香港ガリ勉眼鏡っ娘ゲーマー第22回!研究でオタクたちの赤裸々な語りを静かに聞く亮ちゃん

美少女ゲームユーザーの「生の声」を生々しく紹介!

香港ガリ勉眼鏡っ娘ゲーマー第22回!研究でオタクたちの赤裸々な語りを静かに聞く亮ちゃん
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先週の第21回「香港ガリ勉眼鏡っ娘ゲーマー」では、オタク系コンテンツを愛する「オタク」から、オタクそのものを研究する「オタクのオタク」に変身する歐陽が著した30万字の“オタク論文”こと「日本の美少女ゲームの文化消費研究 ―香港をレファレンスとして―」(東京大学大学院修士学位論文)を紹介し、ひとつの物語になっている全8章構成の論文の序章から第二章まで簡単に述べた。論文の執筆においては、美少女ゲームユーザーに対する大規模な社会調査を実施している(詳しくは前回を参照)。今回はその物語の続きを伝えていきたい。

研究の目的を明らかにする序章では査読者である教授たちに、美少女ゲームについて初歩的な印象を把握してもらうために、5ページにわたって12タイトルを画像付きで紹介した。次に先行研究を検討する第一章ではこれまでのオタク研究全般をぶった斬り、さらにメディアとしての美少女ゲームを解説する第二章では「美少女ゲーム」の詳細な定義付けやメディア特性をはじめ、数万字を費やして美少女ゲームの歴史を述べた。冒頭から色々な意味でインパクトが非常に強い論文だった。
(※なお、ここでは「メディア」=美少女ゲームが「オーディエンス」=美少女ゲームユーザーの消費対象という意味で、「マスメディア」に言及する場合は「メディア」ではなく「マスメディア」あるいは「マスコミ」の語を用いる)

側面から見た私の論文。紙の厚さからボリュームが分かる。
「抜き」「前期・後期泣き」「萌え」の指標と時間軸から主要タイトルの位置関係を図解した力作をぜひ見てほしい。

美少女ゲームの歴史を大まかに4つの時期に整理する過程で、エロ重視の「抜き」、シナリオ重視の「泣き」、要素重視の「萌え」という、相互に重なりながらも方向性が明らかに異なる3つの指標を見出した。そしてこれらは歴史の流れにもなっている。80年代の美少女ゲームの第1期は「抜き」中心、90年代前半の第2期は「純愛」と「鬼畜」の二大系統がそれぞれ確立しながら恋愛関係そのものに焦点を当てる「前期泣き」が頭角を現し、90年代後半から2000年代初頭の第3期は恋愛だけではなく感動性や文学性・芸術性、哲学性・テーマ性に主眼を置く「後期泣き」に発展し、2002年からの第4期はキャラクターや物語を構成する記号的要素を一義的に重視する「萌え」の時代になった。

第二章の最後に、時間軸と、「抜き」「泣き」「萌え」の3つの指標から主要タイトルの位置関係を再構成し、美少女ゲームの歴史を図解した(下図を参照)。図の右端には各指標の発展の度合い、つまり三者の相対的な力関係を示している。本来ならより高度なツールを用いて3次元の立体的な図で表現すべき構造を、Microsoft Wordを使って平面図で表している。その「ミッション・インポッシブル」的な努力を評価してほしいくらいだ。相当興味深い図解になっているという自信があるので、ぜひ画面を大きくして細かく鑑賞してほしい(画像を右クリックして保存すれば、拡大して見ることができるよ)。

美少女ゲーム史の図解(60ページ)。ある意味、私の美少女ゲーム研究の集大成である。その中にあなたが気になるタイトルもあるかも?
「場」の参与者たちは「文化的正統性」という共通の目標を獲得するために闘争する。その根底にあるのは「正しい生活様式」の獲得=卓越化の欲望である。

この「抜き」「泣き」「萌え」の3大指標と共に、前回(第一章)で紹介した「場」は、私の論文の根本となす概念だ。「場」は社会学者ピエール・ブルデューが提起した概念で、あるメディアを対象にして相対的に独立の価値観や美意識によって成り立つ、社会空間に対して一定の自立性を持った文化的圏域である。「場」は単なる趣味の世界ではなく、日常生活における他者との差異化を繰り返すプロセスの中で、「上昇志向」(卓越化)を目指す領域でもある。

