集団移住、先人の教訓 地域再生 震災が問う(2)
「川がせき止められて湖ができるなんて、まさに明治22年(1889年)の十津川大水害と同じだ」。9月上旬、北海道新十津川町の後木祥一さんは、奈良県十津川村の知人から携帯メールで送られた十津川の写真を見て衝撃を受けた。
「十津川」の縁
122年前の夏、十津川村を襲った豪雨は「山津波」と呼ばれる土砂崩れを1千カ所超で引き起こした。死者168人、村人口の2割に当たる約3千人が家や田畑を失い路頭に迷った。
この苦境から村民2489人が北海道に移住して築いたのが今の新十津川町である。後木さんはその末裔(まつえい)で、移住した先祖から数えて5代目。現在は町産業振興課長として十津川村と物産交流を進める立場にある。
新十津川町は十津川村を「母村」と呼んで交流を深めてきた。今回も被災した母村に職員3人を派遣、植田満町長は「十津川大水害もやはり百年に一度起こるのか」と母村を案じる。
十津川村の集団移住は被災後わずか2カ月で2500人近くが北海道に向かうスピード移住だった。それを可能にしたのは一つに政府の手厚い支援がある。十津川郷士は古来、朝廷に忠勤を尽くし、幕末には勤皇派として官軍に貢献。政府の信頼も厚く、移住費の大半を政府が負担した。
もう一つは指導層のリーダーシップだ。在京の十津川出身者が主導し、政府が開拓を急いでいた北海道への移住が適当だと判断した。9月7日に北海道長官に協力を求め、9日には被災者に移住の勧告文を送付。18日から村で説明会を開き、希望者を募って月内に移住者名簿を作った。
新雪が舞う11月までに北海道に着くため、迷う村民を駆り立てた感は否めない。しかし母村を上回る人口を抱えるまでになった今、植田町長は「時間をかけると被災者にいろいろな思いが出てくる。短期間で移住を決めた先人の決断力に感謝したい」と話す。
500年間続く慣習
集団移住の歴史は古い。三重県鳥羽市に「高台に集団移住した国内最古の例」という集落がある。伊勢神宮に献上する熨斗(のし)あわびで知られる国崎町で、約1万人が犠牲になった1498年の大津波の後、海辺から高台に移った。
ここでは500年たった今も海辺に民家はほとんどない。国崎町の歴史に詳しい常福寺の華谷賢光住職は「この辺りでは津波の教訓から家は高台に建てるのがしきたりで、漁師も高台から浜に通うのが普通になっている」と話す。
災害の危険がある地域で移住を支援する国土交通省の事業では1972~2010年度に35市町村、1834戸が移転した。ただ、07~10年度は例がない。今回被災した奈良県や東北の東日本大震災の被災地でも高台移住の構想が出ているが、なかなか見えない政府の支援策や一筋縄ではいかない住民の合意形成など課題は多い。
集落移転を考える共同研究会「撤退の農村計画」の斎藤晋さんは「住民をまとめるリーダーのほか、経済的負担を減らすための公営住宅整備などの支援が必要だ」と指摘する。時代背景は異なるが、移住を促す要件は今もそう変わらない。
「新十津川町があるのは集団移住を決断した先人のおかげだ」。後木さんがこう話すように、百年に一度といわれる災害が頻発する今、百年後の子孫に感謝される町づくりを考える時ではないだろうか。