讃岐七富士(県内各地)

2001年2月19日

山に学べ共生の原点

すっかり姿を変えてしまった現在の爺神山(上)と1958(昭和33)年に故十鳥義高さんが撮影した、かつての稜線=高瀬町
すっかり姿を変えてしまった現在の爺神山(上)と1958(昭和33)年に故十鳥義高さんが撮影した、かつての稜線=高瀬町

 だれが名付けたのだろう。讃岐に七つの富士がある。西から順に、江甫山(つくもさん)(有明富士)、爺神山(とかみやま)(高瀬富士)、飯野山(いいのやま)(讃岐富士)、堤山(つつまやま)(羽床富士)、高鉢山(たかはちやま)(綾上富士)、六ツ目山(むつめやま)(御厩富士)、白山(しらやま)(東讃富士)。中でも飯野山は秀麗な稜(りよう)線美で県内外に知られ、温和な讃岐の山を象徴する。

江甫
江甫山(有明富士)
堤山
堤山(羽床富士)
高鉢山
高鉢山(綾上富士)
六ツ目山
六ツ目山(御厩富士)
白山
白山(東讃富士)

 この中に「消えた山」として惜しまれている山がある。JR高瀬駅を降り立つと正面に見える爺神山がそれ。地元の比地小や高瀬高の校歌に歌い込まれた山も、採石跡が痛々しく、かつての面影はない。

 「昭和三十年ごろから始まった採石は、たった四十年で山を半分にしてしまった」と地元の人たちは顔を曇らせる。高度経済成長期、山は削られ続け、道路や建設資材になったという。繰り返される発破に「需要があるから止まらなかった」。権力も金もない住民たちになすすべはなく、騒音と振動、そして粉じんに毎日、悩まされた。「自然との共生」。そんな言葉もいまほど声高でなく、経済効率が優先された時代の出来事だ。

讃岐七富士

 徳島文理大などで教べんを執った小畑秀之さん(79)=高瀬町比地中=によると、爺神山はいまから百八十年ほど前、中腹にミニ八十八カ所が祭られ、村人たちの信仰を集めていた。松葉や薪など、生活に自然の恵みをもたらし、子どもたちにも格好の遊び場を提供した。

 飛行兵だった湯口春夫さん(78)もそんな、ふるさとの山の変化を憂う一人。南太平洋でひん死の重傷を負ったとき、「一番に脳裏をよぎったのが爺神山とおふくろの顔」だったそう。いまは、山から子どもたちの声までも奪った。地元のボランティアグループ「鈴石会」では、折に触れ、子どもたちに爺神山の思い出を語り継いでいる。

讃岐平野にひと際目立つ富士山型(ビュート)の代表格、飯野山=飯山町、城山中腹から西方を望む(多重露光)
讃岐平野にひと際目立つ富士山型(ビュート)の代表格、飯野山=飯山町、城山中腹から西方を望む(多重露光)

 元高松一高校長で日本山岳会会員の林巍さん(68)は「身近な里山は"学び"の宝庫」と力説する。里山は自然を知り、ふるさとを知る絶好の教材。命の尊さ、自然の大切さをはぐくむためにも七富士に限らず、身近な里山に親しむべきだという。

 昨年十月、八十歳で亡くなった十鳥義高さんは「いまだけを考えず、遠い将来の子や孫たちのために、立派な先人としての務めを果たすべき」と爺神山の保全を訴え続けた。豊かな暮らしを追い求め、手に入れた二十世紀。しかし、その一方で里山は、近くて遠い存在になりつつある。県内を見渡せば、そこここで里山が泣いている。

文・山下 和彦(生活文化部) 写真・鏡原 伸生(写真部)