日本では、患者の隔離や断種を規定した「らい予防法」が長らく患者の自由や尊厳を奪い、差別や偏見を作り出してきた。治療法が確立された後も、この法律は放置され、患者を苦しめた。彼らは国に対し賠償を求めて立ち上がり、2001年、熊本地裁で「らい予防法」の違憲性を認める判決が下された。

 判決を受けて、国側には「控訴が当然」という雰囲気があった。しかし結果として、国は控訴しない道を選んだ。

 シリーズ第2回は、控訴断念の決定の裏にあった政治家の決断を見ていく。

2001年5月、勝訴の判決を喜ぶ原告の千龍夫さん/熊本(写真:読売新聞/アフロ)
2001年5月、勝訴の判決を喜ぶ原告の千龍夫さん/熊本(写真:読売新聞/アフロ)

厚労省、法務省内には「控訴して当然」の雰囲気

 一審の熊本地裁で勝訴判決を勝ち取った原告に、次の大きな山が待っていた。被告の国側が控訴するかどうか。熊本、東京、岡山での訴訟の原告団は779人、さらに全国の療養所には約4450人の入所者らがいる。その人たちの人権を早急に救済するには、熊本地裁判決を確定させる必要があった。

 一方、国側は「国会の不作為」による賠償を認める判決を確定させると、今後の国会活動に支障が出かねず、また原告団の数が増えることで賠償金が膨れあがる懸念もあった。国民、政治家の間には原告たちへの同情から控訴断念すべしという考えが強かったが、厚生労働省、法務省の官僚たちには「控訴して当然」という雰囲気があった。

 判決が出たのが2001年5月11日、控訴期限が同月25日。14日間のあいだ政府内で懊悩していたのが、連立政権の公明党から厚生労働大臣に就任していた坂口力だ。坂口は当時の省内の雰囲気をこう語る。

 「判決が出るまでは静か。出てからは控訴すべしで官僚は一致団結です。熊本地裁ごときの田舎の地方裁判所がなにを言っているのかと、そういう空気も僕は感じました」

 坂口は2001年1月に厚生省と労働省が統合してできた厚生労働省の初代大臣に就任し、同年4月、小泉純一郎政権でも同省大臣に就任した。しかしハンセン病施策についても裁判についても知らず、大臣に就任して初めてその年の5月に判決が出ることを知る。

大物政治家の後押しで坂口厚労大臣と原告が面会

 原告団にとって幸いだったのは、坂口が医師だったことだろう。ハンセン病についての専門的な文献も読めるし、科学的な見地、医学倫理からこの問題を引き寄せて考えることができた。坂口はハンセン病についての勉強を深めていく中で、「なぜこれが隔離されなくてはいけないのか」という疑問を深めていく。プロミンという特効薬が発明されて、ハンセン病は不治の病ではなくなっている。

 また1958年に東京で開かれた「国際らい学会」では、隔離政策を改めるように勧告が出されていた。坂口の調査によるとそれが日本語訳された形跡もない。
 「役人の言い分として、自分たちは法律に従ってやってきたんだということでしょう。でもその法律が時代遅れになってきたときは、やはり変えなくてはいけない。それは医師として、国会議員としてこの問題を知らなかった自分にも責任があると思いました」

