2009年4月14日
図形の置換、あみだくじ、カードのシャッフルなど数字の置換を題材としたものが出題されています。カードのシャッフルは1982年の麻布中が初出ですが、2002年に東京大学に出題されてから、他校の中学入試に広まっています。
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ガロアは、1811年パリ近郊で生まれました。父母はともに当時の最高の教育を受けていました。小学に入る前から、1から100以上は数えられましたので、小学に入ると「1から100まで数えられる人、手をあげて」と問われるのを待っていましたが、そういう機会もなく過ぎました。
各学年の初めに教科書を渡されると、各教科とも小1時間ほどですべて読み終えました。45分のテストは数分で解き終えました。ですから、授業はだいたい退屈でした。
2年生のとき、9時から4時間たつと1時になるというのを習い、とても面白いと思いました。
9+4=1という感じがとても面白く、「自分だけの作り算数」として、「5時間時計のたし算」なども考えました。
3年生のあるとき、先生が「87−38のように一の位が1小さい数をひくと、答えの一の位は9になる」と教わったとき、それまで、 ひけないときはとなりから10借りてきて……と覚えていたので、何と簡単なのだろうと頭に強い衝撃を感じました。
それは「算数はまとめて考えれば簡単になる」ということを知った喜びでした。
そうして、このときも、「一の位だけ」の「自分だけのたし算ひき算」も考えました。また、
1、1、1、1、1、1、1、……を次々にたし算していくと、
1、2、3、4、5、6、7、……を次々にたし算していくと、
1、3、6、10、15、21、28、……を次々にたし算していくと、
1、4、10、20、35、56、84、……となることなどの計算をして遊びました。
自分はほかの人より、少し算数に才能があるようだと感じていました。しかし、だからと言って、それほど夢中で研究するということはありませんでした。
12歳でフランス一の名門ル・グラン校に入学しました。初めのころは成績が良かったのですが、学校の古い体質にイライラして、学力にムラができて落第しました。不足単位だけ履修することになり、時間ができたので、ルジャンドルの書を読みました。上のクラスの特別補講に出て、名教師リシャールに出会い、ラグランジュの書を学び、このときから数学に狂うほどに熱中するようになっていきます。
論文を学会に提出しましたが理解されず、紛失されてしまいました。一方、町長だった父の作った詩を、悪ふざけに改作したものが出回り、父の作と言いふらされ、父は自殺しました。直後、心に痛手を負ったまま、フランスの最難関大学を受けます。口頭試問は、かつて3秒くらいで読み飛ばしたことのある対数の問題でした。「これは自明ではありませんか」と答えると、「自明ではないとして答えなさい」と言われ、持っていた黒板消しを試験官に投げつけたというエピソードがあります。もちろん、不合格になりました。以来、ガロアは反抗的になり、20歳のときだまされて決闘することになり殺されました。
生前評価されることがなかったガロアの遺した理論は、いまやそれ自身が数学の一大分野であり、また、全数学に広がる基本概念で、素粒子物理学の基本概念ともなっています。
(文中のガロアの小学生の頃の話は文献にありません。すべて筆者の空想によるものです。)
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記事提供:『学校選択』 全国中学入試センター
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