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鼓曲萬来

Rock’nRoll My Way ⑥ ハルヲフォン1

近田春夫&ハルヲフォン 

FIRST....
 
もう30年も前の話なんだ、最近ネットを見ていると
随分若いのにコアな奴が沢山いてね、
なんでだろう?よく知っているんだよ、あの頃の話、
俺も今になると懐かしくてね、結構楽しんで読んだりするんだ。
 
その時ちょっと思ったんだけどさ、
これは一度、俺の記憶がまだはっきりしてるうちに、
いくつかのエピソードをどこかにメモッておかなきゃいけないなってね、
だってそうだろう、村八分にしたって、ハルヲフォンにしたって
当時は誤解されっぱなし、
あるいは見当はずれもいいとこだったんだ。
 
という事は此れから先も
伝説(村八分)と啓蒙(ハルヲフォン)だけが形を変えて残って行くわけだよ、
その二つのバンドにいたドラマー、そいつはどういうんかな、
両極端といえば.両極端、俺自身もわからんよ、
まあ俺にとっちゃどっちもあまり変わんなかった様な気もするけど。
 
追悼
ところでハルヲフォンの初期のメンバーだったジュンボーはもういないんだ...、
村八分のチャー坊も亡くなった。
 
そうなんだ、そんな話を聞くとね、奴等の為にも俺はあの時の証人として
断片的だけどバンドの歴史MEMOを
このPAGEに少しでも残して置かなきゃいけないなって思ったのさ、
イヤ、まあ勿論興味の無い奴には何の意味も無いだろうけど、

70年代の電撃的な東京、サイケな京都のバンドのただありのままの話、事実、
ただそれだけの話し。
   
それでもって今回は、 近田春夫&ハルヲフォン....だ。

1972
近田に会った、ハンターで
 
村八分をやめて京都から東京へ戻って来た頃、
銀座のハンター(中古レコード店)で中古レコード見てたら、
偶然久しぶりに、おお!なんて感じで近田に会ったんだ。
 
ブラインドバードというバンドでカルメンマキのバックや
小坂忠(エイプリルフールのヴォーカル)、高橋ユキヒロ
(何故かギター、俺が高校の先輩だったからドラム遠慮してくれたのかな?)、
小原礼(後のミカバンド、ベース)
そして駒沢裕紀(スティールギター)といったメンバーで演奏していた頃だ。
 
近田とは面識はあったんだが話をしたのはその時が始めてでね、
内容は確かこうだった。
 
「今度パイオニアのステレオシステムのイベントでツアーがあるんだけど、
ドラムやらねえか?」
それからこうだ「ローリングストーンズみたいなバンドにしたいんだ。」
おそらく俺が村八分のメンバーだったからストーンズが好きだろうという、
奴なりの配慮だったんじゃなかったかな?。
 
生憎俺はストーンズという誘いには正直言って何も感じなかったけど、
奴は面白そうだったから「ああ、いいよ」なんて受ける事にしたんだ。
 

最初の練習

最初の練習は等々力の奴のピアノが置いてある実家、
その時発覚したのは、まだベースが決まっていないと言う事と、
ギターはアマチュアの松本恒男という奴で
今日はそいつは生憎来ないという事だった。
 
最初何曲か奴のオリジナルを聞かしてもらってね、
シンデレラ、波打つ石(後のみつめられ...)大平洋(未発表)、
覚えているかい四っの頃を(後のあの頃)レインコート、秘密のハイウエイ、週末、
ファールでアウト(未発表)、愛なんて(未発表)だったと記憶しているんだけど、
最初は奴のピアノで練習していたんだが途中で俺達は飽きてしまってね、
途中から遊びになっちゃったかな。
 
帰り際に何枚かのLPを貰ったような気がする、
奴が好きだと言う、確かルーリードとスペンサーディヴィスグループだったか?
「HIGH TIME BABY」絶対やろうぜ!なんて話しだったと思うよ。

