占領とは何か 接収された山本有三邸が伝える実情

かつて接収された山本有三邸=6日午前、三鷹市(内田優作撮影)
かつて接収された山本有三邸=6日午前、三鷹市(内田優作撮影)

今月28日でサンフランシスコ講和条約発効から70年。戦後日本にさまざまな影響を及ぼした占領体制の余波を受けた1人が、「真実一路」「路傍の石」で知られる作家の山本有三(1887~1974年)だ。米軍関係者に供用するため三鷹の自邸を接収された山本。その山本邸を利用した三鷹市山本有三記念館(同市下連雀)で開かれている特別展「山本有三邸と接収」では、豊富な資料とともに〝被占領者〟としての山本の姿を伝えている。9月4日まで。

文化活動の拠点にも

大正15年に完成した山本邸は、当時では珍しい鉄筋コンクリート造りの2階建てで、旧帝国ホテルなどの設計を手掛けた建築家、フランク・ロイド・ライトの影響を受けたとみられるデザインが目を引く。同館学芸員の三浦穂高さんによると、山本は前所有者から買い受けて昭和11年から家族と暮らし、私設の研究機関を置くなど文化活動の拠点としても活用していた。

状況が一変したのは終戦後の21年のこと。占領軍は関係者の居住用に一定の条件を満たした洋式住宅を接収し始め、山本邸も同年2月にまとめられた約700件の接収対象のリストに入れられたのだ。

自邸の庭園に立つ山本有三=昭和13年夏(三鷹市スポーツと文化財団提供)
自邸の庭園に立つ山本有三=昭和13年夏(三鷹市スポーツと文化財団提供)

山本は接収を避けるため、あらゆる方向への工作を試みた。現在も残る山本宛ての書簡からは、当時の読売新聞社社長、馬場恒吾(つねご)や文部省幹部にGHQへの働きかけを依頼していたことが分かっている。また、山本の長女、永野朋子さんは、母親とともに横浜まで接収関係者の自宅を訪ねて免除を懇願した記憶を回想録に記している。

米軍高官の住宅に

工作のかいなく、同年11月、山本邸は「U.S.House NO.843」として接収され、埼玉県朝霞市の「キャンプ・ドレイク」に勤める米軍高官の住宅に供用された。家を失った山本は志賀直哉に紹介された渋谷区代々木の住宅に間借りした後、大田区新井宿へ転居した。

接収に当たっての補償は十分とは言いがたい。展示されている賃貸借契約書にある日付は接収から約2年が経過した23年10月9日。月の賃料は、都の公立小学校教員の初任給が2000円の時代に496円という破格の安さだった。

接収は26年12月に解除された。邸宅は山本の元に戻ったが、壁にはペンキが塗られ家具も傷ついていた。家屋や家具の変化を記録した「返還財産異動状況明細書」を見ると、「破損率」の項目は軒並み50%を超えている。本棚をはじめなくなった家具まであった。

変わり果てた自邸に山本の落胆は深かったようだ。永野さんは回想録で「あちこちペンキが塗られたり、かなり手を入れられていたので、父はもうそこに住む気になれなかった」と記している。当時は参院議員で、国会への移動の関係からも山本が三鷹へ帰ることはなかった。山本邸は約1年、国立国語研究所の分室として使われた後、31年に都へ寄付されて図書館となり、平成8年に現在の記念館が開館した。

戦後の活動の原動力

山本が公に接収を振り返ったのは、昭和40年に三鷹市の広報紙へ寄せた文章に「敗戦の結果、私は家を接収され、懐しいミタカを立ちのかなければならないことになった」「もし、家を接収されなかったら、私も市民として、ミタカにとどまっていたことであろう」とつづった程度にとどまる。その心中をうかがわせる記述はほとんどない。

山本有三が自邸を接収された際、国と交わした賃貸借契約書=6日午前、三鷹市山本有三記念館(内田優作撮影)
山本有三が自邸を接収された際、国と交わした賃貸借契約書=6日午前、三鷹市山本有三記念館(内田優作撮影)

戦後の山本は文化国家の建設を掲げて参院議員に当選。国立国語研究所の設置に尽力したほか、日本国憲法制定に当たって平易な口語化を唱え、自身も原案に手を加えた。独自の立場で日本の復興に携わった山本の足跡について、三浦さんは「接収の衝撃で敗戦後の日本への危機感を高めたことが、戦後の活動の原動力になったのではないか」と指摘している。(内田優作)

■サンフランシスコ講和条約 米英など48カ国と日本との間に結ばれた先の大戦終結のための条約。昭和26(1951)年9月8日に調印、翌27年4月28日に発効された。日本の主権を承認し、7年近くに及んだ占領統治が終結した。ソ連などは加わらず、自由主義陣営との「単独講和」か、ソ連などを含めた「全面講和」かをめぐる「講和論争」は国論を二分した。

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