京都市の今宮神社の参道にある一文字屋和輔は、あぶり餅だけを扱っている。創業は平安時代の長保2年(1000年)で、日本最古の菓子店といわれる。レシピ書きなどはなく、1000年以上も味を一子相伝で受け継いできた(記事中に登場する企業の創業年などには諸説ある)。

1000年以上受け継いできた一文字屋和輔のあぶり餅(写真=宮田昌彦、以下同)
1000年以上受け継いできた一文字屋和輔のあぶり餅(写真=宮田昌彦、以下同)

 今宮神社のある場所は、平安京がつくられる前から疫神を祀(まつ)る社があったといわれる。一条天皇の正暦5年(994年)に悪疫退散を祈る集い、紫野御霊会が開かれ、これが今宮祭のルーツになった。その数年後に疫神を鎮め祀るため、再び紫野の地で御霊会があり、神社が創祀(そうし)された。

 参道にある一文字屋和輔が手掛けるあぶり餅は、神社に奉納した餅と竹の「おさがり」を使い、小さく切った餅を炭火であぶり、竹を割ってつくった串に刺し、地元の白みそのタレで食べたのがルーツだ。あぶった餅の香ばしさにコクのある甘みのタレがよく合う。タレに砂糖を入れるようになったのは江戸時代の中期ごろからだ。

 あぶり餅は1人前11本。中途半端な数に思えるが、25代のおかみとして店を切り盛りする長谷川奈生(なおみ)さんは「七五三など神社のお祝いに関係する数字は奇数。これは平安時代の陰陽道(おんみょうどう)で奇数が陽でいい数字とされてきたから。本数はずっと奇数にこだわってきた」と話す。価格は1人前500円で30年ほど変えていない。

 一文字屋が屋号で、江戸時代まで代々の当主は和輔を名乗っていた。略して「一和」とも呼ばれる。平安時代の創業期を伝える文献などは店に残っていないが、長谷川さんによると、今宮神社の古い文献には門前にあぶり餅の茶店ができたことが書かれているという。

25代のおかみの長谷川奈生さん
25代のおかみの長谷川奈生さん

 建物内には平安時代からのものと伝わる井戸がある。この井戸で水を安定的に確保できたことが店が続いてきた理由の1つになった。井戸はつるべ式ではなく、らせん状の階段を使って地下に下りる形式だ。らせん状の階段がかたつむりに似ているため「まいまい井戸」とも呼ばれる。敷地内にある手水鉢(ちょうずばち)や屋根の鍾馗(しょうき)は安土桃山時代からだと伝わる。

 室町時代の応仁の乱で京都の街は多くが焼けた。それでもこのとき、今宮神社とともに一文字屋和輔は火災を免れ、災禍を逃れてきた近隣の人にあぶり餅をふるまった。茶人の千利休が、この餅を茶菓代わりに使ったこともある。これらは口伝であり、店には江戸時代に入ってからの文献が残っている。

 店頭のイス席のほか、庭を眺める座敷席もあり、今の形態になったのは大正元年ごろだ。一昔前までは氏子がお宮参り、七五三、結婚式などで神社を訪れるときに立ち寄り、主なお客となった。「私の子供時代も、お宮参りなどの帰りに寄って買い、家に戻ってから近所に配る人が多かった」と長谷川さんは振り返る。次第に観光客が立ち寄るようになり、店先であぶり餅を食べる人が増えた。コロナ禍前には8割が観光客になり、インバウンドのお客も多く訪れていた。

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