芭蕉忍者説尾崎広める

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文芸評論家の 尾崎秀樹さん
文芸評論家の 尾崎秀樹さん

 前回(昨年12月6日付の第4回)で、芭蕉忍者説の初出は、1966年の松本清張・樋口清之「東京の旅」(光文社刊)であると述べた。だが、松本と樋口はその後、芭蕉忍者説を主張することはなかった。代わりに、芭蕉忍者説の普及につとめたのは文芸評論家の尾崎秀樹ほつき(1928~99年)であった。

 「歴史の旅路」(日本交通公社刊、69年)の「芭蕉も忍者か?」以降、尾崎は繰り返し芭蕉忍者説を主張していく。その根拠として芭蕉の母親の血筋を挙げたのは、尾崎が初めてだった。

 尾崎は大衆文学の評論を得意とし、晩年は日本ペンクラブ会長を務めた。忍者研究では、足立巻一・山田宗睦との共著「忍法 現代人はなぜ忍者にあこがれるか」(三一書房刊、64年)がある。

 尾崎は、戦時中の大型スパイ事件である「ゾルゲ事件」に関与した尾崎秀実ほつみの異母弟であり、「生きているユダ」(59年)を皮切りに、ゾルゲ事件に関する書籍を多く著した。先述の「忍法」での執筆分担が分からないのだが、同書には「スパイへの招待」という章がある。尾崎が芭蕉忍者説に反応したのも、ある種、必然であった。

 80年代まで「歴史読本」など歴史雑誌の忍者特集では、現代の忍者としてスパイを紹介する章が常にあった。忍者・忍術とスパイの関係に言及したものでは、古くは、陸軍中野学校の教諭でもあった藤田西湖の著書に「忍術からスパイ戦へ」(42年)がある。

 忍者が世界的に知られるきっかけとなった映画「007は二度死ぬ」(67年)は、もちろんスパイ映画である。89年の冷戦終結以降の歴史雑誌に、スパイと忍者を比較するような文章は激減する。忍者・忍術からスパイ術を学ばなくてよい世の中は幸いである。

 尾崎は繰り返し芭蕉忍者説を主張したが、尾崎の力だけでは、現在ほど、芭蕉を忍者と疑うような発想は浸透しなかっただろう。斎藤栄「奥の細道殺人事件」(70年)をはじめ、芭蕉忍者説をもとにした文芸作品の登場が、この説を急速に拡散させた。次の担当回で、その過程を説明する。

吉丸雄哉教授
吉丸雄哉教授

 吉丸雄哉・人文学部准教授

 日本近世文学。東京大院修了。国際忍者学会の運営委員(編集)を務める。

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16439 0 三重大発!忍び学でござる 2018/04/11 05:00:00 2018/04/11 05:00:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2019/01/20180411-OYTAI50002-T.jpg?type=thumbnail

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