今月26日まで販売している「黒マヨ鶏天丼」。黒マヨといっても、黒いマヨネーズではありません。黒酢×マヨネーズの食欲増進最強タッグです。黒酢があまりに強すぎると、すっぱすぎて、つーんとくる人もいますが、この頃合いを見切って、やや抑え気味にして、その上でマヨネーズと合わせますと、黒酢の個性とマヨのマイルドさがもうたまらない。若い人を中心にとても良く出ています。ハンバーグ、ローストビーフ、豚と、夏季の覚醒期には力強いタネをご用意し、秋になって気温も下がり、落ち着いてきたら鶏です。夏までは盛り上げて、秋からオーソドックス路線に入っていくのが、年間の予定なんですよ。

 鶏の銘柄としては初めて「但馬の味どり」を使いました。但馬牛は有名ですが、鶏もおいしかったのでこれでいこうと。さっぱりした鶏肉を塩麹に漬け込んで風味良く柔らかくしています。ヘルシー、さっぱり系ですが、半熟玉子を付けるのがおすすめです。やっぱり親子だけあって相性は最高です。

リーマンショックで躓く

 さて、前回はシズラーを初めとする、ロイヤルホスト以外の専門店を束ねる会社、ロイヤルカジュアルダイニングの社長をやらせてもらったお話でした。その前に、焼き肉チェーンの社長になったら狂牛病、という運の悪さをぼやかせていただきましたが、こちらでも実はえらいことになりました。リーマンショックです。

 リーマンショックは2008年9月、社長になって3年目でした。さすがのシズラーも、その他の専門店もどーんとやられてしまいました。これを契機にロイヤルホールディングス(以下ホールディングス)は、経営体制の見直しを行いました。

 それまでは遠心力の経営と言っていました。持ち株会社であるホールディングスはコーポレートを中心としてあまり口を挟まず、各事業会社が、マーケットに近いところで的確に、素早く判断を下して動いていく体制です。しかし、リーマンショックで大きく躓いた状況では、脇をぐいっと締めて、収益管理を厳しくせねばなりません。苦しい時期が過ぎるまで、求心力の経営に転じようとなったわけです。その目玉として事業統括本部を作って、各社をぐっとグリップし、伸ばすところと切り詰めるところを明確にして、難局を乗りきろう、と。

 これによって、私もリーマンショック翌年の2009年に事業統括本部の営業推進部長になりまして、各事業会社を直接担当する立場になりました。自分がいた会社も含め、外から見る立場になったわけです。

 これがまた、降格になったときのお話(「『部下が指示を忘れる?』降格で知るその理由」)じゃないですが、立場が変わると、見え方が全然変わる。

 事業会社の社長時代は、自分の事業を一生懸命考えることが大切だった。「思い」だけではもちろん経営はできませんけれど、それでも事業への強い思いや商品、人材育成に気をつけることで運営することができます。ところが、グループ全体を俯瞰する立場になると、もうちょっと客観性を持たねばなりませんし、見る目も分析的になる。

ばらばらになりかけていたロイヤルホスト

 岡目八目と言いますが、全体を見ていると「あ、この社長もう少しこうすればいいのに」と、ある程度クールになる分、わかることも出てくるのが驚きでした。これで1年くらい過ごしまして、そこから今度は、統廃合の一環として、地域別に4つに分けていたロイヤルホストをひとつにする仕事に取り組みました。

 ご存じなかったですか。そうなんです。当時のロイヤルホストは、4つの地域会社と、本部の企画部門に分かれていたんです。それらがバラバラに動き始めていたので、お客様から見たイメージに、統一感が薄れてしまった。人間の身体で言えば、やはり頭と身体がつながっていて、身体も一つの方がいいだろう。危機の最中、もう1回、ロイヤルホストを、グループの中のブランドの源泉として位置付けしよう。ということになったわけです。

 そのときに、ロイヤルホストの社長になったのが、現在はホールディングス専務の矢崎精二さん。「もう60歳だし、もっと若い人に」とずいぶん固辞されていたのですが、最後はトップから「あなたしかいない」と口説き落とされたそうです。

