城郭探訪

yamaziro

矢島御所(矢島館) 近江国(守山)

2014年01月10日 | 平城

矢島御所は、現在の自治会館のあたりにあったとされ、会館前に石碑

お城のデータ

所在地:守山市矢島町   

map:http://yahoo.jp/6SxjWAこの地図のURL

別 名:矢島館

区 分:居館

現 状:宅地

遺 構:堀跡・土塁跡・石碑

築城者:矢島越中守

築城期:天文年間(1532~54)

城 主:足利義昭

目標地:少林寺・矢島自治会館

駐車場:矢島自治会館の駐車場

訪城日:2014.1.9

石碑より

 奈良、一乗院門跡は永禄八年五月に甲賀の和田惟政の館を経てこの矢島少林寺に入室した。観音寺山佐々木六角承禎の命に依って建立した館を本拠として、土豪矢島越中守に庇護を受けて永禄九年二月に還俗して名を足利義秋(後の義昭)と改めた。同年九月に西江州にて三好長逸の乱あり永く続かなかった矢島の館を去ることになる~

堀跡?(児童公園)

少林寺

一休(一休さん)禅師の居住地。滋賀県守山市矢島町1228

HPより

矢島町のほぼ中央に禅宗の名刹である少林寺がある。文明年中(1469~1487)に一休宗純の嗣法である桐嶽紹鳳が興したのが少林寺で、現在も数多くの文化財を伝える。
一休和尚像一幅は墨谿の筆による肖像画であり、椅子に坐した和尚と太刀が描かれていて、享徳元年(1452)の銘の和尚直筆の賛があるところから、一休存命中に完成された代表的肖像画である。

境内の足利庭園

少林寺本堂

一休禅師お手植えの『ヒイラギ』

境内の足利庭園

歴 史

 矢島館は、在地領主矢嶋氏の居館である。守山市公文書館発行の『守山城物語』には、天文年間(1532~54)の築城とあるが、詳細は不明。       永禄八年(1565)、将軍足利義輝が暗殺されると、興福寺を脱出した義輝の弟覚慶(義秋⇒義昭)は甲賀の和田氏を頼った。さらに覚慶は、観音寺城の六角承禎を頼り、承禎は矢島に覚慶の居所を建築した。

覚慶は矢島で還俗し、足利義秋と名乗った。後の足利義昭である。矢島の義秋居館は矢島御所と呼ばれ、矢嶋越中守が警固に当たった。永禄九年(1566)、西近江で三好長逸が乱を起こし、矢島御所にも三好三人衆の兵が攻め寄せたとされる。また、庇護者であるはずの六角承禎・義治父子が三好三人衆と結んだとの情報にも触れ、義秋は矢嶋御所を去り、若狭へと下った。それゆえ、実際に矢島御所と呼ばれたのは1年少々に過ぎなかったことになる。

江戸時代には、矢島周辺は大溝藩分部氏2万石の領地となり、現地案内板によれば、御所跡に飛び地である矢島周辺の統治のための行政府が置かれた。

現 状

 矢島御所は、現在の自治会館のあたりにあったとされ、会館前に石碑が建てられています。隣接する児童公園に当時の堀跡があるとされていますが、判然としませんでした。また自治会館の西にある少林寺は、矢島館の跡ということです。境内に土塁が残っているとのことですが、新築の割に余り手入れされておらず、どこが該当箇所か良く分かりませんでした。

矢島御所は、おそらく矢島館の外側に隣接して増築され、両者が一体となって城郭としての体を成していたものと思われます。最後の将軍が過ごした由緒ある場所とは思えないほど集落。

 

隣の武道神社

参考資料:現地石碑文・滋賀県の城・少林寺HP・守山城物語・滋賀県中世城郭分布

本日も訪問、ありがとうございました。


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