歐陽の前に、日本で場の概念を文化消費の分析に用いた代表例として、南田勝也によるロック音楽の研究がある。私の論文も、南田が発展させた場の理論を重要な概念装置として導入している。南田によると、「ロック場」(ロック音楽の「場」)の参与者たちが「文化にとって正しいやり方、正しいあり方、正しい血統」、つまり「文化的正統性」という共通の目標を持ち、その目標を獲得するために結束したり闘争したりする。ロック場には、音楽に情熱を求める「アウトサイド」の指標と、平凡な日常からの脱出口の役割を求める「アート」の指標、ロックの娯楽性を一義的に重視する「エンターテイメント」の指標が存在し、それぞれ違う文化資本(知識や教養)と経済資本を要求するという。

論文の7ページ目。「WHITE ALBUM」DiaboLiQuE」「THE QUEEN OF HEART」(全て1998年)の紹介。

文化的正統性をめぐる「象徴闘争」の根底にあるのは「正しい生活様式」の獲得=卓越化の欲望だが、ロック場においては社会的に存立しているヒエラルヒーと逆に向かうことがむしろ卓越化に繋がる。ブルデューが提起した主流文化における単純な上昇志向に対し、このような社会的下層を志向する卓越化は「逆上昇志向」と言えるのだ。

ここまで述べた「場」と「象徴闘争」、そして「抜き」「泣き」「萌え」は、本研究における重要概念であることを覚えておいてほしい。これらは続く第三章から何度も登場することとなる。

美少女ゲームユーザーは性的逸脱者と市民社会からの逸脱者、そして幼稚な人たちといったレッテルを外集団によって貼られている。

メディアとしての美少女ゲーム(形式・内容の歴史的文脈)を分析した第二章に対して、第三章では社会における美少女ゲームの現状(社会的文脈)を顧みる。まず簡単にその社会的なイメージを検討するが、マスメディアの報道や聞き取り調査によると、美少女ゲームユーザーが性的逸脱者と市民社会からの逸脱者、そして幼稚な人たちといったレッテルを貼られており、美少女ゲームもそのような「異常」な者たちの活動を促進する反社会的なメディアだという構築をされている。メディア(美少女ゲーム)とオーディエンス(美少女ゲームユーザー)に向けられる意見は一貫して否定的である。

論文の8ページ目。「聖魔大戦」(2000年)、「君が望む永遠」(2001年)の紹介。

ところが、「美少女ゲーム場」の中では違う風景が見えてくる。一般的な意見とは異なり、場の参与者たちはメディアとオーディエンスを区別した上で、それぞれに対して全く異なる意見を持っているのだ。メディア(美少女ゲーム)に対しては「感情体験とインタクティブ性」「各種メディアを複合させる包容力」「完成度の高い『お話』の媒体」「高度な表現の自由」など、複数の側面において高い評価をしている。
     

美少女ゲームはユーザーに幸福や使命感を与え、その人生を変えた。

質問紙調査および聞き取り調査で得られた代表的な発言、つまり「生の声」をいくつか紹介しよう。なお、コラムの長さの制限でごく少数の実例しか紹介できないが、実際の研究では大量の例があり、論文の中でも多くの実例を紹介しているので、決して恣意的に一部の偏った意見を抽出したわけではないことをあらかじめ理解してほしい。論文とゲームサイトのコラムとでは表現できる内容の深さが全く異なるのだ。

【感情体験とインタクティブ性】
「幸福や使命感を与えてくれた。人生を変えた。それに尽きるだろう」(20代男性)
「超越的・根源的な存在との繋がり(永遠)」(30代男性)
「物語を自分で決めていくゲームブック的な面白さと、それから単純に話の面白さを感じた。(……)ユーザーはやや能動的に物語に没入するし、感情移入ができる」(20代男性)

【各種メディアを複合させる包容力】
「美少女ゲームの醍醐味は単にHな気分を満喫するためではなく、笑い・感動・音楽・絵の質・萌え分等の要素を兼ね備えた物にある」(20代男性)
「(自分の好きなゲーム「二重影」について)絵柄、衒学的なシナリオ、山田風太郎テイスト、トランステクノ系音楽など、ごく個人的な趣味嗜好と見事にマッチした」(20代男性)

