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“伝説のヘッスラ”から28年…10·8での立浪の左肩脱臼 すさまじかった『その先』ベンチの奥で彼は言った

2022年3月10日 10時16分

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94年10月8日、最終決戦で一塁へヘッドスライディングし、左肩を脱きゅうした立浪(左)=ナゴヤ球場で

94年10月8日、最終決戦で一塁へヘッドスライディングし、左肩を脱きゅうした立浪(左)=ナゴヤ球場で

◇渋谷真コラム・龍の背に乗って ◇9日 オープン戦 オリックス2―0中日(ナゴヤ球場)
 2軍が使用するナゴヤ球場は、かつては1軍の本拠地だった。中日ベンチは三塁側に移り「外野スタンドがなくなって、随分雰囲気が変わった」けど、立浪監督も1988年の入団から96年まで躍動した思い出の場所だ。「最も印象深い試合」を尋ねた。初安打や初本塁打も打っているが、選んだのはやはりあの試合だった。
 「いろんなことがありましたけど、なんやかんや言うて10・8ですかねえ」。94年の「国民的行事」。史上唯一の最終戦同率決戦に臨み、巨人に屈した。
 この球場で通算512安打を放った立浪は、この試合でも1本打っている。3点を追う8回。大阪・PL学園高の先輩・桑田真澄に3球で追い込まれ、4球目の146キロを「カットするつもりだった」が、三塁に高く弾んだ。三塁・岡崎郁が2バウンドで捕り、一塁で待つ原辰徳に全力で投げる。それより一瞬早く、立浪の左手がベースに触れた。
 「二塁にならありましたけど、一塁にヘッドスライディングしたのはあれが最初で最後。高校時代もなかったし、むしろやるなと教わっていました。考えてやったんじゃなく、気が付いたらやっていたんです」
 内野安打の代償は、左肩の脱臼だった。軽々しく気迫だ執念だと書きたくはないが、すさまじいのはこの先だ。ベンチ奥へ下がった立浪は、スタッフに「関節を入れてくれ」と頼んだ。戦場に戻ろうとしたのだ。ゴリッという骨がきしむ音と、激痛に耐えかねて立浪が漏らす声が何度か繰り返されたが、その場では元には戻らなかった。無念の負傷交代。それでも立浪は逆転をあきらめず、球場にとどまった。ようやく病院に向かったのは、巨人の優勝決定後だったそうだ。
 最初で最後のヘッドスライディングの古傷は、今でも触れればわかる。僕は立浪監督ほど負けを嫌う野球人を知らない。その男が「10・8」を選んだのは、よくやったと言いたいからではないはずだ。チームを背負って試合に出る重み。負ける悔しさ。28年たち、指導者となった今もなお、忘れないためだと思う。

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