 当時私はホールディングスの事業統括本部にいたわけですが、矢崎さんに「ちょっと焼き鳥屋にいこう」とお誘いを受けて、「焼き鳥大好き!」と、いそいそと釣られて席を立ちました。店に入ると、やおら矢崎さんから「今度、ロイヤルホストの社長を引き受けた。ついては、お前も来い」と。

 「これは、江頭ファウンダーから直に薫陶を受けた我々の宿命だ。立て直すのは俺たちの、俺とお前の使命だ」

 自分たちでもう一度、全国のロイヤルホストを蘇らせていこう。一つのロイヤルホストとしてブランドイメージを上げていこうと、切々と語られた。聞いているうちに、私も熱くなってきた。これはもう自分でも絶対やらんといかん、「それが使命だ」という気持ちになってきまして。

 人は、というか私は、こういう言葉、「使命」、「宿命」に非常に弱いんです。「もののふは己を知る人のために死す」。わたしは武士じゃありませんが、必要とされた、誘ってもらったことで、意気に感じてしまった。

しょっぱい焼き鳥の理由

 で、矢崎さんと話しているうちに、ぽろぽろ涙が出てきちゃって。いや、かなり泣きました。普段はそんなに泣かないです。人並みですよ。人事の話をして泣いたのは最初で最後ですね。まあ、こんな図体のおやじが店でぽろぽろ泣いていたら、それは驚かれるでしょうね。それで矢崎さんがびっくりして「おい…お前、人前で何泣いているんだよ」と、泣かせた当の本人から言われてしまいました。妙に焼き鳥がしょっぱかった思い出です(笑)。

 あ、なぜそこまで我々が高ぶったのかが分からない? これはまだ最近の話なので、あまり詳しくお話はできないのですが、当時のロイヤルホストは、リーマンショックの打撃を回復しようと現場がそれぞれ奮闘するあまり、いろいろな方向に向いてしまっていました。

 4つの地域会社がバラバラにやっていたので、いいところと悪いところの濃淡も出ましたし、例えば施策でも、関西と関東では大きく違いました。

 当時はまだ“遠心力”が効いていて、各事業会社が自分たちのお客様の近くで「喜んでもらうにはどうすればいいか」と考えたことをどんどんやっていました。ある地域では、店内でコンサートをやったり、鯖寿司を出したり、マグロの解体ショーまで行いました。

 「地域の皆さんに喜ばれる場所にしたい」と、パートやアルバイトさんからもアイデアを求め、真剣に考えて、やりたいことをやらせていこうとした結果です。一方、別な地域では、従来のやり方を、改善ではなく改革せねば、と、外部のコンサルティング会社にマネジメントを委託していました。それまでのロイヤルホストとは一味違う考え方を導入したわけです。

 一事が万事です。それぞれ、考え方や意図はロイヤルホストのためだったでしょうけれど、これでは、ロイヤルホストがロイヤルホストである意味が薄れる。一方で、人心の荒廃を招いていました。そこで、焼き鳥屋さんの片隅で、「もう一度、我々の力で料理が美味い、地域で一番愛されるレストランをつくろう」と、決意を新たにしたのです。

ピンチのときに複雑なことはできない

 2009年の11月、焼き鳥屋で話をしてから、1カ月経たないうちにロイヤルホストに異動になりました。矢崎さんが社長、副社長としてきたのが黒須(康宏、現ホールディングス社長)さん。黒須さんは全体を統括する副社長、私が常務です。私はここで1年半、商品やプロモーション、マーケティング、教育、計数、業務などを管掌しました。目的はロイヤルホストを一つにし、ブランドイメージを高める為、教育をちゃんとやり直すことと、そして、何より商品です。

 社長になった矢崎さんが訴えたのは、「ロイヤルの強みは、食べ物のおいしさ、洋食のおいしさ。もう一回、『おいしい洋食を出すロイヤルホスト』に戻ろう」ということでした。