【完成度の高い「お話」の媒体】
『Kanon』などのシナリオに非常に驚きました。(……)『笑い』や『感動』のようなものを求める様な形で『お話』として楽しめる」(20代男性)

「二重影」(ケロQ、2000年)のイベントCG(画像は公式サイトより)

【高度な表現の自由】
「(美少女ゲームを評価する理由として)十八禁でないメディアが本質的に持つ(特に恋愛描写に関する)不自然さがない(……)『奇麗事が無視できるが故の現実描写の鋭さ』っていう要件もある」(30代男性)

【業界としての特殊性・優越性】
「美少女ゲームにおいてはダイレクトにユーザーの意見が作品に反映される」(30代男性)
「美少女ゲーム特有の『尖った』表現(制作者のこだわりなど)が好きです」(20代男性)

「美少女ゲームには古典文芸に匹敵する優れた作品がある」

【結論:他のメディアとの比較】
「映画を見るよりもずっと感動する」(10代男性)
「古典文芸に匹敵する優れた作品がある」(30代男性)
「今まで読んだ小説などよりも大変面白い」(10代男性)
「コンシューマよりもいいシナリオライターがそろってる。(……)『YU-NO』や『鬼畜王ランス』みたいに、一般ゲームが勝てないシステムのゲームもある。(……)コンシューマにここまでのゲームはない」(30代男性)
「同じエロでも、アダルトビデオやエロアニメとは基本的に別物。(……)『鬼畜王ランス』とか『YU-NO』をやってみたら、シナリオの質の高さに驚いた」(30代男性)

「鬼畜王ランス」(アリスソフト、1996年)のメインビジュアル

このような高い評価から、メディアの存続に関する憂慮も全般的に見られた。例えばこんなコメントが。

「近頃はこういう趣味の持主が排斥される傾向があります。夢にまで見ますよ、未来に『オタク』を排斥する法律ができちゃって、FBIみたいな人がうちに来る夢が」(20代男性)
「公権力や圧力団体などによる力ずくの排除があれば、その人物や組織をうらむ」(20代男性)
「(美少女ゲームがなくなったら)偉大な価値の消失に戸惑う」(20代男性)
「(美少女ゲームがなくなったら)文学としての良作が読めなくなるのはとても悲しい」(10代男性)

「美少女ゲームユーザーは一部例外を除いて、すべからくキモくイタい」

しかしこの物語は「一辺倒の高評価」という単純なものでは終わらなかった。メディアへの肯定とは対照的に、内集団(場の参与者=ユーザー)による美少女ゲームのオーディエンスへの否定が一般的なものとなっている。世間で言われる美少女ゲームユーザーと犯罪の関連性を否定し、ラベリング(レッテル貼り)をする「マスコミ」を批判する発言が多いながらも、明らかな自虐性と他のユーザーに対する低評価、そして「マナー」の語りが多く見られた。

【自虐的な美少女ゲームユーザー】
「やらない人の方がいいと思いますけど。やっぱり後ろめたさがあります。エロ原画を描いたら、もう(親などに)顔向けができない」(20代男性。同人クリエイター)
「(美少女ゲームをプレイする自分は)駄目人間」(10代男性)
「(美少女ゲームユーザーは)一部例外を除いて、すべからくキモくイタい。かわいそうではあるが、自分も大同小異なので批判はできない」(10代男性)

美少女ゲームにおける「キモイ」オタクの例その一、「同級生2」(エルフ、1995年)の長岡芳樹

【他のユーザーとの差異化】
「(自分と違って)一般の美少女ゲームをやってる人は『オタク』丸出しの感じで気持ち悪い」(20代男性)
「『オタク』である自分も(……)キモイと思います。(……)でも自己批判ができるだけマシだと思いますよ」(20代男性)

【「マナー」の語り】
「大人数の前で美少女ゲームを話題にする人がキモイ」(10代男性)
「人の迷惑を考えず、他人に押し付ける人が痛いしキモい」(20代男性)
「熱心に非オタにこのゲームは実にいいんだと力説(いわゆる布教)しているところを見たときは『キモイ、死ね』と思った」(20代男性)
        