 控訴断念すべし。坂口の想いを固めるきっかけとなった、1本の電話がある日掛かってきた。

 「坂口さん、あなたに是非会ってほしい人たちがいるんですよ」

 電話の主は自民党大物政治家の野中広務。野中が坂口に会わせようとしたのは、原告団だった。

 「裁判の結果がどうなるかわかりません。ただ会って話だけ聞いてやってほしい」

 とくに親しい仲でもない野中からの電話に坂口は面くらいながらも了承した。

 5月14日、野中は10人近い原告団を大臣室に連れてきた。そして挨拶だけすると「じゃ、あとはお任せします」と退出した。その手際の良さにも坂口は感心した。

 「あの人は普段の物言いは居丈高なんだけれど、弱者に対しては親身になるところがあるんですよ」

 原告団が語る療養所での生活をメモするために坂口はペンを走らせた。しかしその手はゆっくりとなり、やがて動かなくなった。涙がこぼれて、動けなくなったのだ。

 「ある女性のお話を今も覚えています。その方は中学生のころにハンセン病として診断されて隔離された。ある日、その女性は母さんに会いたくて、施設を抜けだして海を泳いで自宅に帰ろうとしたんです。しかし対岸にすでに職員たちが待ち構えていて、罰として施設内の監禁室に入れられてしまう。中学生の女の子がひとり寝間着1枚でそんなところに入れられて、1カ月間おかゆだけの食事だったそうです」

 当時、規則違反などを犯した入所者に対して、監禁や減食などの懲戒権が所長に認められていた。

 「赤ペンでメモを取っていたんですが、もうメモができんようになった。目が潤んできて……」

 私にその話をしているときも思いだしたのか、坂口はハンカチを目に押し当てた。

逆風に見舞われた坂口厚労大臣の決意

 その出会いをきっかけに、坂口は「控訴断念すべし」という思いを固めた。5月16日の朝日新聞にこんな記事が掲載された。
《厚労相、控訴断念の意見 首相に週内進言へ》

 だが省内は坂口にとって逆風だった。坂口が法務大臣や官房長官とこの問題を話し合おうとすると、必ず役人が先回りして彼らにレクチャーしていた。
「僕が行くことがどこかから情報が漏れてるんですよ。霞ヶ関はすごい組織です。あのときほど役人が怖いと思ったことはない」

 「控訴断念すべし」という個人の想いと、「控訴すべし」という霞ヶ関の論理に板挟みになって苦悩する坂口の姿がメディアでも報じられるようになる。

 18日の朝日新聞が《ハンセン病訴訟 控訴へ》と国が控訴の方針を固めたことを伝えた。以下、朝日新聞の見だしを拾ってみる。
《政治判断より行政のスジ》(18日朝刊)
《元患者ら猛反発》(同日夕刊)
《官の理屈 優先 政治家に説得攻勢》(19日朝刊)
《ハンセン病訴訟原告ら 「国は判決に従って」控訴断念求めて抗議》(22日朝刊)

 そしてついに、23日毎日新聞にこんな記事が載った。
《坂口厚労省が辞意 ハンセン病国賠訴訟・政府「控訴」に不満――公明党、強く慰留》

 坂口が政府の控訴の方針に「自分の意思と違う」と厚労相を辞任する意向を公明党幹部に伝え、党幹部は慰留する方針である、という内容だった。
「この記事を読んでどきっとししまた。そう決めていましたから。ただそのことは党内でも誰にも相談していません。相談したら政局になってしまう可能性があるでしょ。それは避けたかったから、自分ひとりで決めたことです」

 控訴期限ぎりぎりの5月23日の午前9時、坂口は首相官邸に呼ばれた。福田康夫官房長官を前に改めて意見を聞かれた。
「あなたは控訴断念すべしで変わらないですか」
「変わりません」
「役人はどうですか」
「役人は控訴すべしです」

 さらに福田官房長官が質問した。
「どちらが厚労省の意見ですか」
 坂口は「痛いところ突かれた。さすが詰めてくる」と内心苦笑しながら、
「大臣の意見が、厚労省の意見です」
 と開き直った。法務大臣は
「原告の方々にはお気の毒ではございますが、控訴すべしで法務省は合意しています」
 という返事だった。

首相が原告と面会、決断へ――

 その場では結論は出ず、夕方5時に官邸で小泉純一郎首相から直接、決定を伝えるという段取りになった。
「これはおかしいなと思いました。ここまで来てまだ結論が出てないのは、官邸内でも意見が割れているんだろうなと思いました」  