 これは皆さん納得されると思いますが、ピンチからの回復策は、できるだけシンプルで、分かりやすく、具体的であるべきです。「何をしたらいいのか、何はダメなのか」が、少ない説明で誰でも分かるようなものが望ましい。その点、この「おいしい洋食への回帰」は、とても優れた打ち手でした。何より、おいしい料理を出す店で働くことは、働き手にとっても誇らしいし、お客様の喜ぶ顔を多く見られるから、やりがいに直結します。

 と、口で言うのは簡単ですが、具体的にどうするか。トップを中心にまたまたいろいろ考えました。

メニュー改定の頻度を下げる

 まず、グランドメニューの改訂が年3回だったのを、1回だけにして、その分、絞り込んで一品一品を磨き込むことに変えました。

 改訂の頻度が多いほうが目先が変わってよさそうですけど、作り手にとっては熟練しないうちに期間が過ぎてしまいがちで、再現性や提供時間に問題がありました。「ベーシックなメニューは年に1回だけしか変えない。それで品質向上と提供時間の短縮を図ってほしい。その代わり、春と夏と秋に、季節性のあるフェアをやろう」と。

 ということで、基本を磨き込んで、その上で春は洋食、夏はおなじみのカレー、秋はイタリア料理フェアで楽しさを。え、「てんや」でやっていることにそっくりじゃないか? よくお分かりで(笑)。「定番7割、革新3割」(「あなた、とんでもない場所に出店しましたね」より)ですね。このころから、そうしてやっていたことになるんでしょうか。

 定番のグランドメニューの目標も、シンプルかつやりがいのあるものにせねばなりません。そこで「ジャンルごとに、専門店に負けない味を出そう」と打ち出しました。

 これもたしか以前、讃岐うどんのお話にからめて申し上げましたが、人間の舌は育った環境で作られます。そしてもうひとつ、我々チェーン店は本部コストがどうしても発生します。ですから、本当は、地元の個人経営のお店にはチェーンのレストランが勝つのはとても難しいのです。それでも、あえて「味で勝とう」と訴えました。

 まず取り組んだのが「こだわりの食材」。パスタはそれまでは乾麺の細い麺だったのを、太めのヴェリーニ社製に変えました。製麺時にブロンズの口金で絞り出すことであえて表面をざらざらにしているので、ソースとよく絡むんです。さらに低温で3日間じっくり熟成させることで、小麦の香りが感じられもっちりとしています。三つ星クラスで使われる専門性の高いものですが、思い切って導入し、今も続いてます。ロイヤルホストのパスタはお値打ちですよ。一度食べてみてください。このほかにも、アメリカの農務省(USDA)の格付け認定よりも厳しい基準のアンガス牛認定制度をクリアした「サーティファイド・アンガス・ビーフ」を導入したり、北海道猿払のホタテを使った料理などを開発しました。

 矢崎さんは産地に行って、実際に見ていいものを持ってくるんですよね。イタリアのヴェリーニ社の畑や工場にも行きましたよ。生産者との関係をとても大切にしていました。

「てんやをなんとかしないと」

 料理でもう一回ロイヤルホストをひとつに、という目標にみんなで挑んで、味は確実にワンランク上がったと思います。お客様も増えて、売り上げも向上しました。もうひとつ、教育も忘れちゃいけませんね。フードビジネスアカデミーを作りまして、創業の地、福岡に全国から交代で店長、料理長を集めて研修したり、改めてフードサービスの基本から捉え直しを行ったことで、思ったよりもずっと早く、1年半で一体化への道筋がつきました。これは、トップである矢崎社長と黒須副社長のリーダーシップが大きかったと思います。2011年、4つの地域会社は合併して名実ともにひとつになりました。

 そして、ほぼ再建のメドが立ったと思ったこのころ、「てんやをなんとかしないと」という声がホールディングスの中で上がり始めます。牛丼の低価格競争に押されて大変だ、と。