パイオニアツアー 

ともかくパイオニアのツアーは始まったんだ。
俺はその頃、実はもうドラムのセットは京都で失くして持って無かったんだが、
ハプニングスフォーのチトさんが可哀想に思ったんだろう、
「其れ良かったら、持ってっていいよ」って気前良く新宿ACBの楽屋で
予備のROGERSのSETをくれたんだ。
 
(実は誰も知らない話だろうけど、村八分の最初のギターは
富士夫とビーバーズの石間さんになる予定だったんだ。
石間さんはFLOWERSに行っちゃったからその話は流れちゃってね、
富士夫はガッカリしてたよ。
 
その後高中政義がオーディション受けに来てたりしてたけどね。
日本のROCKの創成期、そんな頃だから、PAとか楽器車なんて当然ないのさ、
タムがなくなり、シンバルを置き忘れたりで無惨なセットになってた、
そんな話がチトさんの耳に入っていたのかもしれないな)。
 
てベースはブルースクリエィションを止めたばかりの佐伯(マー坊)に俺が頼んだ、
マネージャーは後で巻に変わるんだけど、最初はカメラマンの松本という人だった。
 
コメンティターは湯川れいこ、その前座が俺達のショウで、
その時バンドの名前がハルヲフォンであると知って
『ウッ...』となった事を記憶している。
「バンドの名前なんてどうでもいいじゃン、
売れてくればかっこよくなるもんだよ」なんて
俺は前に言っちまったもんだから、反対はもう出来なかった。
 
それにしても村八分にしろハルヲフォンにしろ
俺はバンドのネーミングにはなんかついてない、な。



あれっ?はりせんかい

そのツアーは純粋に前に挙げたような近田のオリジナル中心の内容だったんだが、
ただ俺がアレッと思ったのは、オープニングのシンデレラで
スレイドの「GOOD BYE TO JANE」のようなドラムイントロの中、
左右からメンバーが舞台になだれ込み、
近田がハリセンでメンバーをなぐるというシーンと、
ベースのマー坊に途中でテイッシュで必ず鼻を何度もかんでくれと注文を出した事
 
そしてMCで「世界をしょってたつギタリスト..松本恒男!
そんな重いギターはどこにあるんだ...?」という
ギャグのようなメンバー紹介のフレーズに近田が凝っていた事だ。
 
ローリングストーンズにしては此れは何かおかしい、とも思ったが、
ともかくそのツアーは楽しかった
 
俺も近田もAB型だから、妙に変なところのこだわりが似ててね、
特に俺達はプロの職人のバンドマンだから
仕事以外は赤の他人なんだというルールはとてもやりやすかった、
なにしろ普段顔を会わせてもそれは他人の時、
全く知らない人同士であるという事はとても楽だよ、
わかるだろ?。そうなんだ信じられないかもしれないけれど、
解散するまでハルヲフォンはミーティングという機会は一度も持たなかったんだ、
これは本当にそうだったんだよ。

タマが来た
 
怒濤のパイオニアツアーも終了して、それじゃって、マー坊が抜けたので
新たにベースを捜す事にしたんだ。
本当はそれ一回きりで解散、とも思ったんだが、その頃俺と近田は暗黙の了承で
これは結構良さそうだから、
二人とも此のバンドは続けたいと思っていたんだと思うよ。
 
それで当時デリーのカシミールカレーとビリヤードに凝っていて
(まだプールバーとかいうものではなく、いわゆる搗球場と言われてた頃ね..)
渋谷のそこに俺の高校の後輩(立教の)、高木英一を呼び出したんだ。
 
近田は結構奴を気にいったらしくて、盛んにアプローチしたんだけどね、
高木は其の頃ゲッセマネというジェスロタルのコピーバンドのメンバーだった。
 
数週間の間の近田の高木に対する精神的な説得工作は
端で見ていても感心する程の深い内容を伴っていたと思われるのだが、
(どんな話だったかは解らないが)
 
ともかく高木はゲッセマネをぬけてハルヲプォンのメンバーになった訳だ。
 
(尚、高木の抜けたゲッセマネは解散、
ドラマーの古田はカルメンマキのOZのメンバーになった)
其の時近田が高木につけた徒名が『たまお君』だ。奴もABだった...。
本当に稀だよ、ハルヲプォンは4人のメンバー中>3人のAB型がいた訳だ。

