まりました。
全7試合中4試合が延長戦という歴史に残る名シリーズは、幕を閉じました。第7戦で先発した岡林投手は、シリーズ3試合に完投、合計430球の熱投でした。
平成5年(1993)
人工芝は、神宮球場と同様の透水性でした。夏場の高温を緩和するため、内外野守備位置に通風管を38本埋没、選手が快適にプレーできるように工夫しました。
古田・広沢克・ハウエル・池山選手と並ぶ強力打線にストッパー高津投手の活躍でヤクルトが2年連続セ・リーグを制しました。
11月1日、昨年の屈辱を見事に晴らして、ヤクルトが昭和53年以来の15年ぶり2度目の日本一に輝きました。野村監督が、選手時代から監督時代まで日本シリーズ20連勝だった西武・森監督を破り宙に舞いました。MVPは、川崎投手が選ばれました。
観客46,000人を集め、UWFインター東京大会が開催されました。
平成7年(1995)
本体は、縦14m、横29m 高輝度放電管を使用、中央のカラービジョンは縦6.34m 横12.04m、多色型高輝度放電管を使用し、見やすさと表示機能の充実を実現しました。イニング数を9回から10回にし、DH制に対応するため選手名ボードも9枠から10枠に増やしました。また、球場内に3台のカメラを常設して、リプレーやスタンド風景を動画表示しました。3月28日にはスコアボード両側に広告塔2基を新設しました。
エンタイトルツーベース防止のため、外野フェンスに高さ1.5mの金網フェンスを設置しました。これによりスリリングな試合が増えました。
ユニフォーム姿の東京六大学各主将が植樹し、さらなる繁栄を祈願しました。
9月30日 ヤクルトスワローズ、4度目のセ・リーグ優勝
5戦目の26日、ヤクルトは本拠地ファンの前でオリックスを4勝1敗で破り、2年ぶり3度目の日本一に輝きました。オリックスのイチロー選手が登場するとあって、神宮球場はファンの声援で湧きかえりました。なお、初めて外野を含む全席指定を採用しました。
六大学野球史上初めての交流試合でした。試合前の練習では、巨人・長嶋茂雄監督(立大OB)、中日・星野仙一監督(明大OB)らが後輩を指導し、試合でもOB選抜が勝ちました。
平成8年(1996)
昭和51年(1976年)の神宮球場竣功50年記念試合以来、20年ぶり通算4回目の記念試合は、東京六大学選抜の投打がかみ合い、井口選手(青学大)の神宮通算32号で東都大学選抜が一矢報いたものの東京六大学選抜が快勝しました。
11月14日 東都大学野球連盟結成65周年記念試合 東都大学選抜 2-1 プロOB選抜
平成9年(1997)
9月28日 ヤクルトスワローズ2年ぶり5度目のセ・リーグ優勝
平成13年(2001)
野村監督より引き継いで3年目、『小さな大打者』と呼ばれた若松監督率いる新生ヤクルトが4年ぶりに悲願のリーグ優勝を成し遂げました。
MVPを獲得した古田選手の活躍もあり、梨田監督率いるローズ・中村選手のいてまえ打線を封じ、4年ぶり5度目の日本一となりました。『ファンの皆さま日本一おめでとうございます』若松監督のお約束名言で神宮球場は大きな笑い声に包まれました。
11月11日 東都大学連盟創立70周年記念プロアマ交流試合 東都大学選抜 6-4 プロ野球東都大学OB選抜