日本の破滅はここから始まっていた
昭和最大の「クーデター」知られざるウラ側
文/中田整一(ノンフィクション作家)
事件二年前の反クーデター計画案
1936年(昭和11年)の東京は、2月に入ると49年ぶりの暴風雪に襲われた。去年が戦後70年の節目なら、今年は2・26事件からちょうど80年にあたる。
私はかつて2・26事件の多くの生き証人たちに会ってきた。陸軍の青年将校らが蹶起した反乱事件に、戦前の陸軍は、軍部発表以外の報道を禁じて真相をひた隠しにした。やっと戦後の1950年代頃から関係者や遺族たちを中心に資料の発掘が進み真相究明は始まるが、長い間深い闇に包まれた。
事件後、この国は軍部主導で急速に右傾化、軍国主義、全体主義国家へ大きく舵を切った。やがて戦争へ邁進してわずか9年で破滅の淵に立つ。事件は昭和史の転換点となった。
私が2・26事件の二つの極秘資料をスクープしたのは、事件から43年後と52年後であった。
1つは事件当時、反乱軍の鎮圧にあたった戒厳司令部が、青年将校や軍上層部の電話を盗聴録音した20枚の録音盤の発掘。もう1つは事件後に反乱軍を裁いた一審即決、弁護人なし、非公開の特設東京陸軍軍法会議の秘録。主席検察官匂坂春平が50年間も自宅に秘蔵していた事件の謎と真相に迫る膨大な検察側資料である。
当時、これらはNHKの番組で放送され大きな反響を呼んだ。そこに生々しい歴史の傷跡、「戒厳令」の非情、人生のめぐりあわせの不思議、過酷な運命が浮き彫りになったからだ。まだ多くの人々に事件の記憶が残っていた。
事件の背景には政党政治の腐敗、昭和恐慌、そして農村の疲弊を憂える青年将校らの思いもあった。が、2・26事件の本質は陸軍のいわゆる「皇道派」と「統制派」の軍閥の争闘である。「戒厳令」下の裁判は、事件を巧みに利用して政治的実権を握った統制派が裁判を不当に歪め、陸軍の不祥事を隠したのが真相だ。
すでに事件2年前には統制派の少壮幕僚たちの手で「政治的非常事変勃発に処する対策要綱」という緻密に練られた反クーデター計画案が策定されていた。その後の軍部による事件処理と政治的権力の確立は、ほぼこの案に沿って行われた。
計画の中心となったのは統制派幕僚で参謀本部第二部第四課の片倉衷大尉。「われわれの計画は、万一事変がおこった場合、それを利用してやろうという狡い考えでした」と、彼が私に語った一言は今でも記憶に残る。「要綱」は、軍人らによる事変の勃発を予見し、軍部による国家体制の変革を狙う“カウンター・クーデター”の構想だった。