関西に「国産ビール発祥地」?(謎解きクルーズ)
苦い失敗も…商魂支えに
北新地 綿問屋が私財を投入/京都 府立の研究所で製造/吹田 日本初、瓶を自社生産
残暑を吹き飛ばそうと、仕事後にビールを楽しんだ帰り道。大阪・北新地をほろ酔いで歩いていると「国産ビール発祥の地」と書かれた碑を見つけた。歓楽街にふさわしいと言えばふさわしいが、あまりにも出来過ぎでは?
早速、碑を設置した大阪市教育委員会を直撃した。「大阪で初のビールが醸造、販売されたのは1872年の『渋谷(しぶたに)ビール』です」。市が独自に名所などを指定する「顕彰史跡」の担当者、市教委の鈴木慎一研究副主幹が説明してくれた。
市によると、明治政府が大阪に設置した通商司支署「関商社」の工業部門がビール製造を計画。米国人醸造技師フルストを雇い入れたが、計画は頓挫する。大阪で綿問屋を営む渋谷庄三郎が私財を投じて計画を引き継ぎ、フルストの指導のもと日本人が醸造した。
実は日本で初めてビールが製造されたのは大阪ではない。横浜・山手だ。大阪より早い69年、ローゼンフェルトという人物が醸造所を開設。70年には米国人コープランドが醸造所を作り生産を始め、のちのキリンビールにつながる。
一方、渋谷ビールは「川口居留地」(現在の大阪市西区)の外国人らに販売したが、日本人には不評で経営は悪化。81年に庄三郎が亡くなると醸造所も閉鎖してしまう。
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碑の「発祥」はどういう意味か。鈴木さんは「『日本人による商業生産』との趣旨」と説明。やや苦しい解釈だが「横浜に対抗するのではない。果敢にビール造りに挑んだ大阪商人を知ってほしい」とまとめた。
何となく後味がすっきりしない。酒造りの歴史に詳しい吉田元・種智院大学名誉教授(発酵醸造学)にも話を聞くと、「京都にも明治初期にビール造りの取り組みが多くありました」と教えてくれた。最も早い「京都舎密(せいみ)局麦酒醸造所」は77年、清水寺境内の「音羽の滝」の隣に建設され、醸造を始めた。
「舎密」は「chemistry(ケミストリー、化学)」の意で京都府が70年、産業振興のための研究所として設置。「お雇い外国人」を招き、せっけんや陶磁器などの製造法を学び、ビール醸造にも挑んだとされる。だが吉田さんも「製造法や原料の入手方法など詳しいことは分からない」。結局、約4年で終わってしまったようだ。
ほかにも京都では83~87年、「扇ビール」「井筒ビール」「九重ビール」「兜(かぶと)ビール」などの商品名で、民間企業によるビールが数多く造られた。
江戸末期から明治初期、麦を原料に、麹(こうじ)を使って日本酒と似た製法で作る「麦酒(むぎざけ)」は京都名物だった。吉田さんは「京都人は新しいもの好きな一面もある。ビール造りが京都で相次いだ背景にあるのかも」とみる。
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とはいえ、古都京都もビール造りの古さでは横浜にかなわない。何かビールにまつわる「日本初」が関西にないだろうか。アサヒビール発祥の地、大阪府吹田市の吹田工場を訪ねると、「初もの」が見つかった。
同社は93年、日本で初めてビール瓶の自社生産を開始。当時は輸入ビールの空き瓶を再利用するのが一般的だった。アサヒグループホールディングス資料室の鈴木芳彰さんは「欧米に負けない国産ビール造りを目指した証し」と胸を張る。
同社の前身の大阪麦酒会社は91年、吹田市に醸造所を作り大量生産に乗り出す。創業当時はビール輸入量が急増し、ようやく日本人にビールが親しまれつつあった時期に当たる。国産ビール醸造の近代化は急務で、技師を本場ドイツに1年留学させるなど大規模資本を投じて最新の設備、技術を導入した。工場には日本のビール業界の発展に貢献した同社社員や関係者をまつった「先人の碑」があり、毎朝、慰霊と感謝の花がささげられる。
工場は一般の見学も受け付け、多くの老若男女が訪れる。歴史や製法を学んだ後、記者も試飲ビールを頂く。明治初期、関西に現れては消えた多くの"泡沫(ほうまつ)ビール"。国産ビールの黎明(れいめい)期を支えた先人に思いをはせながらグラスを傾けると、おいしさが喉にじんわり染みてきた。
(大阪社会部 倉辺洋介)
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