早稲田 九州発祥私学の雄 慶應、佐賀でライバル初の交流展

 日本の「私学の雄」といえば早稲田大学と慶應義塾大学だろう。ライバル心の強い両大だが、創設者は早大の大隈重信が佐賀、慶大の福沢諭吉が大分・中津と、ともに九州出身だ。2人に関する九州の記念館が、来年2月、初の交流展を企画している。2人が終生、友情を温めていた知られざる一面を紹介する。(村上智博)

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 公益財団法人「福沢旧邸保存会」(中津市)の吉田基晴事務局長(59)は今年7月、「ライバルを知ってみたい」とかねて興味があった大隈記念館(佐賀市)に初めて足を運んだ。

 吉田氏は大隈と福沢が同じ九州出身で、しかも父親を幼少時に亡くし、母親の愛情を受けながら勉学に励んだりと、共通項が多いことに気付いた。

 吉田氏を案内した大隈記念館の江口直明館長(67)は「2人の絆に焦点を当てる企画展を一緒にやりませんか」と提案した。

 9月29日、今度は江口氏が福沢の旧居内の「福沢記念館」に吉田氏を訪ねた。そこで、両氏は来年2月11日から3月27日にかけ、まずは大隈記念館で交流展を開くことで一致した。

 吉田氏は「九州が生んだ2人の偉人は、実は生涯、親交が深かった。九州内外の人に再認識してもらう機会にしたい」と語った。

 展示会のテーマは大隈と福沢の「絆」だ。『エピソード大隈重信』(早稲田大学出版部)などによると、福沢と大隈は明治4~7年ごろ初めて出会った。2人は意気投合し、福沢の門下生の犬養毅や尾崎行雄らを、大隈は自らのブレーンにした。

 大隈が国会開設をめぐり、伊藤博文らと対立した「明治十四年の政変」で下野してもなお、福沢との絆は途切れなかった。大隈が明治15年に設立した東京専門学校(早大の前身)の開校式には福沢の姿があった。

 こんな逸話もある。明治34年、福沢が亡くなった。大隈は福沢家に西洋花を届けたが、受付は「供花は一切受け取りません」と断った。大隈の使いの者はこう言った。

 「この花は大隈が手塩にかけ、温室で育てた花を福沢先生の訃報を聞き、涙ながらに切って作ったんです。これを返すとはあんまりではないですか」

 この話に福沢家の受付も感激し、葬儀で他から供えられた唯一の花になったという。

 江口氏らは現在、交流展に向け、こうした2人の親密な関係をうかがわせる逸話を集めている。パネルなどで紹介するという。

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 「ハンカチ以来パッとしないわね、早稲田さん」「ビリギャルって言葉がお似合いよ、慶應さん」

 今年初夏、両大学が作った挑発的なポスターが話題になった。「ハンカチ」とは早大OBで日本ハムの斎藤佑樹投手。「ビリギャル」は学年最下位から勉強して慶大に合格したと映画にもなった女子高生のことだ。

 とかく両大はライバル意識を燃やす。野球でも早稲田の学生が「早慶戦」と言えば、慶應側は「慶早戦」というほどだ。九州で開かれる交流企画展の名称は、福沢と大隈、どっちが先に登場する?

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【用語解説】慶應義塾大学

 本部は東京都港区三田。1858(安政5)年創立。「独立自尊」が教育の柱。慶應義塾では「先生」は福沢諭吉だけだとの思想から、教員を「◯△君」と呼ぶ習慣がある。シンボルマークは「ペンマーク」で「ペンは剣よりも強し」に由来する。校旗はペン章を含んだ三色旗。応援歌「若き血」の最後の歌詞をとり「陸の王者」とも呼ばれる大学だ。義塾の「義」は「社会のため協力する」の意味がある。現在、約3万4千人の学部・大学院生が学ぶ。平成20年に創立150年を迎え、薬学部を開設した。

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【用語解説】早稲田大学

 本部は東京都新宿区戸塚。1882(明治15)年創立。大隈重信の別邸が「東京都豊島郡早稲田村」にあり、1902(明治35)年、早稲田大学に改称した。えんじのスクールカラーで、「都の西北 早稲田の杜に」のフレーズで始まる校歌が有名だ。校章は「大学」の文字の両脇にたれる稲穂がモチーフ。大学の顔である「大隈講堂」は国の重要文化財で、1927(昭和2)年に竣工した。現在の学部・大学院生は計5万3千人。平成24年、創立130年を迎えた。同窓会組織は「稲門会(とうもんかい)」などと呼ばれる。

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