船場の再編、独立守るヤギ 「五綿八社」の興亡(6)
軌跡
朝鮮戦争特需の反動不況後、関西の繊維商社「五綿八社」はどうなったか。
「関西五綿」は持ちこたえたが、宮本又郎・大阪大学名誉教授によると「船場八社」のうち岩田商事は破綻。丸永と田附は、関西五綿の日綿実業(日本綿花から社名変更、現双日)に合併された。竹村綿業は帝人のグループ企業と合併。又一は金商と合併後、三菱商事の系列に。竹中は住友商事の系列に入った。
船場八社を襲った淘汰再編の嵐に耐え、船場に残って経営の独立性を保ったのが八木商店(現ヤギ)だ。
京都出身の八木與三郎が1893年、大阪市に綿糸商として創業し、初代社長となった。鐘淵紡績(現クラシエホールディングス)の武藤山治に敬意を抱いて交流を続け、鐘紡の製品取り扱いに力を入れた。
創業20周年の1913年に近代的企業への脱皮を決意し、本店を赤レンガ造りの洋館に改築。従業員の呼び方も江戸時代からの「……どん」をやめ、「君」付けに改めている。進取の精神が旺盛だった。
社是は「終始一誠意」。伊藤忠商事、丸紅の創業者が「嘘をつくな」と戒めたのと通じる。
なぜヤギは生き残れたのか。八木隆夫社長は「創業者に慎重さがあり、会社が苦しいときには私財をなげうってきた。会社も真面目な遺伝子を受け継いでいる」と言う。朝鮮特需の反動による痛手も、他社よりは小さかったようだ。
八木社長は会社の特徴を「アメーバのように環境変化に敏感」と話す。例えば海外拠点。進出を決めるのも速いが、危ないと思ったら素早く撤退する。
二代目社長の杉道助は吉田松陰の実兄の孫で、大阪商工会議所の会頭を務めた。戦後復興、貿易振興に力を尽くし「五代友厚の再来」ともいわれている。