新日本プロレスは3月6日に旗揚げ50周年を迎える。

新日本プロレスを旗揚げから支えてきた「ドラゴン」藤波辰爾は、68歳になったいまもアントニオ猪木氏(79)の言葉に救われる。「ファンに戻るんだよね」。ふとしたときに電話する。いつも2~3分程度。それでも「元気になる。60代の男がいまだにそんな思いになるんだから不思議だよね。心のよりどころというのかな」。柔和な笑顔をみせた。

レジェンドは猪木氏の背中を追い、新日本プロレスを築いてきた。同氏の付け人を務め、72年の旗揚げに参加。長州力や前田日明ら主力選手が次々と流出するなど、猪木氏に陰りがみえた88年には、「飛龍革命」で師匠に世代交代を迫った。社長時代には、オーナーとして横やりを入れる猪木氏が原因で「プロレスラー最強神話」が崩壊。選手や社員の気持ちはばらばらになり、興行動員も減少し、責任を取らされる形で04年6月に社長を解任された。歴史を振り返れば、単純な関係性ではなかった。

猪木氏との思い出で、真っ先に頭に浮かんだのは18歳時の記憶。「ジャングル置き去り事件」だ。付け人で同行した番組ロケで、アフリカのジャングルに取り残された。「『用ができたから』って先に帰っちゃうんだよ。テントの周りをマサイ人が取り囲んでいたし、獣の鳴き声が一晩中していて生きた心地がしなかった」。今となればいい記憶。若武者を成長させるための計画だったのか。猪木氏に理由を聞くと笑うだけだったという。

昨年に自身デビュー50周年を迎えた現在もリングに立つ。今でも「燃える闘魂」に教わったプロレスへの思いは尽きない。現役にこだわり続ける理由は「好きだから」。試合を迎えるワクワク感は、藤波の何にも代えがたいエネルギーだ。「誰のためでもない。プロレスを見届けたいという思いがあるんだよ」。50周年を越え、さらなる歴史を紡いでいく。【勝部晃多】

◆藤波辰爾(ふじなみ・たつみ)1953年(昭28)12月28日、大分県東国東郡武蔵町(現国東市)生まれ。70年に日本プロレス入りし、71年5月に本名の藤波辰巳でデビュー。72年に新日本旗揚げに参加し74年から海外修行。85年にIWGPタッグを獲得し、プロレス大賞MVP。88年にIWGPヘビー級王座戴冠。宿敵長州との対決は「名勝負数え歌」の異名を取る。90年に現リングネームに。95年に無我(現ドラディション)を旗揚げ。99年6月に新日本社長就任、04年に退任。185センチ、105キロ。