恋のグンギンナイト 

『イングリムックリ、イングリムックリ、フェノネガー、ケンダマナメナメヤッテクルー、オロチオロラン、オロチカバッテン、サルクニタン、ウンチョコチョ***コレトペロリトポイ、マラリヤピッ、ピッ!』。

おそらく我々の世代の深層に深く刻み込まれていた幻影が
形になったものであろうと思われる。
 
これが我々がその頃よくビリアード場で球を打つ時に歌っていた
歌の正式な歌詞である。
 
この正体はなんであるか解らなかったのだが、
後に守屋浩の唄とエチオピア国家と称される唄のメドレーであった事が判明した
(東京オリンピックの裸足のアベベさ)
 
話はそれたが、正式メンバーが揃ったハルヲフォンは
銀座の>シーザースパレスのオーディションに合格して
ハコバンの仕事にありついたんだ。
(月曜日から~土曜日まで、夜7:00~夜中の12:00位まで確か45分ステージ、
5回位だったと思うよ。)
 
なんでレパートリーも全然無いハルヲフォンが
オーディションに合格出来たかだって?
そりゃそうだ、相手はバカテクの並みいるハコバン相手だもんな、
決まってるじゃねえか、近田のMCだよ、MC!他のハコバンは喋らねえもの。
 
オルガン、唄:近田春夫ドラム、唄:恒田義見ベース、唄:高木英一 ギター:松本恒男
 
やっとその頃楽器も買えるようになったんだ。
俺は給料でラディックのリンゴスターモデル、
近田はボックスのコンボオルガンを買った
(あの上がオレンジで本体が黒のやつ、
アニマルズやデーブクラークファイブ、スパイダースが使ってた奴だな、
そうそうその頃のDISCOは
[GET READY]と[STOP! IN THE NAME OF LOVE]が出きれば
なんとか仕事になったように思うよ)
 
あとはステージは近田のBOOKER T と俺の唄でこなしたのだが、
この仕事は客に好評につき、契約延長1年位続いた。
 
銀座界隈のOLの一躍夜のアイドルとなった訳だ。

デューク柏淵とビブラトーンズ 

どういういきさつでそうなったか...記憶はないのだが、
俺と近田はその後、
新宿のバニーガールのいるスカイラウンジバーで演奏していた時期がある。
 
2~3月間、メンバーは俺と近田、高木の三人で、
時々高木の代わりに四人囃子の岡井大二が弾かなくていい、
業界でいうタチンボ、ww
トラでベースをしていたのを覚えている。(これが大二との初めての出会いさ)
 
この時の状況は今でも大二が面白おかしく話してくれるけど
機会があれば記事にでも書こうかと思っておりますww
 
ここはいわゆるフォーマル、スーツ、ネクタイ着用のスタイルで、
此の時、『デューク柏淵とビブラトーンズ』というバンド名が発足したんだ。
 
アップライトピアノ、歌:デューク柏淵(カシワブチ)
ドラムブラッシのみ、歌:和厳法螺銅弁(ワゴンボラドーベン)
ベース音無し:球事喜八郎(タマゴトキハチロウ)
レパートリー:いわゆるスタンダード全般+演歌(そして神戸等)

 
新宿の高級スカイラウンジバーに
近田のビブラート唄法による「そして神戸」が流れているのを想像してみるといい....それは悪夢だ。
 
あと、俺はもう忘れちゃったんだが、もう一人メンバーの名前を覚えているんだ、
サムソナイト銀原(ギンバラ)っていう名前なんだけど、此れは誰だったかなあ?