同じ人たちがユーザーを猛批判する一方、美少女ゲームを「偉大な価値」「知的で高尚な楽しみ」と称えている。

興味深いのは、ここで同じ人たちがユーザーを猛批判する一方、美少女ゲームを「偉大な価値」と称えたり「テーマ性や哲学性などの難解さを誇る知的で高尚な楽しみ」と高く評価したりしている。本来なら優れた作品を愛する仲間であるはずの他のユーザーに対する「キモイ」「イタイ」の語りが多く、自分たちによる他者へのラベリングには常に「キモさ」「イタさ」の度合いが自分より高いユーザーが存在するという暗示が含まれている。結局、外集団=「一般人」によるネガティブな価値付けに則った「キモさ」「イタさ」を判断する究極の基準が「美少女ゲームユーザーであること」なので、このような発言は「気持ち悪い自分」を承認しながらバッシングを行い、すでに自分に貼られたレッテルを、少しでも他人に押し付けようとしているだけである。

美少女ゲームにおける「キモイ」オタクの例その二、「下級生2」(エルフ、2004年)の中の、ナースの制服を持って女性キャラに着替えて写真を撮らせろと迫る変態

つまり、「美少女ゲーム場」に参与したという事実そのものだけで無条件で「一般人に劣る気持ち悪い人」になるのだから、場の中でメディア(肯定)とオーディエンス(否定)が断絶されて場の論理にねじれが生じたのだ。自律した価値観や美意識を持ちながら、場の内部の力学は社会的権力関係によって撹乱されている(この点は後述する香港との比較でより明確に見ることができる)。

美少女ゲーム場に参加した以上、自動的に外集団より「キモイ」「イタイ」人となり、「オタク階級」に属することとなる。

ここで私は一気に壮大な哲学へと論を発展させる。美少女ゲームユーザーという「オタク階級」の成立を提起したのだ。詳しい理論的構築は省くが、美少女ゲーム場の参与者は、自分に向けられる否定的視線を認識するだけでなく、それを支える社会的権力関係を把握しており、またその権力関係を自ら維持しているのだ。例えば、マスコミに出たり「一般人」に美少女ゲームの良さを説明したりする人、つまりメディアとそのオーディエンスを否定するヘゲモニー(社会的覇権)に少しでも挑戦しようとする者は、「一般人」よりむしろ「オタク」自身によるバッシングに遭遇してしまい、厳しい現実に直面している。

私はそこで美少女ゲームユーザーの「階級意識」を見出した。階級論という巨大な学問を簡単に検討した上で、私は本稿における「階級」を「一つの層として外集団から序列化され、また成員もこの対外的な階層的序列化を意識している、利害を共有している集団」と限定的に定義する(ちなみに通常、「階級」を論ずる際に重視するのは労働、つまり生産や所有をめぐる支配や疎外である)。現在の権力関係においては美少女ゲーム場に参加した以上、自動的に外集団より「キモイ」「イタイ」人となり、すなわち「オタク階級」に属することとなる。これは本人の個人的主張とはいかなる関係も存在しない。

労働に基づく伝統的な「階級」のイメージ。「オタク階級」はそれとはちょっと違うものである。(画像は「Ladykiller in a Bind」より)
「現実に権力を持つ、持たないという真の差異」は当事者の「階級意識」を形成し、従来の階級を縦断した「オタク階級」を具現化した。

圧倒的なヘゲモニーに対して個人的に抵抗しているつもりであっても、現在の権力関係では場の参与者は主流文化に抵抗し得ない。このように、美少女ゲーム場において、「現実に権力を持つ、持たないという真の差異」(社会学者フレデリック・ポロックの言葉)が明確に認められ、それが当事者の「階級意識」を形成し、従来の階級を縦断した「オタク階級」を具現化したのだ。

このように長い第三章を終えて、第四章は「美少女ゲーム文化」が成り立つ根拠を説明する。この章は、コラムでは軽く紹介するに止まりたい。というのも、第三章で美少女ゲーム場の参与者たちの社会認識と自己認識を検討し、第五章ではそれに続いて、その背景の元で展開する文化的正統性をめぐる闘争を素描するので、第四章は両者を架橋する補足的説明に過ぎないからだ。