 そういう話が持ち上がって、私は「なるほど、なら、やっぱり矢崎さんが行かれるのがいいな」と勝手に思っていました。「実績もあるし、考え方もぶれないし。矢崎さんがテン(テンコーポレーション、てんやの経営会社)に行って兼任で社長になって、私がロイヤルホストを見ながらお手伝いするのが、テンにとってもいいんじゃないかな」と。

 まあ、のんきに考えていたわけです。恐ろしいことに、矢崎さんにも実際に「てんやも一緒に見てください」と申し上げて、ご本人も「そうだな」とか仰っていたんですけど、ある日呼ばれて、「いろいろ考えたんだけれど、テンはお前がやれ」「え、私ですか」。また「え」が出てしまいました(笑)。

 客観的に見るクセが事業統括時代に付いてしまったのか、経営者としてみたら、ホールディングスで一番いいのは矢崎さん、と思っていたので、自分が指名されたことが意外だったんですね。でも、迷うことなく二つ返事です。なにより「天丼」「天ぷら」というコンテンツがいい、すなわち可能性がある会社だ、と思っていましたから。

 「天丼」「天ぷら」が嫌い、という日本人はそんなにいないんじゃないでしょうか。しかも競合するチェーンは当時はなく、独自性があって、いわゆる「ブルーオーシャン戦略」に則った唯一無二のもの。私は、ファミリーレストラン、焼き肉というレッドオーシャンのど真ん中で泳ぎまくってきたので、どうしても仕事がシェア争い、比較競争になってしまうけれど、それにくらべると、てんやは自社だけのジャンルを持っている。

 そんなブルーオーシャンの本質である「バリューイノベーション」、よりおいしく価値を上げていくことと、コストを下げていくことを同時に実現できれば、間違いなく生き残っていける。

 一方で、天ぷらは好きだけど、「健康的ではないから、あまり食べたくない」といった、ネガティブなイメージもありましたよね。外で気楽に食べる場所も少ないし、家でもそんなに作らなくなった。

 「そうかそうか、言われてみればそんなに機会がない。焼き肉店でBSEと戦ったように、油のネガティブなイメージとの戦いか」という感覚がありました。

 わたしがてんやに行くことが決まって、てんや創業者で当時会長の岩下善夫さんとお会いして、お話を2時間くらいしました。背が高く、欧米人みたいな縦横がっちりした体型、もみあげ、口ひげ。当社のキャラクター、「てんやおじさん」のモチーフですね。迫力がある外見の方でした。

銀座1号店の“一夜城”

 ところがですね。お話すると非常に紳士的で優しい方なんです。創業者と言えば江頭ファウンダーしか知らない私はびっくりですよ。ロイヤルだと、ええと、極端に言えばですが、江頭ファウンダーの側に居ると怒鳴られたり叱られるわけです(笑)。ところが、岩下さんに怒られた人はほとんどいない。見た目はごついが心根の優しいスマートな岩下さん、ジェントルマン然としたルックスに、中身は職人肌でカッとなれば激しく叱る江頭、全く真逆のタイプの創業者です。

 江頭ファウンダーがなぜ叱ってきたのかは、これまでお話ししてきたとおりですし、一方、岩下さんは「エンゼルスパイラル」という考え方をお持ちで、優しくされた従業員、丁寧に扱われた従業員は、親切に優しくお客さんに接する。そのことを念頭に経営してきたので、やみくもに怒ったり叱ったりしなかったんですね。

 その時「富士山に登る目的は一つでも、登り方はいくつもあるのだな」と思いました。全然タイプの違うふたりの創業者からの薫陶を受けることができたわけですが、どちらもためになりました。

 当然ですが岩下さんも、ただ優しい方ではないですよ。元々は、日本マクドナルドの創業メンバーのお一人です。藤田田氏に乞われて、銀座の三越に作ったマクドナルドの日本1号店の建築装飾の責任者を担当された。ご存じですか、あのお店は、墨俣の一夜城ではありませんけれど、1日で作ったんですよ。そう、三越の休業日に。