 坂口が国会の委員会に出席していると、夕方4時ごろ、メモが回ってきた。
《首相が原告団と15分の予定で会談に入りました》
 坂口が経験したものと同じものである。しばらくしてまたメモが来た。
《会談はまだ続いています》
 終了予定の4時15分を回っていた。

「結局、小泉さんと原告団の会談が終わったのは4時45分ごろだと思います。15分の予定が45分も会っていた。これは脈があるのではと思った」
 5時に予定通りに法務大臣とともに官邸に上がると、福田官房長官が「すぐ首相のもとへ」と案内した。と、その前に、福田が坂口の袖を引っ張って部屋の隅に連れて行き耳打ちした。
「心配するな」

 小泉首相は法務大臣と坂口厚労相を前に
「それぞれのご意見は官房長官から聞いております。僕も熟慮した結論として、控訴せずで行きたい。法務大臣は別の意見でしたが、異議はありませんか」
 法務大臣が
「総理が決断されたことに従います」
 と答えると、小泉は
「よし、これで決まり!」
 大きく肯いた。

 すぐさま閣僚たちが集められ、「控訴せず」が閣議決定された。閣議が終わり、坂口が椅子を立とうとしたとき、隣の「塩じい」の愛称で親しまれた塩川正十郞財務大臣が、おかしそうに小声で囁いた。

「あんたの『辞める』いう記事、効きましたな」
 政府は「控訴断念」を発表し、福田官房長官の談話が公表された。そこでは「極めて異例の判断」として、控訴を行わず、原告だけでなく全国の患者・元患者への統一的な対応をすることを約束した。またそれとは別に、「本判決の法律上の問題点」という文書も公開した。

 一連の政府のなかで、やはり原告団を連れて坂口や小泉に引き合わせた野中の動きが大きい。その野中にアプローチしたのが原告団弁護士だった。彼らは訴訟を起こすと、すぐ「永田町ローラー作戦」として、政治家たちにアプローチを始めた。訴訟の中でやがてどこかで政治的決断が必要になるだろうと考え、その布石を打ったのである。

控訴断念を記者団に伝える小泉首相(写真:読売新聞/アフロ)
控訴断念を記者団に伝える小泉首相(写真:読売新聞/アフロ)
控訴断念決定後、記者会見に臨んだ坂口力厚生労働相(写真:読売新聞/アフロ)
控訴断念決定後、記者会見に臨んだ坂口力厚生労働相(写真:読売新聞/アフロ)

解消されないままの差別と偏見

 野中は社会党代議士の紹介だった。面会した原告のひとりに、野中は
「立場上、裁判について云々はできませんが、あなたたちのことについては重大な関心を持っております」
 と伝えたという。なぜ野中はそこまで原告団に肩入れをしたのか。現在は政界を引退し高齢を理由に野中は私の取材を断ってきたが、スタッフを通じて次のようなことを伝えてきた。

「子どものころ、近所に名医と言われる病院がありました。そこの医師は人としても素晴らしく、ハンセン病の患者さんも分け隔てなく診察されていた。しかしそのことで他の患者さんの足が遠のき、その医院は潰れてしまいました。ハンセン病への偏見の凄まじさというのをそのときから意識していました」

 坂口はその後、厚労相の副大臣と手分けして全国の療養施設を「お詫び行脚」した。
「6、7カ所は行きました。最初は熊本です。少し小高い山があって、望郷の念に駆られた入所者さんがここから外を見ていたと聞いて、当時は相当厳しい環境だったんだろうと偲びました。みなさんには『残りの人生、生きていて良かったと思えるように努力します』と申し上げました。ですがまだ差別偏見が解消されたわけではありません。やはり人の心の中に植え付けたものは、そんなに簡単に変わるわけではないという思いがしますね」

 そう、まだこの問題は終わっていない。十分な「反省」も、教訓も得ていない者たちがいる。本シリーズ最終回は、見て見ぬ振りをしてきた「私たち」について考える。

(敬称略)

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