文化的正統性の主張は、すなわち場の関与対象に対する信仰の現れであり、象徴闘争が成り立つ基礎である。場が形成されるのにその関与対象(美少女ゲーム)に関わる人々が、関与対象の文化的正統性をめぐって主張することが必要だが、まずそのような相互行為が可能となる環境がなければならない。第二章で検討したように、美少女ゲームの消費自体が排他的・自閉的行為である以上、人々の相互行為によって形成される「美少女ゲーム文化」は存在し得ないかのように見える。しかし、血縁や地縁といった従来の繋がりとは別に、現代には趣味や情報を介して創られた自由意志の「選択縁」という社会的紐帯が存在し、時間や空間といった制約を解除するCMC(Computer-mediated communication=コンピューター・ネットワークを介したコミュニケーション)がその手助けをしている。

CMCが行われた場所のひとつ、個人の美少女ゲームユーザーが運営するファンサイト(画像は歐陽が多くの「同志」たちと出会った「NEWゲームの部屋」
美少女ゲーム文化は対外閉鎖的・対内積極的な特徴を持つ。

ただし、ユーザーになってからは選択縁が重要になる一方、美少女ゲームへの最初の接触は地縁か血縁によるものが一般的だ。美少女ゲームに接触したきっかけについて「学校」や「クラスメイト」、「友人」と答えたり、「兄にやらされた」と告白したりするインフォーマント(調査対象者)が多いのだ。さらに作品への「読み」も最初のガイド役の人からの影響を受けやすく、読みの集団的形成が見られた。これは次の章の「抜き」「泣き」「萌え」(3種類の読み)にも繋がる。

要するにCMCを活かした選択縁に血縁・地縁が加えて「美少女ゲーム文化」が成立するわけだ。この文化は対外閉鎖的・対内積極的な特徴を持つ。外に対しては社会関係資本(良好な人間関係など)の喪失に対する危惧が働いて人々を閉鎖的にさせ、中に対しては美少女ゲームへの高い評価から積極的な相互行為を求める人が多い。「(美少女ゲームユーザーは)普段は暗いけど、趣味の仲間の間では明るい」(20代男性)のような、明るさと暗さの共存を示唆する発言もある。

男子校には美少女ゲームへの寛容な雰囲気がある。

ここでひとつだけ特筆したいのは「男子校」の役割だ。男子校出身の人たちは皆、男子校における美少女ゲームへの寛容な雰囲気を話しており、男子校における局所的様相が「オタクの揺りかご」になっている可能性があるのだ。これは後述の香港社会全体の状況にかなり似ている。

男子校の様相を描く「グリーングリーン」(GROOVER、2001年)。画像はOVERDRIVEが2013年に発売したリメイク版のもの(画像は公式ブログより)
「抜き」「泣き」「萌え」というそれぞれの指標に向けられる批判は、人格に対する攻撃となっている。

そして肝心の第五章「文化的正統性の争い」がやってくる。前記のように、美少女ゲーム場には「抜き」と「泣き」、「萌え」という3つの指標が存在し、場では卓越化をかけた「文化的正統性」をめぐる象徴闘争が発生すると述べた。私の社会調査を通じて、明確な「派閥」の存在、そして互いに対する闘争が一般に見られた。美少女ゲーム場で興味深いのは、参与者の間の闘争が第三章で紹介した社会認識と自己認識の文脈において行われ、それぞれの指標に向けられる批判は、趣味の領域を大きく逸脱して「人格に対する攻撃」であるということだ。

​まずはゲームテクスト(コンテンツ)をポルノとする指標、「抜き」の派閥。「抜き派」の基本的な主張は、人間の「本能」、とりわけポルノを求める男性性の肯定に基づいており、その反面、「泣き派」と「萌え派」が異常であるというもの。美少女ゲームが「性的欲求のはけ口として存在」し、ゲームに「性欲の解放」を求める20代男性や、美少女ゲームをプレイする原動力が「リビドー」であり、「巨乳のグラフィックの魅力に惹かれる」と話す30代男性のようなインフォーマントは相当数存在する。