 ぶっつけ本番になっては大変なので、何回か組み立てのシミュレーションもやったそうです。マクドナルドのアメリカ本部から視察にきた方々をオープン前に現場につれていったら、マクドナルドがないじゃないか、と驚かれ、「ここで明後日オープンするんです」と真面目に答えたら、あきれられたそうです。

 もちろん、当日の朝10時に、無事マクドナルドは開店しました。岩下さんからお聞きした自慢話は、ちゃんとオープン前に、店舗での従業員トレーニングの時間も残してあったということです。オープンの「10時に渡したわけじゃないぞ」と。こうした気配り、気遣い、ポイントを抑えてくるのが、岩下さんの凄いところです。

 岩下さんは、米国のマクドナルドの“ハンバーガー大学”にも行って、システムや考え方を学んで、約5年間ほど、日本での拡大を支えられた。そして日本の和食の代表選手の天ぷらに行き着かれた。当時は、寿司がもう回転寿司で大衆化できていたので、残るは天ぷらかな、と。そして500円玉が1982年に世の中に出て、「ワンコイン」が成り立つという背景もあった。

 とはいえ、それだけではチェーンにはなりません。おいしく揚げる職人技をシステム化できないかと検討していく中で、ポテトチップスを揚げるベルトコンべアを目にされた。油の中にベルトに乗った薄切りポテトが浸されていく。あのイメージを思い出して、そうか、あれの小さいのができれば、と、愛知にある会社の工場に1年くらい通って、オートフライヤーの原型を作った。日本料理の職人さんをいっしょに連れて行って、機械の中に揚げ方の秘訣を盛り込んだ。最後は職人さんも驚くくらいのできあがりになって、平成元年、1989年4月にテンコーポレーションを創業され、9月に1号店を出された。

 実は、江頭ファウンダーと岩下さん、2人の創業者は過去に接点があったんです。江頭ファウンダーも、マクドナルドの日本法人の権利獲得に手をあげていたのです。私が福岡にいるときに、江頭ファウンダーはお昼などに、秘書にハンバーガーを買いに行かせて、コーラを飲んでポテトを食べて、設計図に目を通しながら「世が世なら、僕がマクドナルドをやっていたんだ」と言っていたものです。

食の大衆化・産業化を志した2人の創業者

 新宿三井ビルに「ホストジュニア」というハンバーガーショップを出したこともあるんです。このときに、江頭ファウンダーは、岩下さんを「ウチに来ないか」と。原宿のロイヤルのお店で2回「うちに来てくれ」と口説いた。食べ物への思い、お客様への思いをずっと語った。それがのちのち、2005年、丸紅さんから離れる際に、もっと条件のいい会社がいっぱいあったにもかかわらず、ロイヤルに「てんや」という会社ごと、岩下さんを連れてくることになるんですね。株式を持ってもらうなら、自分が作ってきた会社に考え方が近いところに、と。

 江頭がそもそも言っていたのは、「日本の、どんぶり勘定の飲食業を、産業化したい」ということ。外食の産業化が彼のロマンであり、大きな夢でした。そのためのパイオニアになりたい。食のコングロマリットになりたい、と。岩下さんは、非常にシステマチックな外食産業のあり方をマクドナルドから学んだ。学びつつ、商品は日本の食文化にこだわったし、そこに先見の明があった。

 高級レストラン「花の木」をベースに、まず洋食の大衆化を目指した江頭ファウンダー、時期は違えど天ぷらの大衆化を志した岩下さん。その交点にいるのだと思うと、自分のことながら不思議な気がします。

 今回は、いつもの現場じゃなくて経営の話になってしまいましたね。次回は、いよいよわたしのいまの職場、てんやに来たときのことをお話ししようと思います。

まずは会員登録(無料)

登録会員記事(月150本程度)が閲覧できるほか、会員限定の機能・サービスを利用できます。

こちらのページで日経ビジネス電子版の「有料会員」と「登録会員(無料)」の違いも紹介しています。