パピーは去ってプリが来た

その後、70年代新宿歌舞伎町のDISCOのハコに入る訳だが、
その時問題が発覚した。
 
ドウビーの「ロングトレインランニング」や
ストーリーズの「ブラザールイ」を演奏していた時、
どうもイントロのリフがいかんのよね..。
 
皆、ちょっと違うんじゃないかな?と思っていたんだが、
自信もないから黙っていたのだが、
或日、松本のトラで黒い河というバンドの小林克己という男が登場してきたんだ。
 
ギブソンレスポールから繰り出されるフレーズは
どれも正真正銘の本物だったから、
もういけません、知ってしまった私達。
 
それに奴は知らない曲さえ松本より堂々とうまくこなしていくからね。
 
時々トラ(注:エクストラ、代役の事)の奴に悪戯してさ、
架空の曲をステージで突然CALLして、慌てさせる遊びがあったんだ。
その時は近田が「フィラデルフィアにゴミを捨てるな」って
真面目な顔でコールしてね、
俺達は暗黙のうちに『ああ、やってるな』って解っていたんだが、
普通トラは慌てるだろう、
だってそんな曲、世界中のどこにも存在しないし聞いた事も無い曲名の筈なんだ、
だけどその時小林は軽く頷いて、
ああ..あれねって感じで堂々と演奏しやがったんだ。
(普通、KEYは?とか聞くだろう!)
まあそれは近田のオルガンソロ(即興)だったんだけど、
「こいつC調でイイカゲンな奴だなー、だけどギターはうめえな、
そうだな俺達にはこういう奴が必要なんだな...」って
その時何故か直感的に皆そう思ったんだ。
 
従って、その場で(プリの方が仕事としては楽だもん)
小林は北振 竜(きたふりりゅう)という名前でハルヲフォンのメンバーとなったんだ。
(北振 竜とはギタータップリという事である。
ギタータップリ→ギタープリタツ→キタフリリュウ)

同時にハコバンメンバーの名前も変わった
 
オルガン、唄:江戸川雲太(えどがわうんた)エドガーウィンター .
ドラム唄:美知雷多(みちらいた)ミッチーライダー
ベース、 唄:遠藤摺尾(えんどうするお)ジョンエントウィッストル
ギター、:北振 竜(きたふりりゅう)
 
そして再び栄光の銀座シーザースパレスのハコバンへと戻って行く訳だ。
なおパピー松本はその後イギリスに渡り、
アトミックルースターという(ELPのカールパーマーがいたバンド)
に入ったそうであるがよく知りません...。
 
ところでさ..ドップラー効果って聞いた事あるだろ、
あれってどういう原理か、俺よく小学校の時理解出来なかったけど、
「ああ..そういう事か..」って解った出来事があるんだ。
 
70年代のバンドの営業はね、時々如何わしい場所もあった、
それは横浜のクラブの出来事だったんだけどね..
そこではさいわゆる、色物と呼ばれる人達と一緒にやる、なんて事もあった。
といってもせいぜいユートピアにゴム、口にくわえさせられるぐらいだから、
別にこっちはそう負担にはならなかったけどね、
だけどその日はちょっと、あまり気乗りはしなかったんだ...金粉ショー!。
こういうのはね往々にしてね
ルーツ物(ラテンとかウエスタン)をBGMに指定して来る事が多いんだ。

その日も打ち合わせでやっぱり来たんだな..「ラテンお願いします」ってね。
そういう時は必ず俺達
「BLACK MAGIC WOMENでいいですか?」なんて答えるのさ、
それっきゃ出来ねえもん、だけど悲劇は本番で起こった。
 
内容は金粉塗った女性が素っ裸で足首もたれてグルグル振り回される、
ただそれだけだったんだけど、俺はテンポ間違えちゃってさ、
振り回されるにはすこしスロー過ぎたんだな、俺の前で回ってたんだけど、
女は周りながら俺に叫んでるんだよ.>「もっと早くううう....もっと早くううう....」
そうなんだ俺の前に頭が来る時には大きい音、去って行く時はだんだん小さくなる、
そしてそれはシュワーと言う感じに聞こえて来る、
ドップラー効果はこうして出来るのか、
その時俺は理解したんだ。

だからここでハッキリと言っておきたい、
フランジャーの正しい使い方は手に持って振り回す事だ!。
 

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