彼らは「現実」と「非現実」の区別から自らの社会性を主張する傾向にある。例えば、「泣き派」を「極左」、「キャラクター萌え」を「エロ軽視」、両者を「妄想」と批判したりする。一方、自分たちは「一般社会常識のある人間」であり、「陵辱・輪姦・調教・痴漢」といった好きな鬼畜系コンテンツをあくまで「非現実」であると理解し、「現実」と峻別するので、両者を混同する「泣き派」「萌え派」とは違うと話す「抜き派」の人たちが多い。ちなみに「抜きゲー」の有名ブランド「Studio Mebius」が「泣きゲー」タイトル「SNOW」を発表したことに対して、激しい反発があったことは記憶に新しい。

大きな波紋を呼んだStudio Mebiusの「SNOW」(2003年)で私が一番好きなキャラ、日和川旭(画像は公式サイトより)
「抜きゲー=美少女ゲームなら、確かに『美少女ゲームユーザーが犯罪者予備軍』と言われてもおかしくないが」

一方、「抜き派」は「愛情」の不在と犯罪との関係から、他の派閥から批判されている。例えば、ある「萌え派」ユーザーはこう話した。

「昔の経験ですけど、抜いた後、虚しい感じがするんですよね。萌えを知ってからは、終わったらむしろ充足感に満ちます。(……)萌えれないキャラで抜くのは浅ましいですよ。萌えたキャラとするときは、連帯感があって、本当に幸せな感じになります。これはただのエロではなく萌えですよ」(20代男性)

「泣き派」からはこんな声が。

「陵辱は最悪です。純愛ものなら愛情表現としていいと思いますけど、『Kanon』みたいな」(20代男性)

そして「抜き派」は両者から犯罪との関係性が指摘される。一例だけ挙げておこう。

「(美少女ゲームユーザーが犯罪者予備軍という意見に対して)抜きゲー=美少女ゲーム、ならたしかにそういわれてもおかしくないが」(20代男性)

鬼畜系ゲームの名作、「臭作」(エルフ、1998年)の主人公である伊頭臭作

次は「泣き派」の話になる。これは研究当時、非常に勢力を持った派閥だった。彼らの自己認識として、人間的愛情の持ち主という自己肯定のアプローチがある。例えば、美少女ゲームで感動することは、「心がキレイ」(10代男性)、「人が愛せる」(20代男性)ことの証だとされている。「泣きゲー」として有名な「CLANNAD」(Key、2004年)について、本作を批判する人が「人間的に負けてる」という発言も存在する。そして「自分のようなエロを度外視してプレイする美少女ゲームユーザーが多数存在する」(10代男性)、「低レベルの萌えの量産が目立つ」(10代男性)のように、「泣き派」による「抜き」と「萌え」への拒絶が多く、両者との差別化が図られている。
        

「ゲームで泣くとは信じられない。現実に比べれば泣くほどのものではない」「現実に目を向けるべき」

しかし、「泣き派」は「現実を見ろ」と別の派閥から批判されることも多い。例えばこんな発言がある。

「ゲームで泣くとは信じられない。たしかに『泣きゲー』と呼ばれているジャンルの話は大体感動的なものになっているが、現実に比べれば泣くほどの物ではないと思う」(20代男性)
「泣ける要素もあるでしょうけど、ほかの見聞をあまり体験していない人たちなのかなぁと」(30代女性)

「泣き派」の消費様式を「現実逃避」と見なした上で、「かなり引く」(20代男性)や「病気」(10代男性)、「現実に目を向けるべき」(30代男性)といった批判が噴出した。

「泣きゲー」の代表例のひとつとされる「CLANNAD」の最強ボケ役、春原“それと便座カバー”陽平

最後は「萌え」という新興トレンドに夢中な「萌え派」だ。と続きたいところだが、今回はすでに相当長くなったので、「萌え派」については来週紹介する。彼らの自己主張が「抜き派」「泣き派」と比べてもかなり強烈なものであることだけ予告しておこう。

そして3つの派閥による文化的正統性の象徴闘争のまとめ、香港との比較、最終的な結論と、この物語の終わりまでお届けする。それでは、また来週!


第1回~第21回のバックナンバーはこちら!
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